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無用の用

2016-01-20 14:03:00 | 物語
「無用の用」


大工の棟梁の石が、斉の国を旅行して曲轅(きょくえん)という土地に行ったとき、

櫟社(れきしゃ)の神木である櫟(くぬぎ)の大木をみた。

その大きさは数千頭の牛を覆い隠すほどで、

幹の太さは100かかえもあり、
その高さは山を見おろしくいて、

地上から七、ハ十尺もあるところから始めて枝が出ている。

それも船を作れるほどに大きい枝が幾十本とはり出しているのだ。

見物人が集まって市場のような賑やかさであったが、

棟梁は見かえりもせず、そのまま足を運んで通りすぎた。

弟子たちはつくづく見とれていたから、
走って棟梁の石に追いつくと、
尋ねた。

「我々が斧やマサカリを手にして師匠のところに弟子入りしてから、

こんな立派な材木はまだ見たことがありません。

師匠がよく見ようともせずに足を運んで通りすぎたのは、どういう訳でしょうか」

石は答えた、

「やめろ。つまらないことを言うでない。

あれは役立たずの木だ。

あれ舟を作ると沈むし、
棺桶を作るじきに腐るし、

道具を作るとすぐに壊れるし、

門や戸にすると樹脂(やに)が流れだすし、

柱にすると虫がわく。

まったく使いようのない木だよ。

まったく使いようがないからこそ、あんな大木になるまで長生きができたのだ」


棟梁の石が旅を終えて帰ると、

櫟社の神木が夢にあらわれて、こう告げた、

「お前は、いったいこのわしを、何に比べているのかね。

お前は、おそらくこのわしを、役にたつ木と比べているのだろう。

いったい、コボケや梨や橘や柚などの木の実や草の実の類は、

その実が熟するとむしり取られ、
もぎ取られて、大きな枝は折られて、

小さい枝は引きちぎられることになる。

これは、人の役にたつとりえがあることによって、
かえって自分の生涯を苦しめているのだ。

だから、

その自然の寿命を全うしないで途中で若死にすることにもなるわけで、

自分から世俗に打ちのめされているものたのだ。

世の中の物ごとは、すべてこうしたものである。

それに、わしは長い間、

役に立たないものになろうと願ってきたのだが、

死に近づいた今になってやっとそれが叶えられて、

そのことが、わしにとって大いに役立つことになっている。

もし、わしが役にたつ木であったとしたら、

いったいここまでの大きさになれたろうか。

それに、お前もわしも、物であることは同じだ。

どうして相手を物あつかいして批判することができよう。

今にも死にそうな役立たずの人物に、
どうして、まだ役立たずの木のことがわかろうか」


棟梁の石が目を覚ますと、
その夢のことを話して聞かせた。

すると弟子がたすねた。

「自分から無用でありたいと求めていながら、

社の神木などになったのは、どうしてでしょうか」

石は答えた。

「静かに。
お前、つまらんないことを言うでない。

あの木は、ただ神木の形を借りているだけだ。

わからずやどもが悪口を言うのがうるさいと思ったのさ。

神木とならなくても、

まず人間に伐り倒されるような心配は無い。

それに、あの木が大切にしていることは、世間一般とは違っている。

それなのに、

きまった道理でそれを論ずるとは、いかにも見当はずれである」


(「荘子」より)


無用の用とは、

役に立たないと思われているものが、
実際は大きな役割を果たしているということ。

役に立たないように見えるものでも、かえって役に立つこともある。

この世に無用なものは存在しないという教え。

『老子』には

「埴をうちて以て器を為る。
その無に当たりて器の用有り

(粘土をこねて器を作る。

器の中にある空間は、一見、無用に見えるが、

その空間があるから器が作れるのだ)」

とあり、

『荘子』には

「人は皆有用の用を知るも、
無用の用を知る莫きなり

(人はみんな明らかに役立つものの価値は知っているが、

無用に見えるものが、人生において、真に役立つものだとは知らない)」

とある。



この世に存在しているものには、必ず価値がある。

ムダなものは何もない。

意味があって存在する。

その人のとらえ方しだい。
考え方しだい。

私は、そういう考え方が好きです。

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