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まさかのバトンタッチ②

2017-12-27 12:42:22 | お話
②まさかのバトンタッチ


🔸諏訪、伊藤さんが社長引き継がれた経緯を詳しく教えてください。

🔹伊藤、父は起業家で次々と会社を作って、事業を拡大させていました。

そんな中、私は何不自由なく育てられ、両親の教育方針で幼稚園からインターナショナルスクールに通っていました。

もともとの計画ではアメリカの大学に行くはずだったんですけど、

母ががんを患い、もう先が長くないということで、日本の大学に進学したんですね。

で、1988年、私が20歳の時に母が亡くなりました。

卒業後の進路を決める際、父は、

「今しかできない道に進めばいい」

と言ってくれましたので、

音楽が好きな私は迷わずラジオのディスクジョッキー(DJ)になったんです。

ところが、母が亡くなった3年後に今度は父もがんで帰らぬ人になってしまいました。

🔸諏訪、立て続けにご両親を亡くされてたんですね。

🔹伊藤、当時は私の会社の経営に関わる意識は全くなく、

会社の人が引き継いでやっていくものと思っていましたので、DJの仕事を続けました。

その後、30歳を機にもう一つの夢だった宝飾の仕事やりたいと思って、資格を取るためにアメリカへ渡ったんです。

1年後に、資格を取得したちょうどその時、日本から連絡があって、

「日本電鍍(でんと)が倒産する」と。

アメリカで就職先もほぼ決まっていたので、

帰り気持ちは全くなかったんですよ。

ところが、すぐ帰らざるを得なかったのは、住んでいた家が競売にかけられるので、私物を撤去してもらいたいと。

日本に帰ると、当時の社長があまりにも無責任で、話し合いの場にも出てこない。

面会謝絶で入院したりして、どこにいるか分からない状態だったんですね。

父が社長していた時は業績も良かったですし、父は経営方針として絶対に手形を送り出しませんでした。

けれども、後任の人が手渡バンバン振り出してしまったんです。

最初は誰か救ってくれる人がいるかなとすごい甘い考えだったんですけど、

会社に行くにつれて社員との距離が近くなり、社員の後に家族が見えてしまって、これは守らなきゃいけないと。

🔸諏訪、社員さんとそのご家族を守るために。

🔹伊藤、自分にできるかわからないけれども、私はここまで育てられたのも両親と家族がいて、

そして会社があり、社員が働いてくれたおかげだから、何とかしたいと思ったんです。

🔸諏訪、その頃、社員さんは何名ほどいましたか。

🔹伊藤、48名です。3〜4億円の売り上げのところ、十数億円の借金がある上に、

整理回収機構が入っているので銀行さんは手を引いちゃって、

資産も全部売り尽くされて、残ったのは今の工場と私が住んでいた家だけ。

もう二進(にっち)も三進(さっち)も行かなかったんですが、

たった1度の人生であれば勝負をしてみようと思って、

帰ってきた翌年、2000年3月に32歳で社長に就任したんです。

友達のお父さんで経営者が何名かいたので一応相談したら、

悉(ことごと)く、やめろって。

それは当然だと思うんですけど、1人だけ

「麻美ならできるだろう。

2〜3年地獄恋を見て来い」

って言われたんですね。

3年地獄を見たら4年目から天国かなと思ったことも後押しになりました。

ただ、社員は全然歓迎しませんでした。

私も社長に就任することで、この世の終わりだと思ったらしいです(笑)。

全くメッキのことを知らなかったですし、

日本の学校に行っていなかったので、おへそを出した服で会社に行っちゃうような変わった人間でしたから(笑)。

それでも6年後に、借り換えができたんです。

いま振り返ると、会社勤めもしたことがなく、メッキのことも何もわからなかったからこそやれたのだと思います。


(つづく)

(「致知」1月号 諏訪貴子さん伊藤麻美さん対談より)

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