🌲🌲八田與一〈プロローグ・計画〉🌲🌲
人生においては、いい時もあれば、悪い時もあります。
いいときには笑顔では擦り寄ってきて、
状況が悪くなるとスーッと離れていってしまう人が多い中、
どんなときも思いやりを持って接してくれる人、
例えば、
雨の日に何もいわず、そっと傘を差し出してくれるような人が、
本当の友達といえるのではないでしょうか。
日本にとって、そんな「雨の日の友達」と呼べる存在が、台湾です。
平成23年(2011年)3月11日に東日本大震災が起こると、
台湾の人々は、日本赤十字社が把握しているだけで、
200億円を超える義援金と
400トン以上の支援物資を日本に送ってくれました。
これは、もちろん世界一であると同時に、
世界から寄せられた支援の、およそ3分の1を占めています。
これだけでも驚きに値するのに、
台湾の人々は、日本赤十字社を通さずにその何倍もの支援を送ってくれていて、
その合計は天文学的数字となり、もはや計算できないとさえ言われているのです。
台湾の人口が、日本の5分の1にも満たないこと(2300万人)、
台湾の平均所得が年間2万ドル(震災で当時のレートで約160万円)であること、
さらに日清戦争が終わった1895年から太平洋戦争が終結した1945年まで、
およそ50年もの間、
日本によって統治されていたことを考え合わせると、
この台湾の厚意が、格別なものであると言うことが実感できるでしょう。
なぜ台湾の人々が、ここまで日本に対して厚意を示してくれるくれたのかというと、
それは、
ある1人の日本人土木技師の生涯が、大きく影響しているのです。
その技師の名は、
「八田與一(はったよいち)」。
台湾では、中学校の歴史教科書にも掲載され、
さらに、彼の命日である5月8日に行われる墓前祭に、政府要人の多くが出席するなど、
台湾の人々から深く敬愛されています。
八田與一さんは、
金沢で生まれ育ち、24歳で東京帝国大学(現東京大学)土木課を卒業しました。
卒業後ほどなく台湾総督府土木部の技師として、台湾に赴任しました。
明治43年(1910年)、日本が台湾の統治をはじめて16年目のことです。
そもそも日本が台湾を統治するようになったのは、
日清戦争後の講和条約で、清国(現在の中国)から日本に割譲されたからです。
しかし、清から日本への台湾割譲は、順調に行ったわけではなく、
武装した住民たちの激しい抵抗にあい、
日本軍が台湾を平定するまでの間に、
台湾では、軍民合わせて約17,000人もの犠牲者が出たとされています。
当時の台湾は、人口約300万人、
教育制度は整っておらず、
治安は不安定、
マラリヤやコレラなどの伝染病も蔓延していて、
極めて近代化の遅れた土地でした。
その台湾を統治するにあたって、
日本は、台湾総督府という官庁を設立し、
そのトップである台湾総督に、絶大な権限を持たせました。
台湾総督府は、
まず学校つくり、台湾の人々に教育を施しました。
台北には帝国大学も作られ、
さらに、
優秀な学生を日本に呼び、
日本の国立大学に進学させました。
親日家として知られる「李登輝元総統」は、そのような経緯で京都帝国大学(現京都大学)に進学しています。
教育と並行し、台湾総督府が力を注いだのは、インフラの整備でした。
台湾では日本統治時代に、鉄道、道路、港湾、電信(通信網)、水道など、社会資本が次々に整えられていきました。
日本の台湾統治に関しては、
いろいろ議論がありますが、
当時の日本が、児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造、明石元二郎など、
一線級の人材を送り込んだことは事実で、
彼らは台湾の発展のために尽力しました。
台湾国内でも、このことに理解を示し、
日本統治時代の教育やインフラ整備のおかげで
台湾の産業が発展したと考えてくれる人々が、意外に多いです。
その日本統治時代のインフラ整備の象徴と言うべきものが、
「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」であり、
その計画策定から設計、工事監督まで、すべての責任をになったのが八田與一でした。
嘉南大圳は、
台湾南西部の水利施設で、
川をせき止めて造った「烏山頭ダム」と嘉南平原一帯に網の目のように細く広がる用水路など、からなっています。
烏山頭ダムは、当時東洋一の規模を誇り、
用水路と排水路は、合わせると長さ約16,000キロメートル(およそ地球半周分に相当)にも達しました。
嘉南地域は、もともと台湾でも最も貧しい土地と言われていました。
降雨が少なく、6月から9月の雨季に年間降水量の約9割が集中する上に、
平坦な土地で排水も悪いので、
干ばつと水害が繰り返されるのです。
このような条件では、サトウキビすら育たず、
不毛の土地となっても過言ではありませんでした。
そこにダムと用水路を建設し、
台湾一の穀倉地帯に生まれ変わらせようというのです。
現地を視察した與一は、大規模なダムと水路を建設して、濁水渓と曽文渓という2つの川から取水し、
南北約86キロメートル、東西約71キロメートルの計約15万ヘクタールの土地を灌漑する、という壮大な計画を立てました。
嘉南平原は、香川県とほぼ同じ面積を有し、
台湾の全耕地面積の約14%にあたります。
これが実現すれば、60万人の農民の生活を支えることができるのです。
與一の示した計画は、技術的にも、費用の面でも難工事が予想されましたが、
明石元二郎総督の後押しを受けて、ついに大正9年(1920年)に着工することが決定しました。
彼はまず烏山頭ダムの建設に携わる人たちが、安心していい仕事ができるようにと、
関係者の家族を呼び寄せ、彼らのためのまちづくりを始めました。
工事関係の施設のほかに、
家族全員が住める宿舎や共同浴場、商店、
それにテニスコートや弓道場などの娯楽施設、
学校、医療所まで作り、1,000人を超える人々の生活を支えたのです。
彼らは、時には集会所に集まってゲームに興じており、お祭りを開いたり、
夜に幕を垂らして映画を上映したり、サーカスや手品師を読んでイベントを開いたりして、
ここでの生活を心から楽しみました。
人情味にあふれ、
内地人(日本人)に対しても
外地人(漢民族や台湾の原住民族)
に対しても平等に接する與一は、
工事関係者や地元の農民に慕われました。
しかし、
彼の人望とは裏腹に、工事は困難を極めたのです。
着工から二年ほどが経過した
大正11年(1922年) 12月、
曽文渓からダムに水を引き込むために建設していた
トンネル内で、ガス爆発事故が起こりました。
この事故による死者は50余名を数え、
負傷者も100名を超える大惨事となりました。
與一は、原因究明を急ぐとともに、犠牲となった台湾の工員の家を一軒一軒訪ね歩きました。
遺族を前にした與一は、事故が起こり、多くの犠牲者が出てしまったことに対して、
涙を流しながらお詫びしました。
そして、最後に、こう述べたのです。
「すいません。
それでも、この工事を続けることをお許しください。
このダムは、台湾の人々の暮らしを豊かにするために必要なんです。
やめたら嘉南の人に水を与えることができなくなるんです」
與一の真心に心を打たれた遺族たちは、
工事の続行を了承しました。
工事が再開されると、
殉工者の尊い犠牲が行員たちを鼓舞し、
工事関係者の結束はさらに固くなっていきました。
(つづく)
人生においては、いい時もあれば、悪い時もあります。
いいときには笑顔では擦り寄ってきて、
状況が悪くなるとスーッと離れていってしまう人が多い中、
どんなときも思いやりを持って接してくれる人、
例えば、
雨の日に何もいわず、そっと傘を差し出してくれるような人が、
本当の友達といえるのではないでしょうか。
日本にとって、そんな「雨の日の友達」と呼べる存在が、台湾です。
平成23年(2011年)3月11日に東日本大震災が起こると、
台湾の人々は、日本赤十字社が把握しているだけで、
200億円を超える義援金と
400トン以上の支援物資を日本に送ってくれました。
これは、もちろん世界一であると同時に、
世界から寄せられた支援の、およそ3分の1を占めています。
これだけでも驚きに値するのに、
台湾の人々は、日本赤十字社を通さずにその何倍もの支援を送ってくれていて、
その合計は天文学的数字となり、もはや計算できないとさえ言われているのです。
台湾の人口が、日本の5分の1にも満たないこと(2300万人)、
台湾の平均所得が年間2万ドル(震災で当時のレートで約160万円)であること、
さらに日清戦争が終わった1895年から太平洋戦争が終結した1945年まで、
およそ50年もの間、
日本によって統治されていたことを考え合わせると、
この台湾の厚意が、格別なものであると言うことが実感できるでしょう。
なぜ台湾の人々が、ここまで日本に対して厚意を示してくれるくれたのかというと、
それは、
ある1人の日本人土木技師の生涯が、大きく影響しているのです。
その技師の名は、
「八田與一(はったよいち)」。
台湾では、中学校の歴史教科書にも掲載され、
さらに、彼の命日である5月8日に行われる墓前祭に、政府要人の多くが出席するなど、
台湾の人々から深く敬愛されています。
八田與一さんは、
金沢で生まれ育ち、24歳で東京帝国大学(現東京大学)土木課を卒業しました。
卒業後ほどなく台湾総督府土木部の技師として、台湾に赴任しました。
明治43年(1910年)、日本が台湾の統治をはじめて16年目のことです。
そもそも日本が台湾を統治するようになったのは、
日清戦争後の講和条約で、清国(現在の中国)から日本に割譲されたからです。
しかし、清から日本への台湾割譲は、順調に行ったわけではなく、
武装した住民たちの激しい抵抗にあい、
日本軍が台湾を平定するまでの間に、
台湾では、軍民合わせて約17,000人もの犠牲者が出たとされています。
当時の台湾は、人口約300万人、
教育制度は整っておらず、
治安は不安定、
マラリヤやコレラなどの伝染病も蔓延していて、
極めて近代化の遅れた土地でした。
その台湾を統治するにあたって、
日本は、台湾総督府という官庁を設立し、
そのトップである台湾総督に、絶大な権限を持たせました。
台湾総督府は、
まず学校つくり、台湾の人々に教育を施しました。
台北には帝国大学も作られ、
さらに、
優秀な学生を日本に呼び、
日本の国立大学に進学させました。
親日家として知られる「李登輝元総統」は、そのような経緯で京都帝国大学(現京都大学)に進学しています。
教育と並行し、台湾総督府が力を注いだのは、インフラの整備でした。
台湾では日本統治時代に、鉄道、道路、港湾、電信(通信網)、水道など、社会資本が次々に整えられていきました。
日本の台湾統治に関しては、
いろいろ議論がありますが、
当時の日本が、児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造、明石元二郎など、
一線級の人材を送り込んだことは事実で、
彼らは台湾の発展のために尽力しました。
台湾国内でも、このことに理解を示し、
日本統治時代の教育やインフラ整備のおかげで
台湾の産業が発展したと考えてくれる人々が、意外に多いです。
その日本統治時代のインフラ整備の象徴と言うべきものが、
「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」であり、
その計画策定から設計、工事監督まで、すべての責任をになったのが八田與一でした。
嘉南大圳は、
台湾南西部の水利施設で、
川をせき止めて造った「烏山頭ダム」と嘉南平原一帯に網の目のように細く広がる用水路など、からなっています。
烏山頭ダムは、当時東洋一の規模を誇り、
用水路と排水路は、合わせると長さ約16,000キロメートル(およそ地球半周分に相当)にも達しました。
嘉南地域は、もともと台湾でも最も貧しい土地と言われていました。
降雨が少なく、6月から9月の雨季に年間降水量の約9割が集中する上に、
平坦な土地で排水も悪いので、
干ばつと水害が繰り返されるのです。
このような条件では、サトウキビすら育たず、
不毛の土地となっても過言ではありませんでした。
そこにダムと用水路を建設し、
台湾一の穀倉地帯に生まれ変わらせようというのです。
現地を視察した與一は、大規模なダムと水路を建設して、濁水渓と曽文渓という2つの川から取水し、
南北約86キロメートル、東西約71キロメートルの計約15万ヘクタールの土地を灌漑する、という壮大な計画を立てました。
嘉南平原は、香川県とほぼ同じ面積を有し、
台湾の全耕地面積の約14%にあたります。
これが実現すれば、60万人の農民の生活を支えることができるのです。
與一の示した計画は、技術的にも、費用の面でも難工事が予想されましたが、
明石元二郎総督の後押しを受けて、ついに大正9年(1920年)に着工することが決定しました。
彼はまず烏山頭ダムの建設に携わる人たちが、安心していい仕事ができるようにと、
関係者の家族を呼び寄せ、彼らのためのまちづくりを始めました。
工事関係の施設のほかに、
家族全員が住める宿舎や共同浴場、商店、
それにテニスコートや弓道場などの娯楽施設、
学校、医療所まで作り、1,000人を超える人々の生活を支えたのです。
彼らは、時には集会所に集まってゲームに興じており、お祭りを開いたり、
夜に幕を垂らして映画を上映したり、サーカスや手品師を読んでイベントを開いたりして、
ここでの生活を心から楽しみました。
人情味にあふれ、
内地人(日本人)に対しても
外地人(漢民族や台湾の原住民族)
に対しても平等に接する與一は、
工事関係者や地元の農民に慕われました。
しかし、
彼の人望とは裏腹に、工事は困難を極めたのです。
着工から二年ほどが経過した
大正11年(1922年) 12月、
曽文渓からダムに水を引き込むために建設していた
トンネル内で、ガス爆発事故が起こりました。
この事故による死者は50余名を数え、
負傷者も100名を超える大惨事となりました。
與一は、原因究明を急ぐとともに、犠牲となった台湾の工員の家を一軒一軒訪ね歩きました。
遺族を前にした與一は、事故が起こり、多くの犠牲者が出てしまったことに対して、
涙を流しながらお詫びしました。
そして、最後に、こう述べたのです。
「すいません。
それでも、この工事を続けることをお許しください。
このダムは、台湾の人々の暮らしを豊かにするために必要なんです。
やめたら嘉南の人に水を与えることができなくなるんです」
與一の真心に心を打たれた遺族たちは、
工事の続行を了承しました。
工事が再開されると、
殉工者の尊い犠牲が行員たちを鼓舞し、
工事関係者の結束はさらに固くなっていきました。
(つづく)
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