🍜🍜更科蕎麦🍜🍜
そば御三家の1つに数えられる更科。
私は、その伝統を受け継ぐ「総本家更科堀井」9代目当主として、
東京の麻布十番本店と立川店の運営に携わっています。
おかげさまで創業から280年にもわたり多くのお客様に親しまれ、
毎年、大晦日ともなれば本店だけでも、店内で二千食、お土産で二千食、都合四千食ものご注文をいただいて、てんてこ舞いとなります。
更科は、当店の祖・布屋太兵衛が寛政元年(1789年)に
「信州更科蕎麦処」を構えて製造を始めた蕎麦に端を発します。
太兵衛はもともと信州の反物商でしたが、
地元では蕎麦打ち上手としても知られ、
領主の保科兵部少輔の勧めで蕎麦屋に転じ、
保科家の江戸屋敷に近い麻布永坂町に店を構えました。
太兵衛の打つ更科蕎麦は、蕎麦の実の芯の部分だけを用いるため、
麺の色が白く、上品な風味が特徴で、
将軍家や大名屋敷で評判となり、広く親しまれるようになりました。
7代目の祖父の時代には廃業の憂き目に遭うものの、地元の方々のご支援をいただき営業再開。
支店も増えて業績も盛り返しますが、
8代目の父は堀井家の業として、お店を絞り込み、
よりきめ細かな運営を志し、
私が大学を出た昭和59年に独立して現在の「総本家更科堀井」を立ち上げました。
私はそれまで蕎麦づくりに携わった事は全くありませんでしたが、
父から直前に、
「お前がその気なら、新しい店を始める」
と意思を問われ、
父と共に新しい一歩を踏み出す決意をしたのでした。
当初から現場は、ほとんど私に一任されていましたが、
開店が大学を出た年の暮れであったため、
事前に蕎麦打ち修業を積む余裕は、ほとんどありませんでした。
幸い、戦前に暖簾分けしたお店や、他の老舗から多大なご支援をいただき、
一流の技術を修得していく機会には恵まれたものの、
実積のある他の繁盛店にはどうしても及びません。
どうしたら、もっとお客様に足を運んでいただけるか。
私には、ひたすら蕎麦の品質を磨きあげることしか手立てが浮かびませんでした。
そこで、機械打ちが一般的になっていた蕎麦打ちを手打ちに戻し、
お汁も鰹本節を長時間煮詰めこしらえたものを、湯煎にかけ休ませた後にお出しするなど、
祖先がやっていた昔の本格的な蕎麦づくりに回帰して、他店との差異化を図りました。
その傍らで、そば好きの私は評判のよいお店を食べ歩き、
よいと思ったことはどんどん取り入れていきました。
日本一おいしい蕎麦を夢見て、
自分のお店より美味しい蕎麦があるのは許せない、
というくらいの気構えで若い情熱を燃やしていました。
そうした工夫努力を特段お客様にアピールしたわけではありませんが、
翌年から不思議と売り上げが伸び始め、
年商も数年で開店当初の倍になり、
テレビや雑誌にも、しばしば取り上げられる繁盛店になったのです。
昔の蕎麦づくりに回帰することは、
時間も手間もかかる非効率なやり方にあえて踏み込んでいくことでもあります。
1つ手間をかければ、次の手間が生まれ、
やればやるほど道は険しくなりますが、
商品というのは、そのようにして磨き上げていくものだと実感しています。
作り手の商品に対する愛情の大きさを何で測るかと言えば、
どれだけの時間を費やしてつくったか、どれほどの手間暇をかけてつくったかだと私は考えます。
その愛情は、自ずとお客様にも伝わり、商品への評価となって表れるものだと思うのです。
もっとも、この考えが信念に高まるまでには失敗もありました。
一時期、大手企業の蕎麦屋の監修や、社業とは直接かかわりのない地域・業界の活動に忙殺され、
現場から気持ちが離れていたことがありました。
その間、本業の業績は徐々に下がっていたにもかかわらず、
他からの収入もあったため危機感に乏しく、
7年前に外の仕事が途絶えて赤字に陥り、
初めて事態の深刻さを痛感させられたのです。
そんな私を支えてくれたのが社員たちでした。
外の仕事にうつつを抜かしている間、
心の離れていた彼らと、もう一度腹を割って話し合いを重ねる中で、
彼らは現場の実情を踏まえた貴重な提案をしてくれ、
「もう一度がんばりましょう」
と決意を新たにしてくれたのです。
おかげさまで1年で業績は回復し、
お店を再び成長の軌道に戻すことができました。
私はコミニケーションの大切さ、社員のありがたさを身に染みて実感しました。
5年前から新卒採用も始め、現在パートさん、アルバイトさんを含め、
2店舗で100名を超えるスタッフが、店の看板を支えてくれています。
会社大きな鍋のようなもので、そこに様々な人が入って、個性をぶつけ合い、
いろんなものが生まれてくるところに面白さがあります。
私は経営者として、メニュー開発や新店の立ち上げ等々、様々な機会を社員に与え、
彼らの個性を生かし、成長を促すことに腐心しています。
いまは
「あなたのそばに、いつも日本の蕎麦と口福(こうふく)を」
を経営理念に、蕎麦を通じて社会の役に立つことを目指しています。
活動の場も、食育や海外店の立ち上げ、東京都の諮問委員など年々広がりつつありますが、
いずれも200年以上続く当店の看板があるからこそいただくご縁。
私はこのことを心に刻み、今後とも蕎麦作りを通じて、
ひと手間の愛情をお客様にお届けし続けて参りたいと考えています。
(「致知7月号」堀井良教さんより)
そば御三家の1つに数えられる更科。
私は、その伝統を受け継ぐ「総本家更科堀井」9代目当主として、
東京の麻布十番本店と立川店の運営に携わっています。
おかげさまで創業から280年にもわたり多くのお客様に親しまれ、
毎年、大晦日ともなれば本店だけでも、店内で二千食、お土産で二千食、都合四千食ものご注文をいただいて、てんてこ舞いとなります。
更科は、当店の祖・布屋太兵衛が寛政元年(1789年)に
「信州更科蕎麦処」を構えて製造を始めた蕎麦に端を発します。
太兵衛はもともと信州の反物商でしたが、
地元では蕎麦打ち上手としても知られ、
領主の保科兵部少輔の勧めで蕎麦屋に転じ、
保科家の江戸屋敷に近い麻布永坂町に店を構えました。
太兵衛の打つ更科蕎麦は、蕎麦の実の芯の部分だけを用いるため、
麺の色が白く、上品な風味が特徴で、
将軍家や大名屋敷で評判となり、広く親しまれるようになりました。
7代目の祖父の時代には廃業の憂き目に遭うものの、地元の方々のご支援をいただき営業再開。
支店も増えて業績も盛り返しますが、
8代目の父は堀井家の業として、お店を絞り込み、
よりきめ細かな運営を志し、
私が大学を出た昭和59年に独立して現在の「総本家更科堀井」を立ち上げました。
私はそれまで蕎麦づくりに携わった事は全くありませんでしたが、
父から直前に、
「お前がその気なら、新しい店を始める」
と意思を問われ、
父と共に新しい一歩を踏み出す決意をしたのでした。
当初から現場は、ほとんど私に一任されていましたが、
開店が大学を出た年の暮れであったため、
事前に蕎麦打ち修業を積む余裕は、ほとんどありませんでした。
幸い、戦前に暖簾分けしたお店や、他の老舗から多大なご支援をいただき、
一流の技術を修得していく機会には恵まれたものの、
実積のある他の繁盛店にはどうしても及びません。
どうしたら、もっとお客様に足を運んでいただけるか。
私には、ひたすら蕎麦の品質を磨きあげることしか手立てが浮かびませんでした。
そこで、機械打ちが一般的になっていた蕎麦打ちを手打ちに戻し、
お汁も鰹本節を長時間煮詰めこしらえたものを、湯煎にかけ休ませた後にお出しするなど、
祖先がやっていた昔の本格的な蕎麦づくりに回帰して、他店との差異化を図りました。
その傍らで、そば好きの私は評判のよいお店を食べ歩き、
よいと思ったことはどんどん取り入れていきました。
日本一おいしい蕎麦を夢見て、
自分のお店より美味しい蕎麦があるのは許せない、
というくらいの気構えで若い情熱を燃やしていました。
そうした工夫努力を特段お客様にアピールしたわけではありませんが、
翌年から不思議と売り上げが伸び始め、
年商も数年で開店当初の倍になり、
テレビや雑誌にも、しばしば取り上げられる繁盛店になったのです。
昔の蕎麦づくりに回帰することは、
時間も手間もかかる非効率なやり方にあえて踏み込んでいくことでもあります。
1つ手間をかければ、次の手間が生まれ、
やればやるほど道は険しくなりますが、
商品というのは、そのようにして磨き上げていくものだと実感しています。
作り手の商品に対する愛情の大きさを何で測るかと言えば、
どれだけの時間を費やしてつくったか、どれほどの手間暇をかけてつくったかだと私は考えます。
その愛情は、自ずとお客様にも伝わり、商品への評価となって表れるものだと思うのです。
もっとも、この考えが信念に高まるまでには失敗もありました。
一時期、大手企業の蕎麦屋の監修や、社業とは直接かかわりのない地域・業界の活動に忙殺され、
現場から気持ちが離れていたことがありました。
その間、本業の業績は徐々に下がっていたにもかかわらず、
他からの収入もあったため危機感に乏しく、
7年前に外の仕事が途絶えて赤字に陥り、
初めて事態の深刻さを痛感させられたのです。
そんな私を支えてくれたのが社員たちでした。
外の仕事にうつつを抜かしている間、
心の離れていた彼らと、もう一度腹を割って話し合いを重ねる中で、
彼らは現場の実情を踏まえた貴重な提案をしてくれ、
「もう一度がんばりましょう」
と決意を新たにしてくれたのです。
おかげさまで1年で業績は回復し、
お店を再び成長の軌道に戻すことができました。
私はコミニケーションの大切さ、社員のありがたさを身に染みて実感しました。
5年前から新卒採用も始め、現在パートさん、アルバイトさんを含め、
2店舗で100名を超えるスタッフが、店の看板を支えてくれています。
会社大きな鍋のようなもので、そこに様々な人が入って、個性をぶつけ合い、
いろんなものが生まれてくるところに面白さがあります。
私は経営者として、メニュー開発や新店の立ち上げ等々、様々な機会を社員に与え、
彼らの個性を生かし、成長を促すことに腐心しています。
いまは
「あなたのそばに、いつも日本の蕎麦と口福(こうふく)を」
を経営理念に、蕎麦を通じて社会の役に立つことを目指しています。
活動の場も、食育や海外店の立ち上げ、東京都の諮問委員など年々広がりつつありますが、
いずれも200年以上続く当店の看板があるからこそいただくご縁。
私はこのことを心に刻み、今後とも蕎麦作りを通じて、
ひと手間の愛情をお客様にお届けし続けて参りたいと考えています。
(「致知7月号」堀井良教さんより)
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