「投げ出したくなったとき」
誰でも、ときには、普通以上の事はすべて投げ出したくなることがあるものだ。
しかし、この時は、しばしば勝利が間近に迫っていたのである。
それは人生の最も危険な瞬間であるが、
また最良の瞬間でもある。
なぜなら、
その時こそ「進め」と言う神の呼びかけが、
あなたに向かってなされるからである。
しかし、
その前にまず、
これまであなたの所有していた一切が
不満足なものであることが示されることによって、
あなたの魂に前進の欲求が呼び覚まされねばならない。
したがって、
それは絶望ではなくて、
むしろ新しい出発を意味している。
古いものは過ぎ去り、
新しいものが来ようとしているのだ。
しかし、
この信仰と生活の進歩は、単に知識や思考力が増すことではなく、
しばしば激しい抵抗や苦痛のもとで具体的な何ものかが加わることである。
極めて明瞭に気付かされることは、
今や前と異なった状態が生じ、
以前にはできなかったことができるようになり、
また
長い間いたずらに求めていたものや、
あるいはただ待っているつもりだったものが、
突然、ほんとうに得られることである。
だから、聖書がこの前進をしばしば新生にたとえているのは至当である。
(「幸福論」ヒルティより)
投げ出したくなったら、もうちょっと進む。
今が一番の山のとき。
勝利は近い。
克服は近い。(^_^)
誰でも、ときには、普通以上の事はすべて投げ出したくなることがあるものだ。
しかし、この時は、しばしば勝利が間近に迫っていたのである。
それは人生の最も危険な瞬間であるが、
また最良の瞬間でもある。
なぜなら、
その時こそ「進め」と言う神の呼びかけが、
あなたに向かってなされるからである。
しかし、
その前にまず、
これまであなたの所有していた一切が
不満足なものであることが示されることによって、
あなたの魂に前進の欲求が呼び覚まされねばならない。
したがって、
それは絶望ではなくて、
むしろ新しい出発を意味している。
古いものは過ぎ去り、
新しいものが来ようとしているのだ。
しかし、
この信仰と生活の進歩は、単に知識や思考力が増すことではなく、
しばしば激しい抵抗や苦痛のもとで具体的な何ものかが加わることである。
極めて明瞭に気付かされることは、
今や前と異なった状態が生じ、
以前にはできなかったことができるようになり、
また
長い間いたずらに求めていたものや、
あるいはただ待っているつもりだったものが、
突然、ほんとうに得られることである。
だから、聖書がこの前進をしばしば新生にたとえているのは至当である。
(「幸福論」ヒルティより)
投げ出したくなったら、もうちょっと進む。
今が一番の山のとき。
勝利は近い。
克服は近い。(^_^)