TOMO's Art Office Philosophy

作曲家・平山智の哲学 / Tomo Hirayama, a composer's philosophy

芸術とはなにか~ステートメントとしての芸術論

2019年02月17日 | 作曲とはなにか
本論で述べるのは「理想論」としての芸術である。「芸術とは如何あるべきか」という私個人のステートメントとしての「芸術論」である。「芸術」という概念の歴史学的考察、社会学的分析についてはジェーン・E. ハリソン、ジャン・ボードリヤール等の優れた論文を参照されたい。概念の発生経緯や消費社会における芸術の機能に関する知見が得られるものと思う。

さて、芸術とは以下2点を必要条件とする現象であり、表現である。(なぜ必要「十分」条件ではないのか、という問いについては別途詳述したい)

1・寿福増長の法としての芸術

我が国最古の体系的芸術論として「花伝書(風姿花伝)」があげられる。これは能の大成者たる観阿弥、世阿弥がその芸(申楽)の本領を発揮する為の具体的な方法論から人としての生き方まで洞察した稀有な書物である。芸術(アート)という概念すらない時代にこのような思想が存在したという事実は刮目に値する。

さて、花伝書の奥義に「芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、遐齢延年(かれいえんねん)の法なるべし」という一節がある。ここで言う芸とはあくまで申楽を指したものであるが、これを芸術(アート)と置き換えても現代に通ずる優れた定義と言えよう。芸術とは「人々の心と人生を豊かにするものであり、知識の多寡や社会的地位に関係なく誰もが感じとれるべきもの」というシンプルかつ力強いメッセージは普遍的な思想として受け継ぐべき宝である。


2・ものの見方、価値観の転換としての芸術

「既成の価値観を変えるものは、アートと呼びうる」

オノ・ヨーコの言葉は現代における芸術(アート)の役割を端的に表現している。マルセル・デュシャンが展覧会に自分のサインを施した男性用小便器を置いた瞬間、小便器は排泄設備という意味をはぎ取られ、純粋なオブジェとして人々の前に現象した。デュシャンの表現には当然の如く同時代のアートに対する痛烈な皮肉が込められており、必然的に賛否両論の議論を巻き起こす。しかしながら「レディ・メイド」と題されたこの作品が「ものの見方」「既成の価値観」に大きな変革をもたらすものであったことは歴史によって証明済みと言えるだろう。
私は既成の価値観に疑問を投げかけ、新しいものの見方を提示することこそ芸術の本懐であると考えている。私と同世代の哲学者マルクス・ガブリエルも現代社会における芸術の役割を以下のように述べている。

「芸術の意味は、通常であれば自明にすぎない物ごとを、注目するほかない奇妙な光のもとに置くことにあります。」

しかしながら、一点重要な注釈を施さねばならない。オノ・ヨーコが絶妙な言い回しで表現した通り、既成の価値観を変えるもの全てが芸術の資格を得るわけ「ではない」ということである。2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルに突入した2機のジャンボジェットは我々の世界観を一瞬にして変えてしまった。当時高校生だった私はリアルタイムで世界的なパラダイム転換の場に遭遇したと言える。だが、9.11アメリカ同時多発テロは決して芸術ではない。単なる犯罪行為である。(さらに私の立場を明確にするなら、その後のイラク戦争も無思慮な殺戮行為でしかない)。なぜならテロ行為は芸術の必要条件たる寿福増長の理念に真っ向から対立するものだからである。

もちろん、人間の心の闇を白日の下にさらすことも芸術の一つの意義であることは私も認めるところであるし、芸術の提示する価値観は多様で両価値的であるべきだと考えている。ただ、それは無思慮な破壊行為や他者の尊厳を傷つけるものであってはならない。



<参考文献>

ジェーン・E. ハリソン 古代芸術と祭式 (ちくま学芸文庫)

ジャン・ボードリヤール 消費社会の神話と構造 新装版

観阿弥・世阿弥 花伝書(風姿花伝) (講談社文庫)

マルクス・ガブリエル なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

巖谷 國士 シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

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