嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

津軽三味線

2007年03月06日 06時51分41秒 | 駄文(詩とは呼べない)
津軽三味線の音を、聴きたいと思った。

ただ、僕は津軽三味線の事は何も知らないし、
聞いたこともないし、それがどんな音なのかも知れないまま。
それが、それだけが唯一の問題でもあった。

ただある日唐突にそれが頭に浮かんで どうしても確かめたくなったから
それを聞いてみたくなったのだとしたら、
僕は聞いた瞬間に例えそれが嘘で出来ていたとしても、
必死に塗り固めたなけなしのちっぽけな音色だったとしても、
僕はそれによって津軽三味線を知ったことになるだろう。
そして知ったかぶりすることになるだろう。

どっちにしろ、僕は津軽三味線の事なんて、何も知らないのだから。
ある意味では、それは存在にとてもよく似ていて
スプーンで掬ったひとしきりの宇宙の味に似ている。
それを何も知らない事だけが、唯一の、それを知る資格となるのだし、
そしてまた、真実と、本質とを、何も見極めることが出来ない僕の馬鹿さ加減だけが、
津軽三味線を「知る」ことができるのだから。

しかしたぶん、ひとたびそれを聞くことができれば、
それはその内実を失うと同時に、
がっかりする速度で僕は感動するだろう。
初めての、その一回目だけが、涙が出るほど大切な味で、
何かを知ってしまえば、その瞬間に、その実そのものであるところの
味は永遠に失われてしまうのだから。

通過した瞬間にだけ、フレームと等価になった瞬間だけ、
失われた痛みとともに、僕は味を知る。
そしてその味は、【僕の痛みの音色を奏でる】
三味線の事は知らない。津軽三味線のことは、もっと知らない。

たぶん、聴きたくもない。

しかしただ、小さな出来事は、
きっかけとして、時として何かを超越するための
「きっかけとして」僕に作用する。
どこから生まれたのかはわからない。
けれど、誰かが僕に囁く。

遠い記憶の彼方から、僕に、そのことをささやく。
そしてまた、僕は何者に教えてもらったのか、そのことをも失う。

物語はまた、秘密の味に似ている。
スプーン一杯ですくった、その通いたぎった血と似ていて、
内実を、秘密の味に変える。
創作性、と人は呼ぶのかもしれないけど。
想像力の中で体感された出来事だけが、
約束された秘密だけが、
僕の小さな器の中で記憶になっていくのだとしたら、
忘れられることは、信じがたいほどちっぽけな痛みだろう。

無遠慮な、エネルギーの固まりから、
自分という、フレームをつかみ取った瞬間だけ、
僕は僕としてここに立脚されるのだから。

記憶してもらうことだけが、
その他者性だけが、
存在の証明に似ているなら、
僕はもう、いつだって等速度で死にかけた魂なのだから、
削ることは、もはや痛みとは呼べない。
ただ、囁かれた遺書となるだけだ。

僕が何者であったのか、
それはもう意識の問題とはならない。
僕をきっかけに、君が何を知ったのか、
ただ、その事だけが問題となるだろう。

だから僕はここで、君に一つの絞り込んだ命題に似た問題を問うことになるだろう。

「津軽三味線を聴きたいか?」

僕は答える。
『津軽三味線なんか知りたくない。』

それでもまだ、僕のフレームは津軽三味線を聞きたいと
ただ、ありのままに普通に聞きたいとねだるだろう。
もはやそこに本質は何もない、
透き通った、誰のためにもならない、ただ超現実の扉を開けて、
三味線の音が、現実としてやってくる。

その音を聞きながら、僕はきっと、狂ったようによだれを垂らす。
死にかけた瞳から、生きてるかもしれないって嘘に、
ただ、縋ってここにあるために。