北海道野付郡別海町にあった泉川駅は、釧網本線の標茶駅から根室標津駅に至る本線(69.4km)と中標津駅根室本線の厚床駅に至る支線(47.5km)の2つの線からなっていた全線単線非電化の国鉄標津線(116.9km)の信号場として、1944(昭和19)年5月1日に開設しました。
その後、一般駅に昇格し泉川駅となりますが、標津線が国鉄からJR北海道に移行後の1989(平成元)年5月1日で廃止されたことに伴い、廃駅となりました。
一般駅に昇格後は、島式ホーム1面2線と相対式ホーム1面1線の計2面3線を有していて、列車交換も行われていました。 また、この駅からは原木や木炭の搬出がなされていたので、そのための貨物積降線もありましたが、貨物取扱い廃止後は撤去され、さらに駅の無人化後は駅舎側にあった島式ホームの線路も撤去されてしまい、標津線廃止時点で泉川駅は相対式ホーム1面1線を有するのみでした。
1958(昭和33)年11月に竣工した駅舎が構内の南東側(標茶方面に向かって左側)の中標津寄りにあり、各ホームとは構内踏切で連絡していました。
泉川駅が属していた標津線は、根釧原野の開拓に伴う物資や農産物を輸送するためと産業の振興をはかるため、改正鉄道敷設法別表第149号に規定する「根室国厚床付近ヨリ標津ヲ経テ北見国斜里ニ至ル鉄道」の一部並びに第150号「根室国中標津ヨリ釧路国茶ニ至ル鉄道」により建設されましたが、沿線の大部分は原野と農地が占め、この地域で町として成長した地区は中標津など数駅の周辺だけであり、広域的にみれば全国でも有数の人口希薄地域だったので、開業当初から標津線の利用者は限られており、貨物取扱量も1965(昭和40)年をピークに減少に転じました。 そのため、1968(昭和43)年9月1日に国鉄諮問委員会が提出した“赤字83線”の意見書にも名を連ね(当時の営業係数は219)、いくつかの駅を直営駅から業務委託駅に転じさせるなどして経費の圧縮を試みましたが焼け石に水で、年々赤字が増えていきました(1970年の営業係数は405)。 1980(昭和55)年12月27日の国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)施行による特定地方交通線選定の際には第2次特定地方交通線に選定されますが、営業キロが100km以上もあった長大路線であったため地元の自治体が特別な配慮を求めたことや、沿線道路が未整備だったため、冬季の代替輸送に問題があるなどの理由により一時廃止承認が保留されたものの、その後、運輸省(現・国土交通省)の調査結果を受けて1985(昭和60)年8月2日に追加廃止承認されてしまいます。
そして標津線は、1987(昭和62)年4月1日の国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)に承継された後、1989(平成元)年5月1日に廃止され、これに伴い泉川駅も廃駅となりました。
<泉川駅の年表>
・1944(昭和19)年5月1日:国鉄標津線の信号場として開設
・1952(昭和27)年3月25日:信号場から一般駅に昇格し、泉川駅となる
・1958(昭和33)年11月19日:駅舎改築
・1961(昭和36)年3月31日:貨物取扱い廃止
・1984(昭和59)年2月1日:荷物取扱い廃止
・1986(昭和61)年11月1日:駅の無人化、交換設備の運用を停止
・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅となる
・1989(平成元)年5月1日:標津線の廃止に伴って廃駅となる
(駅 名 標)
(標茶方面を望む)
(駅舎・ホーム側)
(泉川駅駅舎)
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