年金暮らしの自由人

サブタイトル:自然とお酒と音楽と
私の趣味や出来事を書き込んで行こうと思っています。

私の好きなアーチスト(カウント・ベイシー)について(第一弾)

2010年02月28日 09時40分30秒 | JAZZ

LP、CDを合わせると、約60~70枚程度所持していて、最も好きなプレーヤーでありアーチストでもあるカウント・ベイシーについて簡略的に触れてみます。

Count_basie2Count_basie3

 

 

 

 

 

 

 

別名、ウィリアム・“カウント”・ベイシー(William "Count" Basie)、出生名はWilliam James Basieである。1904年8月21日(ニュージャージー州の小都市レッドバンク生まれ)- 1984年4月26日(膵臓がんでフロリダ州の自宅にて死去。79歳没)。アメリカのジャズピアノ奏者、バンドリーダー。
グレン・ミラー、ベニー・グッドマン、デューク・エリントン等と共にスウィングジャズ、ビッグバンドの代表奏者に挙げられる。

「カンサス・シティのラジオ・アナウンサーがカウント・ベイシーと呼んだ事に発している」と伝えられるが、実際はベイシー自身がカウント・ベイシーと名付けた。
カウント(Count)は伯爵を意味する。当時は、デューク(公爵)・エリントン、バロン(男爵)・リーのように、ジャズミュージシャンには爵位の名称をニックネームとする事例が多かった。

ベイシーは母親からピアノの手解きを受けた。そのピアノの実力は類まれであったという。1924年より歌手の伴奏とソロ演奏を主にプロ活動を開始する。その後1936年末にシカゴのクラブを経てニューヨークへ活動拠点を移し、自身のビッグバンド“カウント・ベイシー・オーケストラ”を結成する。

1937年にデッカ・レーベルから発売、「ワン・オクロック・ジャンプ」をはじめ、アルバムでそのシンプルかつ絶妙なサウンドが好評を博し、一躍国際的名声を得る。

ベイシーのピアノスタイルは、ストライドピアノスタイル(ファッツ・ウォーラーに師事したこともある)であったが、ビッグバンド演奏の中では「ワンノートスタイル」と呼ばれるシンプルな演奏方法で、「節約奏法」とも揶揄された、音楽的に必要な場所だけピアノを「叩く」スタイルに変わっていった。

第1期黄金時代のカウント・ベイシーオーケストラは強力なリズムセクション(構成:フレディ・グリーン(Gt)、ジョー・ジョーンズ(Dr)、ウォルター・ペイジ(Bs)、カウント・ベイシー(P)で構成)を従え、オール・アメリカン・リズム・セクション」と絶賛された。また、レスター・ヤング(T.Sax)、ハーシャル・エバンス(T.Sax)、アール・ウォーレン(A.Sax)、バック・クレイトン(Tp)、ハリー・“スウィーツ”・エディソン(Tp)、ディッキー・ウェルズ(Tb)らのソリスト陣がバトルを繰り広げ世界的に絶賛された。
第2期黄金時代を迎えるまでは、1940年代後半から末にかけて、第二次世界大戦後の不況の影響があってバンドは一時解散となり、ベイシーもジャズ・コンボで活動を余儀なくされた。
1951年にベイシーサウンドの要である盟友フレディ・グリーン(Gt)と共にビッグバンドを再結成、新たにサド・ジョーンズ(Tp)、フランク・フォスターらを迎えて活動を再開する。後にヴァーヴ・レコードと契約、ルーレットレーベ
ル時代にはニール・ヘフティやクインシー・ジョーンズら新進気鋭のアレンジャーを起用し、ベイシーサウンドも洗練されて行った。またフランクシナトラやジョー・ウィリアムズ、エラ・フィッツジェラルド、サラホーン、ミルスブラザーズなどのボーカルとも競演し数々の名盤を残こした。

晩年にはベサミー・ネスティコ(1970年からはカウント・ベイシー楽団のコンポーザー、アレンジャーとしてベイシー楽団末期のほとんどの曲を手がける)と共同作業が多くなっていった。パブロレーベルにも名盤を残している。