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夜の浅草寺お百度参り

わたしは一応、寺社巡りを多少の趣味とする普通の一般サラリーマンです。
なものですから、近くに寄った折にふと足が向かう、行き付けのお寺というものがあります。
東京都台東区にある浅草寺も、その1つです。

以前は、カメラを新調したら大体、浅草寺へ出向いて試し撮りに興じたものでした。
そのように何度も頻繁に足を運んだ浅草寺には、たくさんの思い出があり、
2008年10月の前立本尊御開帳は、そのハイライトの一つでした。
現時点では 2017年11月が直近の訪問で、それから久しく行けていない状況です。



浅草寺の思い出といえば、「夜の浅草寺お百度参り」というのをやったことがありました。
今から19年前の話になります。

きっかけは、地元の親友が大病を患ったと知ったことでした。
自分に何ができるだろうかと考え、自分のやり方で願掛けをしようと思いました。
それが「夜の浅草寺お百度参り」すなわち、浅草寺の入り口にある雷門と、
仲見世通りの先にある観音堂の間を歩いて100往復する、という計画でした。



ただの気休め、馬鹿げた真似かもしれないと思ったと同時に、
理屈では説明できない何かが、自分をその行動へ向かわせました。
物事を無心に思い立つときは、得てしてそういうものではないでしょうか。

いずれにしても、昼間の仲見世通りのあの混雑っ振りからすると、
浅草寺において「お百度参り」をやろうとしたら、
夜のタイミングを狙って決行するしかありませんでした。



2006年3月某日(土)、PM7:45頃、上野駅到着。
浅草通りを歩いて浅草寺に到着し、PM8:20頃「夜の浅草寺お百度参り」スタート。

Walkman で音楽を聞きながら、最初の10往復くらいは順調に進んだが、
イヤホンから聞こえる曲の進み具合から、観音堂 ⇔ 雷門 の1往復に10分くらいかかると分かり、このペースでいくと10往復に100分、100往復には1000分つまり17時間くらいかかってしまう ・・・・ と早々に悟り、気分的に追い詰められた。

足の裏に水膨れができて歩行困難になり、100往復は時間的にも体力的にも無理だった。
PM11:00過ぎ、ひとまず半分の50往復に予定を変更し、
来訪者のいなくなった仲見世通りの石畳を歩き続けた。



1円硬貨10枚を握り締め、約380m離れた観音堂 ⇔ 雷門を行ったり来たりしながら、
観音堂に着いたら、合掌し、1円硬貨を一つ欄干に置く。
10往復して掌の1円がなくなったら、100円硬貨を一枚浄財箱へ奉納し、
欄干に置いた1円硬貨10枚を回収し、それをまた握り締めて歩き出す。
・・・・ という行ったり来たりを、際限なく繰り返した。

AM0:00過ぎ、イヤホンを耳から外し、辺りを包む静寂を感じながら歩き続けた。
境内を複数の警備員が巡回していて、不審人物がられないか心配だったが、
職務質問等を受けることもなく、暖かく見て見ぬふりをしてくれていた。

AM4:40頃、50往復(約19km)を何とか達成できた。
途中で2度トイレに行ったのと、30往復時点で一服したのを除けば、約8時間を歩き通した。
足裏の損傷(水膨れ)が激しく、踵歩きで這うように上野駅に戻り、コインロッカーのシャッターが開くAM6:00まで待って、始発の新幹線でとっとと群馬に逃げ帰ったw






その翌週の 2006年3月某日(金)、上野駅から浅草通りを流して浅草寺へ。
PM8:50頃「夜の浅草寺お百度参り」の後半スタート。

前回の50往復の教訓から、焦らず急がずの脱力歩きを心掛けた。
しかし、10往復した辺りで足の裏がまた痛み出し、左の股関節も機械的に痛み始め、
早々に追い込まれてしまったが、後戻りはできなかった。



前回同様、観音堂に着くたびに、合掌し、1円硬貨1枚を掌から巾着袋に移し、
掌の1円がなくなったら、100円硬貨を浄財箱に奉納し、巾着袋の1円10枚を掌に戻して、
・・・・ を繰り返しながら、観音堂と雷門の間を往復し続けた。
今回は無理せず、10往復ごとに休憩を挟んだ。

AM5:00頃、仲見世通りの灯りが消え、カラスの鳴き声が騒がしく聞こえ始めた。
ラストの1往復のとき、長く苦しかったお百度参り達成を祝ってくれるかのように、
境内の鐘楼が鳴り始め、AM6:05頃、100往復目の観音堂に到着。
巾着袋の1円10枚と、最後の100円硬貨を浄財箱に奉納し、般若心経を通読、合掌。

五重塔前のハトがたむろするスペースで、座り込み、放心状態でしばらく一服した後、
ズタボロになった身体をひきずって、上野駅に引き返し、始発の新幹線で群馬に遁走w






以上が、当時の日記をもとに書き起こした「夜の浅草寺お百度参り」の顛末です。
あのとき38歳で今より随分若かったですが、それでも一週間でのダメージ回復は無理だったようで、2週続けてあんなことをしたとは、なかなか無茶したもんだなと今にしてみれば思います。

あれが、自分の思い出になったという以外に、何かの役に立ったのかどうかは分かりません。
ただ、不思議なことというのは、やはりあるようです。
お百度参りの翌週、2006年4月1日(土)の日記の内容を、以下に掲載します。

明け方5時過ぎ頃の寝起き時、またいつもの金縛りの主(?)が降りてきて、うつぶせ体勢でまどろんでいた俺の背後から何やら覆い被さってきて抱き締めてくれていたようだった。正直、癒されてしまった。もしかして、先週先々週とお百度参りをした浅草寺の秘仏御本尊様の使いの仏さまか? などということを想像してしまうが、俺のことを上の方から見守ってくれる見えない力がもし存在するのだとすれば、ありがたいことである。

わたしはもともと、高校時代の昔から金縛りに遭う体質で、今でもよくあります。
金縛りになるときは「あ、これは来るな」と前兆が分かり、それから身体が動かなくなり、じっとしていると何か変なものが見えたりして怖いことになりそうなので、目を閉じて周囲を見ないようにして、頑張って必死に動こうと努めます。
つまり、金縛り状態のときは、ちょっとした恐怖心の中でそこから逃れようとするわけです。



しかし、お百度参り翌週の4月1日の明け方に来た金縛りは、全く違いました。
背後から抱きしめられ、手を固く握られる感触が非常にリアルで、且つ心地よく、
恐怖心も逃れようとする意識も全くありませんでした。
あれは、後にも先にもあの一度きりの、不思議な体験でした。
(浅草観音に限らず、観音様にまつわる逸話として、同様の体験を語る人は多いと思います)

以上のような個人的な出来事があった経緯から、わたしは、
人でごった返す仲見世通りの喧噪よりも、夜の浅草寺の雰囲気の方が好きです。
もう久しく行けていないですが、次回訪問する際も、陽が落ちた暗闇の中に浮かび上がる観音堂の正面にまた立ちたいと、そのように思っている次第です。
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絶対に笑ってはいけない初詣

自分は一応、神社やお寺を訪ねることが、趣味というか嗜好の一つです。
その行動のルーツは、幼少の頃に毎年の恒例行事だった「新年初詣の旅」にあります。
元日の朝、親戚一同が車数台に分乗し、県内の神社お寺をハシゴしてまわったものでした。
毎年楽しみにしていたそのイベントは、高校に進学する頃まで続きました。

あの懐かしい旅の出発地点だった田舎の家に、わたしは今も毎年帰省し、そこで新年を迎え、
一応かたちのうえでは、わたしが親族を代表するような感じで、最寄りの神社(お寺)へ単身初詣に行くのが、元日の恒例行事となっています。



界隈では割と有名な神社(お寺)で、県内外からの参拝客で駐車場がすぐ満杯になります。
なので、車で行くことはできず、山の中の細い田舎道をブラブラと歩いて向かいます。

その行きの道中で一度、はぐれ者っぽい感じの人に遭遇したことがありました。
『財布を落としてお金がない、500円あれば駅まで行ける』と声をかけられ、わたしが「500円で大丈夫ですか?」と財布を取り出すと、それを見て急に目の色が変わって『2000円、3000円くらい貸してくれるかな』と金額がエスカレートし(笑)、「これも何かの縁ですかね」みたいなことを言いつつ結局 3500円ほどを手渡して差し上げました。
『お兄さんありがとー』と叫びながら、その人は歩き去っていきました。

その日の夜、TV のニュースで「午後3時頃、◎◎市の登山道で人が刃物で刺され軽傷」と出て、
え? もしかしてあのときすれ違ったあの男?
あそこで断っていたら、俺がやられていた?
((((;゚Д゚)))) ガクブル
・・・・ と一寸肝を冷やしたという、そんなこともありました



そこは神社とお寺が同じ敷地内にあるところなのですが、どういう歴史的経緯からか、
互いに「一切関係ありません」と柴田恭兵のスタンスを貫いて、反目し合っています。
どちらかというと神社の方が人気を集め、本殿の前はいつ見ても長蛇の列です。
一方、お寺側も巨大不動明王像を建立して対抗し、近年は人気を盛り返しつつあります。

神社のお参りには時間がかかるので、わたしはいつも足早にお寺の方へと向かい、
御堂の二階部分の大広間で執り行なわれる、御祈祷の儀に参列します。

幼少期の「新年初詣の旅」のとき、参列者の最前列で跪き、畳に額を擦り付けて拝礼をするお爺ちゃんの姿を、何度も見たことがありました。
今は自分がその代わりをしているのだ、と思いながら、広間の一角に陣取って、御祈祷の儀の開始を静かに待つ間は、厳かな束の間のひとときです。



しかし、人間、そういう畏まった状況に置かれると、逆に笑いのツボが活性化してしまうのは、どうしてなのでしょうか。

鐘が打ち鳴らされ、お坊さん数人が登場し、御祈祷が始まります。
受付で住所氏名その他を記入してお布施を包んだ人に対する「特別祈願」が、主な目的です。
ピーンと張り詰めた空気の中、1つずつ順番に読み上げられていきます。

「岡山市○○町、三宅○○より祈願奉る、身体健康、良縁成就、如意円満の旅(ガキッ!)」
「倉敷市○○町、岡本○○より祈願奉る、無病息災、学業向上、如意円満の旅(ガキッ!)」
「広島市○○町、安藤○○より祈願奉る、商売繁盛、交通安全、如意円満の旅(ガキッ!)」
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・

1つ読み上げるごとに、大きな木槌を机に叩きつけて「ガキッ!」と合図の音を鳴らし、
「ハイ、不動明王様に願いを届けた、次!」という感じで粛々と進行していくのですが、
時々、振り下ろした木槌の当たりどころが悪く、スカってしまうときがあります。

「高梁市○○町、田中○○より祈願奉る、家内安全、身体健全、如意円満の旅 スカッ  」

「あれ、今の人、音が鳴らなかったから、願い事が届いてないと思うんですけど」
という想念が頭をよぎった途端、笑いのツボのスイッチが入り、
以降、お坊さんの木槌がスカる度に

「笠岡市○○町、山本○○より祈願奉る、悪疫退散、合格祈願、如意円満の旅  スカッ 」
「デデ~ン、山本、アウト~」

と、笑いが込みあげる状態に陥り、往生したことがありました(笑)



特別祈願の読み上げが終わると、御祈祷の総仕上げとして「大般若転読」が行なわれます。
経本を手に取って、アコーディオンのようにパタパタと開け閉めし、全巻を通読したことにするということが全員のお坊さんによって一斉に行なわれるのですが、そのときに

「アーーーリャァァァーーーー!!!!」
「オー-リャァァー-ーーーーー!!!!」

などと盛大な掛け声が発せられ続けるので、今はもう慣れましたが、最初にその場面に出くわしたときは「中学の野球部か」という想念に取りつかれ、笑いを堪えるのに苦労しました。

その後も、毎年元日の初詣を続けていくうちに、わたしもそれなりに成長し、
「如意円満の旅」が実は「如意円満のために」と言っていることが分かった他、
御祈祷の最中に勝手な想念で笑いが込み上げることもなくなりました。

何年か前の御祈祷の折には、「お隣の神社にもお立ち寄りいただければと思います」とお坊さんの挨拶があり、長年反目し合ってきた神社とお寺同士で関係改善の兆しも見られるようです。
物事は良い方向に進んでいくのが世の常なのかなと、そう思います。
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アマビエさんのお話

わたしは今でも若干、お寺や神社を訪ねることが、多少の趣味となっています。

今から約20年前、関東の一都六県にまたがる八十八ヵ所霊場を参拝しました。
毎週末になると、電車を乗り継いで最寄り駅まで行き、そこから徒歩で歩くスタイルで、
全八十八ヵ所を一年がかりで参拝しました。
そのときの経験は、良き思い出、心の財産となっています。

歳をとった今も、そのときの札所を都度再訪し、思い出をなぞっています。
過去記事「尊き御方の十一人連れ」でも書きましたように、寺社巡りをしていると
不思議な偶然に出くわすことがあり、それも密かな楽しみです。



しかし、良いことばかりではなく、苦い経験もありました。
6年前の3月10日に、栃木県にある某札所を再訪したときのことでした。

わたしは札所に着いたら、まず本堂の前へ行って読経をしてから、
その日の訪問の記念に、写真撮影タイムを楽しみます。

お堂や仏像の他に、納経所の入り口に掛かった「関東八十八ヵ所霊場」の看板。
これは霊場のシンボルなので、記念撮影に欠かせないということで、パシャッ!
その付近の、犬小屋にいたワンちゃんにもカメラを向け、パシャッ!

境内にある目につくものを、気ままに写真に収めていきました。
カメラ好きとしては、なかなか楽しいひとときです。



そうしていると、納経所の入口が突然ガラッと開き、
住職さんが出てきました。

「おたくね、お寺の写真を撮るのは公共物だから一向に構わないが
 ここから先は俺の私的な部分だ、その私的な部分にカメラを向けるなら
 一言声をかけてからにしてくれないか」

「最近、住居に侵入して金品を強奪する事件が相次いでいて
 不審者を確認次第、通報してくれと警察に言われている。
 悪気はないみたいだから、通報はしないが、一言声をかけてからにしてくれ」

わたしは直立不動で聞き入り「申し訳ありませんでした」とお詫びしました。
住職さんの言われたことは、まったく以てその通りで、
実際に盗難の被害が出ている事情があれば、尚更のことでした。

一方で、「お参りご苦労さまです」的な言葉がなく、つまり、
不審者と誤解されたまま終わったことで、後味の悪さは残りました。
このときの苦い記憶は、その後、心に長く影を落としました。



その他にも、こんなことがありました。

中国武漢ウイルス、所謂「コロナ禍」の猛威が世界を襲った 2020年。
日本でも「ステイホーム」「県境を跨ぐ移動は控えて」と政府から
要請があり、五月連休も帰省できず、家にいるしかありませんでした。

しかし、ヒマなので、どうしたって出掛けたくなります。
「県内だから特に問題ないっしょ」と思って、車を走らせ、
先述の同じ霊場の、県内にある札所「光明寺」へと向かいました。

到着し、車から降りて、本堂へ向かおうとすると、
外に出られていた住職さんが、わたしを見て一言。

「家にいなきゃいけないんじゃないの?」
「すいません。。。」

速攻で足止めを食らい、退散せざるを得ませんでした。
他のお寺では、参拝者の受け入れ黙認なところも多かったのですが、
このお寺では、住職さんの意向で強制退去の措置が取られていました。
政府の要請ですから、それも当然のことでした。



そのようなことが過去にありながら、歳を重ねた今現在も、
昔訪ねたお寺を再訪し、思い出に浸ることを楽しみとしています。

先日も、新調したカメラ DSC-RX10Ⅳ の試し撮りがてらに
コロナ禍で追い返されたとき以来の約4年半振りに「光明寺」へ行ってきました。
正直、何度もお参りしているお寺なので、新鮮さはありません。

しかし、過去記事「尊き御方の十一人連れ」でも書きましたように、
「虚往実帰(虚しく往きて実ちて帰る)」つまり、
「何事も期待せずそこへ行き、心は満足して家路に就く」
という気持ちにさせてくれる、小さな出来事が起きるやもしれません。

その日も、いつものように本堂前で読経してから、境内の様子を撮影しました。
すると、不動堂の前で、何やらカラフルな色合いのノボリが2本、
はためいているのが目に付き、見ると「終息祈願」と書かれていました。
ノボリの裾には、アマビエの絵も描かれていました。



それを見たとき、ああ、そういうことだったのかと、わたしは思いました。
あれから4年半が過ぎた今もなお、このノボリを立てている。
それほどの強い願いがあったなら、あのときの強制退去も納得できるよな、と。

おまけに、そのノボリに描かれたアマビエの絵が、
花の応援団の「クエッ、クエッ」と同じような顔をしていてですね(笑)
それを見たとき、何だかもう笑えてしまって、全てが氷解したというか。

コロナ禍のとき追い返されたことを、根に持っていたわけではありませんが、
そのことと、それから、先述の不審者と間違われた苦い記憶も含めて、
アマビエさんの絵が全てを笑い飛ばしてくれたという、そういうお話でした。
こうして、その日も「虚往実帰」な気持ちで、家に帰ることができたのでした。


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いつか誰かの心に

今から12年ほど前、県内のとある神社を訪ねたときのこと。

紅葉の写真撮影がてらの、観光目的の訪問だった。
当時使用していたソニーの主力一眼レフ α700 で、ところ構わずカメラを向け、撮りまくった。
紅葉の時期ということもあり、若いカップル連れなど、多くの参拝客で賑わっていた。

その中に混じって、一人のお婆さんが、拝殿の前で手を合わせていました。
印象的だったその後ろ姿を、一枚、写真に撮らせていただきました。



帰宅後、撮影した写真の現像を行なった。

訪問先で、バシャバシャとシャッターを切って撮影するヨロコビ。
それに加えて、撮影結果を一枚一枚チェックしながら、PC 上で現像を行なう作業。
これもまた、カメラ好きにとっては至福のひととき。

拝殿の前で手を合わせていた、お婆さんの写真。
失敗することなく、ちゃんと無事に撮れていました。

よく見ると、お婆さんは別の写真にも写っていました。
拝殿の周辺でカメラを振り回し、気付かぬうちに撮った何枚かにも、同じ姿で写っていました。
撮影時刻から、そのお婆さんは、約20分間、じっと手を合わせていたことが分かりました。



あのときの記憶が、あれから12年ほど経った今も、心の中にある。

約20分もの長い間、じっと手を合わせていた、あのお婆さん。
お孫さんの成長を祈っていたのか。
御先祖様への感謝を念じていたのか。
自分の想像では、そのようには見えなかった。

余命幾許もない、闘病中の家族の無事を祈る。
どうすることもできない、運命の非情に、せめて抗わんとする、
最後に残された手段としての、神頼み。
そのような痛切な一心を、背負っているように見えました。



人が生きていくとは、様々なものを失う苦しみの中を、通り過ぎていくこと。
ではないかと思います。

あのお婆さんは、その瀬戸際で、じっと手を合わせていました。
かなしいほどに小さく、かなしいほどに一生懸命な、人間の営み。
もしかしたら、その願いは、叶わなかったのかもしれません。

しかし、その祈りの姿は、一人の男に届いた。

心のどこかに残っていた、あの素朴な後ろ姿の残像が、
自分に負けそうな心を、良き方向に押し戻してくれた。
そんなことも、ありました。

物事に一心に打ち込む、人間の姿。
悩み、苦しみ、一生懸命に生きる、人間の姿。
それは、不思議な magic を帯びるもの。
誰かがどこかで、必ず見ている。
誰かの心に、いつか必ず、きっと届く。


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尊き御方の十一人連れ

おっさんは、神社やお寺を巡ることが趣味の一つであるサラリーマンです。

とはいうものの、神社やお寺に行って、何かお願い事をするわけではありません。
お堂の前で読経したり、手を合わせたりはしますが、そのときに 「どうか○○が◎◎しますように ・・・・」 などとお願い事を唱えることは基本的にしません(気恥ずかしいので)。

かといって、ある種の観光気分で行くわけでもなく、では何のための寺社巡りなのかと聞かれると、何とも答えようがありませんが、敢えて言うとすれば、人間が歳を重ねる過程での自然のなりゆき、自ずと向かう行動、そういうものではないかと思います。
寺社巡りを始めたことで、何か運気が開けたとか、そういうことも特にありません(たぶん)。

ただ、これまでの経験上、1つ言えることがあります。
寺社巡りの道中では、たまに不思議な出来事に遭遇することがあります。
「そんなの、偶然だろ」 と言われたら返す言葉もない、些細な出来事に過ぎないのですが、当の本人自身からすれば、「ああ、上の方から見守ってくださっているのかなぁ ・・・・」 と有り難い気持ちにさせられる、そういう経験をしたことが何度かあります。

「虚しく往きて実ちて帰る(むなしくゆきてみちてかえる)」

という、空海が残した有名な言葉があります。
何事も期待せず、心を無にしてとにかくそこへ行ってみれば、充実した気持ちで帰途に就くことができる、という意味なのだそうです。
「雨が降りそうだし、今日は行くのやめようかな」 と怠けそうになる気持ちを曲げて、予定通りにお寺を訪ねたときの帰り道は、「虚往実帰」 の心境を実感できます。
そこに、道中で遭遇した不思議な体験が加われば、より一層の実ちた気持ちになります。



今から十数年前、県内のある観音霊場を巡ったときのことです。
その観音霊場は、その存在が今はほとんど知られておらず、歴史に半分埋もれかけている 「上野三十四観音札所」 という霊場で、↓次のような言い伝えが残されています(原文)。

前略、ここに当国巡礼の始まりは長和三年、一人の女あり、なにとど一度巡礼のうえ観音の力をたのみ二世安楽の願いを達せんものと、いえども貧乏の女史で遠国歩所の力なく、むなしく月日をへむ。ところにある夜、当為の御本尊より夢の告げにて、当国に三十四ヵ所れいけんあらたかな観音立ちもうすと知り、同年四月十六日ひそかに家を出て当為より次々に尋ねめぐるに、不思議や途中にて何国の仁とも知らず、尊き御方の十一人連れにて、上野巡礼と書きたる、おいずるを着たるが、同行となるにて夢の告げにたがわず、今の清水まで山上三十四ヵ所打ち納め、右の尊き御方々ゆくえ知れずになふ、かんるい肝にめいじ同二十三日下向と伝え伝るなり。それよりこのかた、上野順礼と名付けて諸国より信者のひと二世安楽をいのることしかり。

ある一人の貧しい女性が、夢のお告げで三十四観音巡りを始め、上野巡礼と書かれた笈摺(おいずる)を着た 「尊き御方の十一人連れ」 の一行に途中で遭遇したので、一緒についていって最後の三十四番・清水寺で結願を達成すると、同行していた十一人連れは忽然と姿を消した。
「もしや、あの御仁方は観音様の御導きだったのか」 と女性は感涙を流した ・・・・。

・・・・ というのが、上野三十四観音札所の言い伝えの内容です。
実際にあった実話ではなく、フィクションの類ではあるでしょう。



そんな上野三十四観音札所を、十数年前に巡ったことがありました。

最後の三十四番・清水寺は、自分の行き付けのお寺である高崎観音へ向かう途中にあるので、いっつもしょっちゅう行っている馴染みのお寺です。
なので、上野観音巡りの最後のフィナーレを飾る結願寺としては、マンネリ化による感動不足になるであろうことは正直否めませんでしたw

しかしそこは、「虚往実帰」 の初心に戻り、結願の当日、三十四番・清水寺に向かいました。
このお寺に行くには、山のふもとの石票から本堂まで、520段もの長い石段を上っていきます。
その途中にある266段の石段は、近くの高校の陸上部の練習場としてよく使われていて、結願のあの日訪れたときも、練習が行なわれているちょうど真っ最中でした。



何と言っても、266段、地図上の水平距離で測っても100mを超える石段です。
そのとてつもない急勾配の石段を、入れ代わり立ち代わり、順番に駆け足で上り下りする陸上部員らの様子を、石段の一番下からしばらく眺めた後、近くにいた部員に尋ねてみました。

「これ、一人何本走るんですか?」

「何回」 でも 「何往復」 でもなく、「何本」 という言い方に、中学高校と一応陸上部だった頃のプライドをそれとなく漂わせつつ、そのように聞いてみました。
すると、「10本です」 と答えが返ってきました。
ここを10本も上り下りするのか、ひえ~、と内心思い、さらに聞きました。

「みなさん何人で来られているんですか?」

すると、「生徒が9人で、先生が2人です」 と答えが返ってきました。
見ると確かに、石段を見上げた向こうの端に、部の顧問と思われる先生が2人、ストップウォッチを持って待ち構えていました。

残りの生徒9人が、ノルマの10本目指して走り続けるその横を歩いて、266段を上って本堂に辿り着き、絶対秘仏の千手観音菩薩の見えない御影の前に立ち、読経し、合掌礼拝。
おっさんの上野三十四観音札所巡りは、それでひとまず結願を達成できました。



そうしている間も、振り返った背後では、「ほら最後走れ走れ!」「あと1本!」「ほらもっと腕振って腕振って!」 と顧問の先生が檄を飛ばす中、ノルマ10本に挑戦する部員たちの格闘が続いていました。

最後の一人が石段を駆け上って来て、全員がノルマ完了したのを見届けた顧問の先生2人は、観音堂(本堂)にお参りし、「よし、じゃあ恒例のあれやろう!」 と言って、生徒9人全員を引き連れ、観音堂の向かいにある楼門へ上がっていきました。

楼門の上から、市街を遠く見渡して談笑する、生徒9人と先生2人 ・・・・。
まぶしいその後ろ姿は、まさに 「尊き御方の十一人連れ」 に他なりませんでした。
その日の帰り道が、いつもにも増して実ちた気持ちだったのは、言うまでもありません。



そんな出来事が、今から十数年前にありました。
ただの偶然と言ってしまえば、そうかもしれません。
それがあったからといって、何がどうなったわけでもありません。
しかし、寺社巡りの道中で時々遭遇する、不思議な偶然の一致。
それは、自分だけのひそやかな原体験として、心の中の大切な思い出になります。
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