なぜ李氏朝鮮は社会発展が停滞したか
世界史ブログ
2015•02•04
何が中華の優等生の発展を阻害したのか
李氏朝鮮(1392年〜1910年)は、日本で言うと室町時代から明治時代まで朝鮮半島を統治した王朝。
訓民正音(ハングル)の制定や「経国大典」の作成など、現在の朝鮮半島の大きな部分を成す文化が作られた一方で社会発展は著しく停滞。
朝鮮はもともと日本よりよっぽど文明国だったのですが、19世紀末に日本が素早く近代化に成功したのに対して、自浄作用がうまく機能せずにとうとう1910年に日本に併合されてしまいます。何が李氏朝鮮の社会発展を阻害したのか。
組織論としても、現代韓国を見る上でも重要な視点だと思います。
1. 国の建国理念
崇儒排仏
李氏朝鮮は建国理念に「崇儒排仏」を置きました。その名の通り「儒教を重んじ、仏教を排除する」こと。
理由としては、前王朝である高麗の建国理念が仏教であったので前王朝の権威を否定する狙いがありました。
本来高麗王朝は、儒教を軽んじていたわけではなく、太祖・王健は「仏教と儒教を互いに補完する存在」と見なし儒教を重んじました。
しかし歴代の国王たちは仏教を特に重んじる傾向があり、仏事に傾倒して国政を顧みない者が続出。
高麗末には王権と癒着した仏教勢力を排除すべく朱子学派が台頭し、そのパワーは高麗打倒の源になりそのまま李氏朝鮮に受け継がれました。
2. 防衛政策
対外施策
高麗は末期まで元王朝の影響下にあり、元をモンゴル高原に追いやった明王朝と対立関係にありました。
北方からの敵の侵入に苦しんだ高麗の経験を鑑み、李氏朝鮮は明王朝との関係改善を重視。1年に3回朝貢を行うなど積極的に明王朝の傘下に入ります。
日本に対しては、足利将軍や西日本の豪族たちと通交して制限つきながら交易を認め、武装商人である倭冦が暴走するのを極力抑えようとしました。
国内施策
国軍は中央に配置される職業軍人(五衛軍)と、地方に配置される使役農民の軍(鎮守軍)で構成されました。
原則として各道に陸軍と水軍を1つずつ。
対女真族のため北方には陸軍を2つ。
対倭冦のため南方には陸軍と水軍を2つずつ。
最前線のトップは武官でしたが、ほとんどは「文臣優位」に基づき文官が務めました。
3. 科挙の実施
科挙はご存知の通り、全国の若者の中から優秀な人物を選抜する官僚試験のことで、合格して文班か武班に就任すると、エリート階級である「両班」になることができました。
いくら両班の子だからと言って子どもも官僚になれるわけではなく、ちゃんと試験にパスしなければ一代で落ちぶれることもありました。
また科挙自体は高麗時代から行われていましたが、このときは武班(士)の試験はほとんどなかったのですが、太祖・李成桂は武を重んじる人であったため、李氏朝鮮期には武班の試験も取り入れられました。
3年に1度試験が行われ、合格人数は文武あわせて約60人ほど。その倍率は1000倍以上にもなったそうです。
4. 経済政策
農業政策
李氏朝鮮に限らず歴代の朝鮮半島の王朝は「農者天下之大本」として、産業としての農業を重視しました。農業についての研究が奨励され、いくつかの農業関連本が出版された他、田植え法の普及で農業技術が向上し生産効率が上がりました。
工業政策
工業に関しては、農民が副業的に手工業を営む程度でほとんど工業は奨励されませんでした。
鉱業政策
初期には明に金150両、銀700両を明王朝に捧げる必要がありましたが、国力の疲弊を招くことを恐れた世宗は明王朝に対し
「もう我が国では金銀は採れませんので」
と言って代わりに人参を朝貢し、金銀の採掘量を極端に制限させました。
商業政策
農業が基本で流通網も発達しなかったため、近隣の市場での物々交換が主でした。貨幣の流通を試みているも、あまり普及せずに終わっています。
5. その結果何が起きたか
5-1. 事大主義と小中華思想
明国と冊封体制への過度な依存は、
「何かあったら明国が助けてくれる」
という事大主義を蔓延させ、高麗時代からあった「尚文軽武」を加速させる結果となりました。
儒教ばかり勉強して武については何も知らない文官が軍のトップに就任することがほとんど。
そのため、秀吉の朝鮮侵攻の際には朝鮮の正規軍は、歴戦のプロ軍人であった日本の武士団の前にほとんど歯が立ちませんでした。
また明が女真族の後金(後の清)に取って代わった後は、軍事・経済的に清に依存しつつ「夷狄(野蛮人)に学ぶのは恥ずかしい」という意識が広く蔓延。小中華主義は西洋のみならず、清の優れた文物の導入を阻害しました。
5-2. 不毛な内部抗争
国王を補佐する官僚は派閥を形成して互いに争います。
有名なものが「勲旧派」と「士林派」で、学問的争いならいいですが血なまぐさい殺し合いに発展することも多く、多くの場合中央政界に大混乱をもたらしました。
聡明な君主だった第4代国王・世宗の元で活躍した勲旧派は、形式ばかりにうるさい朱子学を重んじる士林派を4度に渡って大弾圧しています(4大士禍)。
1576年の宣宗の就任とともに、逆に士林派が勲旧派を駆逐し、以降の朝鮮の官僚派閥は士林派で占められ、かつ朱子学をもって至高とする空気が作られました。
官僚のポストを独占した士林派も、出身地ごとに東人派・西人派に分裂し抗争。東人派は北人派と南人派に分裂。
北人派も大北人派と小北人派に分裂し…と際限なく抗争が続き、不毛な政争に多大なエネルギーが使われました。
5-3. 教育が一般層に普及しない
教育施設として、各郷村には私立の書堂が設立されていました。日本の寺子屋みたいな感じですね。
寺子屋では、庶民が実生活に使える読み、書き、そろばんが教えられたのに対し、書堂では「科挙の試験対策」のためのエリート教育が施されました。
科挙に合格するためには、幼少期から十数年も詰め込みでとにかく勉強しなくてはならず、受験にかかる費用は莫大で到底庶民の手に届くものではありませんでした。
教育が一部のエリートのためのものだったので、一般大衆の意識や考えはタイムカプセルのように昔ながらの素朴なものを維持し続けます。
末期に改革派が近代化に乗り出しても庶民が全くついてこず、逆に土着信仰のような「極楽浄土の実現」を目指して反乱を起こし改革派に敵対する有様でした。
5-4. 後手に回った経済政策
朝鮮時代の経済の基礎は農業であり、為政者も農業政策には熱心でしたが工業や商業にはあまり関心を向けませんでした。しかし秀吉の朝鮮出兵の結果、田畑が荒されて離散民が相次ぎ、田税の収入が激減してしまいます。
そこで1608年には農産物の代わりに布や銭で税金を治められる「大同法」が成立。
戦争によって疲弊した農民層の負担を軽くして生活を安定させることを目的としました。
またこれは、農業に適さない土地で商品経済を発展させる狙いもありましたが、農作物を取り立てる中間搾取層が反発し、普及させるのに100年もかかってしまいました。
しかし大同法によって手工業・流通・鉱工業が目に見えて発展し、初期資本主義の芽生えと平民階級の台頭が見られるまでに成長します。
しかしアンシャンレジームを倒すまでのブルジョワジーが育つ前に、「黒船の時代」が来てしまいました。
6. いくつもあった改革のチャンス
ここまで書くと朝鮮には自浄作用がないように見えますが決してそんなことはなく、いくつも改革のチャンスが訪れています。
しかしその度に保守派によって潰されてしまったのが悲劇の元です。
6-1. 李珥の改革失敗 1584年
1582年に国防大臣に就任した李珥(イ・イ)は、「10年以内に土が崩れるように混乱が起きるだろう」として10万人養兵論を展開しますが、東人派の弾圧を受けて失脚し彼の提案は実行されずに終わってしまいます。
しかし、李珥の予言は的中。
1592年に秀吉による侵略。さらに1626年に女真族による侵略と短い間に外国の軍隊に荒らされ、朝鮮は経済的にも文化的にも大打撃を受けてしまいました。
6-2. 昭顕世子殺害 1645年
昭顕世子は清に恭順を誓った仁祖の息子で、人質として北京に送られました。
昭顕世子は北京で「崇禎暦書」を編纂したことで名高いドイツ人アダム・シャールと親交を結び、西欧の進んだ文物に触れました。
8年間の人質生活の後帰国した昭顕世子は「夷狄である清のシンパ」であるとして殺害されてしまいます。
清経由で進んだ西欧の文物を取り入れるチャンスを、小中華思想のプライドから自ら潰してしまったのでした。
6-3. 実学派弾圧 1801年
上で述べた通り、朝鮮の官僚や学者は様々な派閥に別れて飽くなき不毛な闘争を続けていましたが、19世紀にはようやく「朝鮮の貧困問題を解決するために清国や西欧に学ぼう」とする学派が現れます。特に盛んだったのが西学研究で、 清国経由で西欧の文物を輸入して研究します。
しかし実学とキリスト教を切り離さずにそのまま天主教(キリスト教)の信者になる学者が登場。それを口実に「反儒教的」であると批判され、西学のみならず実学派全体が大弾圧され途絶えてしまう結果に。
日本や清では西洋研究が国家プロジェクトとして推進されたのに対し、朝鮮はそこが決定的に欠落してしまいました。
6-4. 甲申政変の失敗 1884年
近代化に成功した日本に学び、朝鮮で改革を断行しようとする開化派(金玉均、朴泳孝、徐載弼など)は、日本軍の武力を借りてクーデーターを敢行。一時的に実権を握りますが、清軍の袁世凱の介入にあい3日で崩壊。
その後朝鮮は清国への依存を強めていき、それをさせまいとする日本との間で日清戦争が勃発するきっかけになります。
まとめ
朝鮮は中国や日本と言う2つの大国に挟まれた地理的不利もあり、たびたび外的要因に振り回されています。
その主体性の取りづらさ、民族のアイデンティティを保とうとする故なのでしょうか、異常に「純粋性」にこだわる傾向にあり、それは朱子学によって輪をかけて強烈になっています。
その結果、建前が正しいとみなさればすべて正当化されてしまう風潮ができた。
だから争いの焦点は建前が何が正しいかであって、中身にまで至らない。
中身がないから官僚や学者同士の空中戦は庶民に関係ない問題となる。
結局、庶民文化は昔ながらの古き良きものが残る一方で、イノベーションは上からしか起こらない構造になってしまった。
伊能忠敬のような市井の天才は、とうとう朝鮮からは現れなかった。
おそらくこれは現在も同じで、サムスンやヒュンダイのような巨大企業しかイノベーションが起こせず、中小は昔学んだことをひたすらやり続けるしか能がない。
上に登りつめないと未来がないから親は子どもたちに必死で勉強させ、それが熾烈な受験・就職戦争となる。
トップの向かう方向性が正しければ国全体が勢いよく伸びるが、トップが崩れると下まで一緒に崩れてしまう脆い社会構造。
朝鮮の受難の時代は、今の韓国社会にも大きく尾を引いています。
参考文献:「歴史物語 朝鮮半島」朝日新聞出版 姜在彦
歴史物語 朝鮮半島 (朝日選書)
作者: 姜在彦
出版社/メーカー: 朝日新聞社
発売日: 2006/09
世界史ブログ
2015•02•04
何が中華の優等生の発展を阻害したのか
李氏朝鮮(1392年〜1910年)は、日本で言うと室町時代から明治時代まで朝鮮半島を統治した王朝。
訓民正音(ハングル)の制定や「経国大典」の作成など、現在の朝鮮半島の大きな部分を成す文化が作られた一方で社会発展は著しく停滞。
朝鮮はもともと日本よりよっぽど文明国だったのですが、19世紀末に日本が素早く近代化に成功したのに対して、自浄作用がうまく機能せずにとうとう1910年に日本に併合されてしまいます。何が李氏朝鮮の社会発展を阻害したのか。
組織論としても、現代韓国を見る上でも重要な視点だと思います。
1. 国の建国理念
崇儒排仏
李氏朝鮮は建国理念に「崇儒排仏」を置きました。その名の通り「儒教を重んじ、仏教を排除する」こと。
理由としては、前王朝である高麗の建国理念が仏教であったので前王朝の権威を否定する狙いがありました。
本来高麗王朝は、儒教を軽んじていたわけではなく、太祖・王健は「仏教と儒教を互いに補完する存在」と見なし儒教を重んじました。
しかし歴代の国王たちは仏教を特に重んじる傾向があり、仏事に傾倒して国政を顧みない者が続出。
高麗末には王権と癒着した仏教勢力を排除すべく朱子学派が台頭し、そのパワーは高麗打倒の源になりそのまま李氏朝鮮に受け継がれました。
2. 防衛政策
対外施策
高麗は末期まで元王朝の影響下にあり、元をモンゴル高原に追いやった明王朝と対立関係にありました。
北方からの敵の侵入に苦しんだ高麗の経験を鑑み、李氏朝鮮は明王朝との関係改善を重視。1年に3回朝貢を行うなど積極的に明王朝の傘下に入ります。
日本に対しては、足利将軍や西日本の豪族たちと通交して制限つきながら交易を認め、武装商人である倭冦が暴走するのを極力抑えようとしました。
国内施策
国軍は中央に配置される職業軍人(五衛軍)と、地方に配置される使役農民の軍(鎮守軍)で構成されました。
原則として各道に陸軍と水軍を1つずつ。
対女真族のため北方には陸軍を2つ。
対倭冦のため南方には陸軍と水軍を2つずつ。
最前線のトップは武官でしたが、ほとんどは「文臣優位」に基づき文官が務めました。
3. 科挙の実施
科挙はご存知の通り、全国の若者の中から優秀な人物を選抜する官僚試験のことで、合格して文班か武班に就任すると、エリート階級である「両班」になることができました。
いくら両班の子だからと言って子どもも官僚になれるわけではなく、ちゃんと試験にパスしなければ一代で落ちぶれることもありました。
また科挙自体は高麗時代から行われていましたが、このときは武班(士)の試験はほとんどなかったのですが、太祖・李成桂は武を重んじる人であったため、李氏朝鮮期には武班の試験も取り入れられました。
3年に1度試験が行われ、合格人数は文武あわせて約60人ほど。その倍率は1000倍以上にもなったそうです。
4. 経済政策
農業政策
李氏朝鮮に限らず歴代の朝鮮半島の王朝は「農者天下之大本」として、産業としての農業を重視しました。農業についての研究が奨励され、いくつかの農業関連本が出版された他、田植え法の普及で農業技術が向上し生産効率が上がりました。
工業政策
工業に関しては、農民が副業的に手工業を営む程度でほとんど工業は奨励されませんでした。
鉱業政策
初期には明に金150両、銀700両を明王朝に捧げる必要がありましたが、国力の疲弊を招くことを恐れた世宗は明王朝に対し
「もう我が国では金銀は採れませんので」
と言って代わりに人参を朝貢し、金銀の採掘量を極端に制限させました。
商業政策
農業が基本で流通網も発達しなかったため、近隣の市場での物々交換が主でした。貨幣の流通を試みているも、あまり普及せずに終わっています。
5. その結果何が起きたか
5-1. 事大主義と小中華思想
明国と冊封体制への過度な依存は、
「何かあったら明国が助けてくれる」
という事大主義を蔓延させ、高麗時代からあった「尚文軽武」を加速させる結果となりました。
儒教ばかり勉強して武については何も知らない文官が軍のトップに就任することがほとんど。
そのため、秀吉の朝鮮侵攻の際には朝鮮の正規軍は、歴戦のプロ軍人であった日本の武士団の前にほとんど歯が立ちませんでした。
また明が女真族の後金(後の清)に取って代わった後は、軍事・経済的に清に依存しつつ「夷狄(野蛮人)に学ぶのは恥ずかしい」という意識が広く蔓延。小中華主義は西洋のみならず、清の優れた文物の導入を阻害しました。
5-2. 不毛な内部抗争
国王を補佐する官僚は派閥を形成して互いに争います。
有名なものが「勲旧派」と「士林派」で、学問的争いならいいですが血なまぐさい殺し合いに発展することも多く、多くの場合中央政界に大混乱をもたらしました。
聡明な君主だった第4代国王・世宗の元で活躍した勲旧派は、形式ばかりにうるさい朱子学を重んじる士林派を4度に渡って大弾圧しています(4大士禍)。
1576年の宣宗の就任とともに、逆に士林派が勲旧派を駆逐し、以降の朝鮮の官僚派閥は士林派で占められ、かつ朱子学をもって至高とする空気が作られました。
官僚のポストを独占した士林派も、出身地ごとに東人派・西人派に分裂し抗争。東人派は北人派と南人派に分裂。
北人派も大北人派と小北人派に分裂し…と際限なく抗争が続き、不毛な政争に多大なエネルギーが使われました。
5-3. 教育が一般層に普及しない
教育施設として、各郷村には私立の書堂が設立されていました。日本の寺子屋みたいな感じですね。
寺子屋では、庶民が実生活に使える読み、書き、そろばんが教えられたのに対し、書堂では「科挙の試験対策」のためのエリート教育が施されました。
科挙に合格するためには、幼少期から十数年も詰め込みでとにかく勉強しなくてはならず、受験にかかる費用は莫大で到底庶民の手に届くものではありませんでした。
教育が一部のエリートのためのものだったので、一般大衆の意識や考えはタイムカプセルのように昔ながらの素朴なものを維持し続けます。
末期に改革派が近代化に乗り出しても庶民が全くついてこず、逆に土着信仰のような「極楽浄土の実現」を目指して反乱を起こし改革派に敵対する有様でした。
5-4. 後手に回った経済政策
朝鮮時代の経済の基礎は農業であり、為政者も農業政策には熱心でしたが工業や商業にはあまり関心を向けませんでした。しかし秀吉の朝鮮出兵の結果、田畑が荒されて離散民が相次ぎ、田税の収入が激減してしまいます。
そこで1608年には農産物の代わりに布や銭で税金を治められる「大同法」が成立。
戦争によって疲弊した農民層の負担を軽くして生活を安定させることを目的としました。
またこれは、農業に適さない土地で商品経済を発展させる狙いもありましたが、農作物を取り立てる中間搾取層が反発し、普及させるのに100年もかかってしまいました。
しかし大同法によって手工業・流通・鉱工業が目に見えて発展し、初期資本主義の芽生えと平民階級の台頭が見られるまでに成長します。
しかしアンシャンレジームを倒すまでのブルジョワジーが育つ前に、「黒船の時代」が来てしまいました。
6. いくつもあった改革のチャンス
ここまで書くと朝鮮には自浄作用がないように見えますが決してそんなことはなく、いくつも改革のチャンスが訪れています。
しかしその度に保守派によって潰されてしまったのが悲劇の元です。
6-1. 李珥の改革失敗 1584年
1582年に国防大臣に就任した李珥(イ・イ)は、「10年以内に土が崩れるように混乱が起きるだろう」として10万人養兵論を展開しますが、東人派の弾圧を受けて失脚し彼の提案は実行されずに終わってしまいます。
しかし、李珥の予言は的中。
1592年に秀吉による侵略。さらに1626年に女真族による侵略と短い間に外国の軍隊に荒らされ、朝鮮は経済的にも文化的にも大打撃を受けてしまいました。
6-2. 昭顕世子殺害 1645年
昭顕世子は清に恭順を誓った仁祖の息子で、人質として北京に送られました。
昭顕世子は北京で「崇禎暦書」を編纂したことで名高いドイツ人アダム・シャールと親交を結び、西欧の進んだ文物に触れました。
8年間の人質生活の後帰国した昭顕世子は「夷狄である清のシンパ」であるとして殺害されてしまいます。
清経由で進んだ西欧の文物を取り入れるチャンスを、小中華思想のプライドから自ら潰してしまったのでした。
6-3. 実学派弾圧 1801年
上で述べた通り、朝鮮の官僚や学者は様々な派閥に別れて飽くなき不毛な闘争を続けていましたが、19世紀にはようやく「朝鮮の貧困問題を解決するために清国や西欧に学ぼう」とする学派が現れます。特に盛んだったのが西学研究で、 清国経由で西欧の文物を輸入して研究します。
しかし実学とキリスト教を切り離さずにそのまま天主教(キリスト教)の信者になる学者が登場。それを口実に「反儒教的」であると批判され、西学のみならず実学派全体が大弾圧され途絶えてしまう結果に。
日本や清では西洋研究が国家プロジェクトとして推進されたのに対し、朝鮮はそこが決定的に欠落してしまいました。
6-4. 甲申政変の失敗 1884年
近代化に成功した日本に学び、朝鮮で改革を断行しようとする開化派(金玉均、朴泳孝、徐載弼など)は、日本軍の武力を借りてクーデーターを敢行。一時的に実権を握りますが、清軍の袁世凱の介入にあい3日で崩壊。
その後朝鮮は清国への依存を強めていき、それをさせまいとする日本との間で日清戦争が勃発するきっかけになります。
まとめ
朝鮮は中国や日本と言う2つの大国に挟まれた地理的不利もあり、たびたび外的要因に振り回されています。
その主体性の取りづらさ、民族のアイデンティティを保とうとする故なのでしょうか、異常に「純粋性」にこだわる傾向にあり、それは朱子学によって輪をかけて強烈になっています。
その結果、建前が正しいとみなさればすべて正当化されてしまう風潮ができた。
だから争いの焦点は建前が何が正しいかであって、中身にまで至らない。
中身がないから官僚や学者同士の空中戦は庶民に関係ない問題となる。
結局、庶民文化は昔ながらの古き良きものが残る一方で、イノベーションは上からしか起こらない構造になってしまった。
伊能忠敬のような市井の天才は、とうとう朝鮮からは現れなかった。
おそらくこれは現在も同じで、サムスンやヒュンダイのような巨大企業しかイノベーションが起こせず、中小は昔学んだことをひたすらやり続けるしか能がない。
上に登りつめないと未来がないから親は子どもたちに必死で勉強させ、それが熾烈な受験・就職戦争となる。
トップの向かう方向性が正しければ国全体が勢いよく伸びるが、トップが崩れると下まで一緒に崩れてしまう脆い社会構造。
朝鮮の受難の時代は、今の韓国社会にも大きく尾を引いています。
参考文献:「歴史物語 朝鮮半島」朝日新聞出版 姜在彦
歴史物語 朝鮮半島 (朝日選書)
作者: 姜在彦
出版社/メーカー: 朝日新聞社
発売日: 2006/09