「編曲」とは和歌の「本歌取り」のようなものだ。
「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも かくさふべしや」
万葉集に収められた額田王の名歌は紀貫之の下記の歌を下敷きにしている。
「三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ」
額田王は紀貫之の上2句をそのまま引用しているわけだが、
イメージの重層化の手法として「本歌取り」を駆使している点で白眉なのだ。
飛鳥から大津への遷都の寂しさを貫之の描いた春霞と重ね合わせることで、
単なる「悲しみ」から豊かなイメージ(想い出)へと膨らませているのである。
「編曲」もまた然り。
既存のメロディーの引用は単なる知識と技巧のひけらかしで終わるべきではない。
誰もが知っている曲を下敷きにすることで、新しい世界観に奥行と豊かな感情を与えるものであるべきだ。
もちろん、原曲を忠実に再現する(編成や構成を変えて)編曲も需要があるのは間違いないが、
「作曲家」が取り組むべき編曲とはこのような創造的な行為であるべきだと私は思う。
既存のメロディーの和音を付替えたり、編成を変えるだけなら
コンピューターで簡単にできてしまう時代なのだから。
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「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも かくさふべしや」
万葉集に収められた額田王の名歌は紀貫之の下記の歌を下敷きにしている。
「三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ」
額田王は紀貫之の上2句をそのまま引用しているわけだが、
イメージの重層化の手法として「本歌取り」を駆使している点で白眉なのだ。
飛鳥から大津への遷都の寂しさを貫之の描いた春霞と重ね合わせることで、
単なる「悲しみ」から豊かなイメージ(想い出)へと膨らませているのである。
「編曲」もまた然り。
既存のメロディーの引用は単なる知識と技巧のひけらかしで終わるべきではない。
誰もが知っている曲を下敷きにすることで、新しい世界観に奥行と豊かな感情を与えるものであるべきだ。
もちろん、原曲を忠実に再現する(編成や構成を変えて)編曲も需要があるのは間違いないが、
「作曲家」が取り組むべき編曲とはこのような創造的な行為であるべきだと私は思う。
既存のメロディーの和音を付替えたり、編成を変えるだけなら
コンピューターで簡単にできてしまう時代なのだから。
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