TOMO's Art Office Philosophy

作曲家・平山智の哲学 / Tomo Hirayama, a composer's philosophy

アマチュアの作曲依頼は(ときどき)作曲家の想像と発想を超えてくる

2022年04月14日 | 作曲とはなにか
ヨハン・ハルヴォルセン「バイオリンとビオラの為のパッサカリア」チューバ・デュオで吹きたいと思う人がいるだろうか!?
いる。。。ハッケちゃんである(妻のオケ仲間)。

いや、いい曲だとは思う。
ヘンデルの名旋律を古典的ながら趣きある変奏で仕立てた名曲だ。

でも、これ、あくまで弦楽器のデュオだからね。タイトル見たらわかるよね(笑)
チューバは金管楽器かつ、低音楽器かつ、吹奏楽器だから。
「となりのトトロ」と「攻殻機動隊」くらい違う世界の話なんですよ!

でも、ハッケちゃんはこの曲が超大好きらしくて、やると決めたらやるらしい。
それならっ!ってんで平山流にアレンジさせて頂いたのが画像の編曲である。
幸い私はホルン出身なので、金管楽器については「理論/構造上の制約」に加えて
「(プロ・アマの)フィジカルな制約」を理解している。
ハルヴォルセンの変奏を活かしつつ、明らかに演奏困難な箇所は大胆にカット。
代わりに少々現代的な響きのオリジナルの変奏を挟み込ませて頂いた。

個人的には結構自然な作品に仕上がったと思う。
チューバって意外と音域が広い上に、技術の進歩で可動性も向上しているから、
表現の可能性は思っていたより広いことがわかった(恥ずかしながら)。

そんな気づきが得られたのもハッケちゃんの「大好き」が突き抜けていたからこそ。
芥川也寸志大先生が「アマチュアこそ音楽の本道」と述べておられるが、
正鵠を射ていると感じた次第である。

ハッケちゃん、頑張って下さい!

楽譜の購入はこちら↓
https://www.creema.jp/item/14142205/detail/

芥川也寸志「音楽の基礎」は平易にして音楽の核心を突いた名著なので強くお薦めします。

※稀に理論/構造上の制約すら理解せずに作曲する人がいるが、99.99%は紙屑だと断言できる。0.01%くらいの確立で天才的な発想の飛躍がありえることは否定しないけど。

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2020年コロナ禍~今、作曲家がすべきこと

2020年05月04日 | 作曲とはなにか
作曲家というのは幸せな生き物だ。
この閉鎖と隔離の状況下でも書き続けることが出来る。
もちろん、演奏会や録音は中止になり、依頼は当然無くなった。

でも、書き続けることで我々は思考し、生きる意味を問い、
来たるべき新しい時代の価値観とものの見方を探ることが出来る。

運が良ければ、前を向き続ける演奏家たちと、それを世に問うこともできる。
音質や空気感はライブに遠く及ばないけど。

医療、介護、観光、飲食など苦悩の日々を送る人たちに感謝と心ばかりの物資を送りつつも、
僕は今日も書くことをやめない。
いつ如何なる状況でも創造を続けるのが、真のクリエイターだ。

From Ode To Joy

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アイヌの音楽についての覚書

2019年09月03日 | 作曲とはなにか
北海道へ長期出張の機会を得たので、アイヌの音楽に関する覚え書きを。

アイヌの言葉に「音楽」に対応するものは無いそうです。
なぜならアイヌ音楽は即ち「歌」であり、生きる喜びの表現に他ならないから。
アイヌにもトンコリやムックリと言った楽器はありますが、使われる地域や用途は極めて限定されていた模様。
「歌」は手拍子や踊り、さらには労働作業を伴って奏されることが多く、
あくまで生活の一部であることがうかがえます。

アイヌの「歌」に特定の音階はありません。
正確に言うと、西洋式の音階理論で捉えるにはあまりにも「歌」の概念が広すぎるのです。

伊福部昭は音楽芸術誌1959年12月号に寄せた論文「アイヌの音楽」にて以下のように述べています。

「彼等の音階は、一般に半音音階であると言われているが、
Sakoro Itak, Yukar Itak 等は半音より小さな音程で飾られることが珍しくなく、又 Yaishama nena 等にあつては、完全な五音音階を示しているので、
今ここに彼等の音階が何の様なものであるかを決定するのを避けたいと思う。」


実際、特筆すべきはアイヌの「歌」の概念の広さです。
アイヌにとっては漁師の掛け声や木こりの斧の音も「歌」になります。
それどころか鳥や蛙、熊の鳴き声も「歌」であり、風や波の音も「歌」として模倣の対象となります。

これが手拍子や舞踏を伴って「歌われる」わけですから、五音音階やテトラコードの組み合わせで分析するのは不適切。
伊福部昭の判断は極めて妥当だと言うのが私の考えです。
もちろんアイヌの五弦琴であるトンコリのように調弦(Cis-Dis-Fis-Gis-Ais)されている楽器もありますが、
あくまで「歌」の付属物という位置付け。メロディーは調弦に捉われず、自由奔放に遷移していきます。

森羅万象、ありとあらゆる存在が等しく価値を持ったものである。動植物は神の化身である。

というアイヌの思想が根底にあるものと思います。
メシアンやケージが知ったらさぞ感動するでしょうね。「なんてクールな民族なんだ!」って(笑)

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作曲とは哲学である

2019年06月28日 | 作曲とはなにか
僕は作曲で人の心を動かしたいと思います。

その為には奏者に共感してもらわなければなりません。
だから奏者や楽器の特性を徹底的に研究します。

奏者に共感してもらうには、自分の中に伝えるべき「何か」が無ければなりません。
だから日々考え続けます。

つまり、作曲とは哲学なんです。
故・平山美智子の教えであり、僕自身の信念です。


I want to move audience's heart.

To do so, I have to make players to sympathize me.
So, I do my best to know the players and their instruments.

To make players to understand me, I should have 'something' in my heart to express.
So, I keep on feeling and thinking.

Composition is philosophy for me.



https://www.youtube.com/playlist?list=PLyhI7hieG4PHSRRgzvO55r3d2t_P3gJ0z

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芸術とはなにか~ステートメントとしての芸術論

2019年02月17日 | 作曲とはなにか
本論で述べるのは「理想論」としての芸術である。「芸術とは如何あるべきか」という私個人のステートメントとしての「芸術論」である。「芸術」という概念の歴史学的考察、社会学的分析についてはジェーン・E. ハリソン、ジャン・ボードリヤール等の優れた論文を参照されたい。概念の発生経緯や消費社会における芸術の機能に関する知見が得られるものと思う。

さて、芸術とは以下2点を必要条件とする現象であり、表現である。(なぜ必要「十分」条件ではないのか、という問いについては別途詳述したい)

1・寿福増長の法としての芸術

我が国最古の体系的芸術論として「花伝書(風姿花伝)」があげられる。これは能の大成者たる観阿弥、世阿弥がその芸(申楽)の本領を発揮する為の具体的な方法論から人としての生き方まで洞察した稀有な書物である。芸術(アート)という概念すらない時代にこのような思想が存在したという事実は刮目に値する。

さて、花伝書の奥義に「芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、遐齢延年(かれいえんねん)の法なるべし」という一節がある。ここで言う芸とはあくまで申楽を指したものであるが、これを芸術(アート)と置き換えても現代に通ずる優れた定義と言えよう。芸術とは「人々の心と人生を豊かにするものであり、知識の多寡や社会的地位に関係なく誰もが感じとれるべきもの」というシンプルかつ力強いメッセージは普遍的な思想として受け継ぐべき宝である。


2・ものの見方、価値観の転換としての芸術

「既成の価値観を変えるものは、アートと呼びうる」

オノ・ヨーコの言葉は現代における芸術(アート)の役割を端的に表現している。マルセル・デュシャンが展覧会に自分のサインを施した男性用小便器を置いた瞬間、小便器は排泄設備という意味をはぎ取られ、純粋なオブジェとして人々の前に現象した。デュシャンの表現には当然の如く同時代のアートに対する痛烈な皮肉が込められており、必然的に賛否両論の議論を巻き起こす。しかしながら「レディ・メイド」と題されたこの作品が「ものの見方」「既成の価値観」に大きな変革をもたらすものであったことは歴史によって証明済みと言えるだろう。
私は既成の価値観に疑問を投げかけ、新しいものの見方を提示することこそ芸術の本懐であると考えている。私と同世代の哲学者マルクス・ガブリエルも現代社会における芸術の役割を以下のように述べている。

「芸術の意味は、通常であれば自明にすぎない物ごとを、注目するほかない奇妙な光のもとに置くことにあります。」

しかしながら、一点重要な注釈を施さねばならない。オノ・ヨーコが絶妙な言い回しで表現した通り、既成の価値観を変えるもの全てが芸術の資格を得るわけ「ではない」ということである。2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルに突入した2機のジャンボジェットは我々の世界観を一瞬にして変えてしまった。当時高校生だった私はリアルタイムで世界的なパラダイム転換の場に遭遇したと言える。だが、9.11アメリカ同時多発テロは決して芸術ではない。単なる犯罪行為である。(さらに私の立場を明確にするなら、その後のイラク戦争も無思慮な殺戮行為でしかない)。なぜならテロ行為は芸術の必要条件たる寿福増長の理念に真っ向から対立するものだからである。

もちろん、人間の心の闇を白日の下にさらすことも芸術の一つの意義であることは私も認めるところであるし、芸術の提示する価値観は多様で両価値的であるべきだと考えている。ただ、それは無思慮な破壊行為や他者の尊厳を傷つけるものであってはならない。



<参考文献>

ジェーン・E. ハリソン 古代芸術と祭式 (ちくま学芸文庫)

ジャン・ボードリヤール 消費社会の神話と構造 新装版

観阿弥・世阿弥 花伝書(風姿花伝) (講談社文庫)

マルクス・ガブリエル なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

巖谷 國士 シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

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作曲とはなにか4~編曲と本歌取り

2015年07月19日 | 作曲とはなにか
「編曲」とは和歌の「本歌取り」のようなものだ。

 「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも かくさふべしや」

万葉集に収められた額田王の名歌は紀貫之の下記の歌を下敷きにしている。

 「三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ」

額田王は紀貫之の上2句をそのまま引用しているわけだが、
イメージの重層化の手法として「本歌取り」を駆使している点で白眉なのだ。
飛鳥から大津への遷都の寂しさを貫之の描いた春霞と重ね合わせることで、
単なる「悲しみ」から豊かなイメージ(想い出)へと膨らませているのである。

「編曲」もまた然り。
既存のメロディーの引用は単なる知識と技巧のひけらかしで終わるべきではない。
誰もが知っている曲を下敷きにすることで、新しい世界観に奥行と豊かな感情を与えるものであるべきだ。

もちろん、原曲を忠実に再現する(編成や構成を変えて)編曲も需要があるのは間違いないが、
「作曲家」が取り組むべき編曲とはこのような創造的な行為であるべきだと私は思う。

既存のメロディーの和音を付替えたり、編成を変えるだけなら
コンピューターで簡単にできてしまう時代なのだから。



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風姿花伝~第五・奥義に云ふ 覚書

2014年11月23日 | 作曲とはなにか
風姿花伝~第五・奥義に云ふ(世阿弥)より覚書

私儀に言ふ。そもそも、芸能とは諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、遐齢延年の法なるべし。

一、この寿福増長の嗜みと申せばとて、ひたすら世間のことわりにかかりて、もし、欲心に住せば、これ第一道の廃るべき因縁なり。道の為の嗜みには寿福増長あるべし。寿福のためのたしなみには、道正にすたるべし。道すたらば、寿福おのづから滅すべし。正直円明にして、世上万徳の妙花を開く因縁なりと、嗜むべし。


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作曲とはなにか3~「構築する作曲」から「探す作曲」へ(後編)

2014年05月06日 | 作曲とはなにか
「音楽は誰のものでもない。音符をたどることでも、作曲家の意図にしたがう事でもなく、なにかを発見することだ。」by 高橋悠治

21世紀の作曲の概況を大雑把にまとめると次のようになるだろう。

①西洋音楽理論(調性音楽、12音音楽等々)の崩壊

ウィーン世紀末、ワーグナーで絶頂に達した調性音楽は徐々に揺らぎを見せはじめる。マーラーしかり、シェーンベルクしかり。主音とそれに隷属する他11音、長調と短調という調性音楽の骨子は外され、シェーンベルクによる十二音技法(実質的な無調音楽)が誕生する。それに続いて、1960年代のアメリカの実験音楽。ジョン・ケージらに代表される前衛的な音楽は12音という束縛さえ逃れ、音楽そのものへの問い直しが行われる。


②作曲方法の多様化

中編で述べたDTMに代表されるように、作曲はもはや一部の職人の仕事ではなくなり、誰でも行える行為になった。コンピュータでの打ち込みやMIXING、様々な録音技術によって作曲の方法は広がり続けている。「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」に出演した楽譜の読めない電子音楽家Murcofなどそのいい例だろう。


そうなると、作曲とはもはや音を一定の規則に基づいて組み立てる(「構築する」)行為ではなく、より良い音、より新しい響きを「探す」行為になったと言ってよい。そこにもはや理論的な制限はなく、作曲方法の地平は無限の広がりをみせる。

だが、同時に我々は音楽(音)の「意味」をも「探す」ことになる。古代ギリシャの旋法が星や宇宙、神への賛美であったように音楽理論は常になんらかの「思想」や「意味」を伴っていた。翻って現代の「なんでもあり」音楽状況は我々に新たな問いを突き付ける。音楽(音)とはなにか、作曲とはなにか。音響と共にその意味を問い、探し続けることが現代の作曲家の使命なのではないだろうか。










Silent, Chaotic, Beautiful ¥200
Composer/Tomo Hirayama
Piano/徳山美奈子


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作曲とはなにか3~「構築する作曲」から「探す作曲」へ(中編)

2014年04月06日 | 作曲とはなにか
さて、皆さんはDTMという言葉をご存知だろうか?DTMとは「desktop music」の略で、パソコンを利用して音楽制作をすることを指す。1990年代から急速に一般に普及していき、現在ではDTMを利用しないミュージシャンはほぼ皆無と言ってよい状況だろう。メジャーなDTMソフトとしては「Pro Tools」や国産の「Singer Song Writer」、クラシック系の作曲でよく使われる「FINALE]や「Sibelius」があげられる。これらのソフトは音符やMIDIキーボード等で打ち込んだ音(音程、音長、音量等のデータ)を記録し、音源モジュール(シンセサイザなど)を利用して再生することができる。つまりピアノやギターがなくともパソコンとソフトウェアがあれば、「誰でも」曲を作ることができるのだ。

このDTMで可能になったことを要約すると、下記のようになるだろう。

①擬似演奏…楽器が無くとも音を出すことができる。
②Try&Error…何度でも記録した音(データ)を再生し、修正することができるのでTry&Errorで作曲ができる。
③新しい音色の作成…シンセサイザなどの波形編集で一般の楽器では作り出せないサウンドを作ることができる。

言い換えるとこれまで下記のような特殊な能力がなくとも、「誰でも」手軽に作曲が可能になったと言える。

①音楽理論の知識
②ピアノ等楽器の演奏能力

さて、あまり大きく取り上げられることは無いが、これはなかなかエポックメイキングな変化だと言える。まず、作曲の敷居が格段に下がり、作曲者の裾野が大きく広がった(その分、作曲家の市場価値が下がったとも言える)。また、作曲の理論を知らなくとも曲を作れてしまうので、今までの枠にとらわれない新しいサウンドが出てくる可能性が増した。もちろん、その分有象無象、玉石混淆の音楽で世の中が溢れる、という状況にもなっているのだが、これを善悪二元論で判断することには意味がない。そのような新しい音楽状況が生まれている、という現実認識が重要なのだ。

さて、このような状況は「作曲」の本質にどのような影響を与えているのだろう。その私なりの答えが「構築する作曲」から「探す作曲」への変化ということになるのだが、その点については「後編」でじっくり論じることにしたい。









Be free ¥200
Composer・FrenchHorn/TOMO
Jacket Design/上杉朋嗣
Mixing Engineer/吉田俊之


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作曲とはなにか3~「構築する作曲」から「探す作曲」へ(前編)

2014年03月09日 | 作曲とはなにか
さて、前回述べたとおり、我々の耳にする音楽の多くは拍子・旋律・和声という3つの要素から構成されている。そこにはルネサンスからバロック、古典、ロマン派へとつらなる作曲理論が基軸にあり、多くの作曲家はその理論(対位法や和声理論)に従って音楽を「構築」してきた。それは文字通り「論理的な構築物」であり、調性理論に基づく和声法やフーガ、ソナタ形式などはその典型だと言えるだろう。

試しに下記の音源を聴いて頂きたい。これはあるコンピュータソフトに「君が代」のメロディーを打ち込み、automaticにコード(和音)をつけさせたものである(私は数回パソコンのキーを叩いただけだ)。若干違和感はあるものの、まあ聞けないことはない。終結部が西洋の楽理では解決できない(ここが日本のメロディーの面白いところ!)ので、不思議なことになっているが、それはご愛嬌だ。

コンピュータソフトによる「君が代」の全自動作曲

こんなことができてしまうのは、西洋の音楽理論がそれだけ強固に出来ているからに他ならない。そしてこれまで、「作曲」という行為はこの理論を身に着けた一部の特殊な職人(技術者と呼ぼうか)の仕事であった。(もちろん例外は枚挙にいとまがないのだが)

ところが、近年この状況に大きな変化が起きている。それは「DTM」=「デスクトップミュージック」の普及による「作曲者」の増大と、パラダイム転換とも言うべき作曲方法の変化である。トータルセリエリズムや偶然性の音楽についての解説を期待していた方々には申し訳ないが、次回はこの「変化」について詳しく解説したい。









Love drop ¥200
Composer/Tomo Hirayama
Jacket Design/Aya Sugano


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