〔芭蕉の生涯 新風のなかで〕
あたかもその時、俳諸史は展開期に際会していた。微温的な貞門俳諸の退屈なマンネリズムは、もはや新しい作家達の関心を繋ぎとめることはできなくなった。もっと無遠慮な、荒唐無稽な非合理の巾に放笑を求めるような新風がおこり、それが非常な勢で俳壇を風扉した。新風は文壇の長老、大阪天満宮の連歌宗匠西山宗因を担ぎ上げて大阪でおこった。「貝おほひ』を奉納した次の年、寛文十三年には、西鶴が『生玉万句』を興行刊行して、新風の峰火をあげ、その異風の故に「阿闘陀流」とよばれた。翌延宝二年には宗因の「蚊梓百韻』をめぐって保守派からの攻撃があり、宗因流の方からは、翌三年に論客岡西惟中が登場してこれを反撃、さらに惟中の『俳譜蒙求』が出て、新風はあらたな俳論的根拠を得ることになる。
すなわち、「伽一心所着」の非合理、無意味の中に俳諧があるという奔放な詩論が生れる。そしてこの年宗因の東下によって江戸俳壇にも宗因流が導入されることになるのであるが、この五月深川大徳院で興行された宗囚を迎えての百韻には、「宗房」を「桃青」と改めた芭蕉も、幽山・信草(素堂)などとともに、一座している。
翌四年春、山口信章と二人で興行した天満宮奉納の二百韻では
「梅の風俳諧国にさかむなり 信草」
「こちとうづれも此時の春 桃青」
と唱和して、この新しい宗因流の自由な新風に傾倒しているのである。
当時ひとしく宗因の東下を機にして生れた江戸の新風にも、二つのグループがあった。
一方は談林軒松意を中心とする江戸在来の俳人グルーブ。
他は桃青の属した上方下りかあるいは上方俳壇に何らかのつながりをもつ作家達のグループ。才能ある作家を擁していたのは後者であり、俳諧大名内藤風虎の文学サロンに山入したのも、また後者の作家達である。
桃青はこの後者のグルーブの中でも異色の能才で、延宝五年風虎の催した「六百番誹階発句合」には二十句も出句しており、折から東下中の京都の伊藤信徳を交えて、山□信章(素堂)とともに巻いた『江戸三吟」(五年冬-六年春)を見ても、桃青の縦横の才気は、二人の先輩に劣らぬばかりか、むしろこれを圧しているのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます