🌸師と弟子🌸③
🔸中西、私の場合、師に恵まれましたが、
学問上の師ということになりますと、
京都大学で研究の道に入ったものですから、
いま考えると、西田幾多郎門下のいわゆる京都学派の人たちの影響は色濃く受けていました。
その系譜に属していたのが、直接の恩師である高坂正堯(たかさか まさたか)という国際政治学者です。
私が指導受けた1970年代、当時はアメリカ万能主義の時代でしたが、
「アメリカだけを見ていたのでは、日本の国はやっていけない」
と強い問題意識を持っておられました。
私が40代半ばの頃、湾岸戦争(1991年)が勃発し、ブッシュ(父)政権の軍事攻勢によって、
戦後の中東が修羅場になる危険を私は強く感じていました。
当時マスコミに出始めていた私は、正面からアメリカの政策の危うさに批判を繰り返したのですが、
日本政府の方向と主張は真逆でしたから、ものすごい向かい風に晒(さら)されました。
国際政治学界の大御所からも
「あいつの主張はけしからん。破門にしろ」
という圧力が掛かって、学界に身を置けないほど孤立してしまったんです。
ただ、高坂先生だけは
「あいつアホなことを言うとるけど、
誰だって、言論の自由はある。
破門にはしない」
と言ってくださいました。
このひと言がなかったら、今日の私はなかったでしょうね。
それから、これは1970年代初頭、私がイギリスのケンブリッジ大学に留学していた時ですが、
ハリー・ヒンズリーという国際政治学者にも深く影響を受けました。
当時はまだ英国の上流階級と世界の秀才が集まる、そんな大学に迷い込んでしまった右も左もわからない私に、
ある時ヒンズリー先生が
「何か困ったことはないか」
と質問されるんですね。
「英語が不自由で大変なんです」
と答えると、
「いやぁ、僕も日本語は、からきし分からんので、
英語が分からんでも、気にすることはないよ」
と(笑)。
このひと言で気持ちが楽になったのと、人物の大きさを感じたのを覚えています。
ヒンズリー先生は戦時中の擦り切れた古いコートを纏い、ボロボロの自転車に乗って街中をヨロヨロと走られていました。
映画に出てくるイギリスの老教師 "チップス先生" を彷彿(ほうふつ)とさせる呑気なお父さんさながらの雰囲気でした。
ところが、このヒンズリー先生は実は大変偉い学者でしてね。
後に貴族に列せられるほどの学識だけではなく、
当時は秘密にされていましたが、
大戦に関わる歴史上の貢献もあった人なんです。
だから、マーガレット・サッチャー、ヘンリー・キッシンジャーなどの錚々(そうそう)たる指導者も彼のもとをしばしば訪ねてきていました。
彼は、第二次世界大戦直後にはインテリジェンスの分野で、連合国の勝利に貢献したとしてアメリカのトルーマン大統領から国家最高勲章を受けていたのですが、
機密解除によって私がそのことを知ったのは、亡くなってから10年ほど経ってからでした。
しかし、そういうことはおくびにも出さなかった。
しかし、そういうことはおくびにも出さなかった。
私が生活に困っていることを知ると
「家の芝を刈りなさい」
「キッチンを掃除しなさい」
と言っては面倒を見てくださいました。
高坂先生が「知」の人であるとすれば、ヒンズリー先生は師弟関係で最も大事な
「情」というものの手本を私に教えてくださったように思います。
🔹童門、ヒンズリー先生の下では何年ほど学ばれたのですか。
🔸中西、行ったり来たりですが、通算すると7年ほどです。
彼は私より30歳年上でしたから息子みたいに可愛がってくれましたが、いつも、
「元気を出せ。トラブルなんか気にするな」
「何があっても明るく楽天的でいなさい」
が口癖でした。
トマトの剥き方まで教えていただいて、
いま振り返ると、あの人は一体何だったんだろうと思います(笑)。
🔹童門、いい出会いでしたね。
🔸中西、師と言えば、もう1人、文芸評論家の江藤淳さんのことも忘れられません。
江頭さんとお会いしたのは、私がもう50歳前後の頃だったと記憶していますが、
冷戦が終わり、これから日本の進路をどうするかという時に、
アメリカからの精神の自立を、終始一貫ひるむことなく唱え続けていた江藤さんの示された指針は大変参考になりました。
江藤さんは文学の世界で地歩を築かれた方ですが、
『閉ざされた言語空間』(文春文庫)という著書で戦後日本におけるアメリカの言論抑圧を厳しく批判された時、
一部の親米派の学者や外交評論家からは辛辣な言葉を浴びせられたんです。
私は
「江藤さんは、すでに評論家として大家の域に達しておられるのに、
なぜこんな損な言論活動あえてされるのだろう」
と、そこにやむにやまれぬ
「大きな志」
のようなものを感じていたのですが、
ある勉強会に招いていただいたということをきっかけに、
江藤さんが1999年に亡くなるまでの7、8年間、親しくお付き合いする機会を得ました。
江藤さんは普段は折り目正しいジェントルマンでしたが、
ここぞという時は、相手が誰であれ、
全く物怖じせずに言うべきことは迷うことなく、
ズバッとおっしゃる、
いわば「意志の人」でした。
人間は「知」「情」「意」の三本の柱が立ってこそ
人格が完成できると言いますが、
その意味でも、私はこの3人の師に恵まれたことを感謝しております。
(つづく)
(「致知」7月号、中西輝政さん童冬二さん対談より)
🔸中西、私の場合、師に恵まれましたが、
学問上の師ということになりますと、
京都大学で研究の道に入ったものですから、
いま考えると、西田幾多郎門下のいわゆる京都学派の人たちの影響は色濃く受けていました。
その系譜に属していたのが、直接の恩師である高坂正堯(たかさか まさたか)という国際政治学者です。
私が指導受けた1970年代、当時はアメリカ万能主義の時代でしたが、
「アメリカだけを見ていたのでは、日本の国はやっていけない」
と強い問題意識を持っておられました。
私が40代半ばの頃、湾岸戦争(1991年)が勃発し、ブッシュ(父)政権の軍事攻勢によって、
戦後の中東が修羅場になる危険を私は強く感じていました。
当時マスコミに出始めていた私は、正面からアメリカの政策の危うさに批判を繰り返したのですが、
日本政府の方向と主張は真逆でしたから、ものすごい向かい風に晒(さら)されました。
国際政治学界の大御所からも
「あいつの主張はけしからん。破門にしろ」
という圧力が掛かって、学界に身を置けないほど孤立してしまったんです。
ただ、高坂先生だけは
「あいつアホなことを言うとるけど、
誰だって、言論の自由はある。
破門にはしない」
と言ってくださいました。
このひと言がなかったら、今日の私はなかったでしょうね。
それから、これは1970年代初頭、私がイギリスのケンブリッジ大学に留学していた時ですが、
ハリー・ヒンズリーという国際政治学者にも深く影響を受けました。
当時はまだ英国の上流階級と世界の秀才が集まる、そんな大学に迷い込んでしまった右も左もわからない私に、
ある時ヒンズリー先生が
「何か困ったことはないか」
と質問されるんですね。
「英語が不自由で大変なんです」
と答えると、
「いやぁ、僕も日本語は、からきし分からんので、
英語が分からんでも、気にすることはないよ」
と(笑)。
このひと言で気持ちが楽になったのと、人物の大きさを感じたのを覚えています。
ヒンズリー先生は戦時中の擦り切れた古いコートを纏い、ボロボロの自転車に乗って街中をヨロヨロと走られていました。
映画に出てくるイギリスの老教師 "チップス先生" を彷彿(ほうふつ)とさせる呑気なお父さんさながらの雰囲気でした。
ところが、このヒンズリー先生は実は大変偉い学者でしてね。
後に貴族に列せられるほどの学識だけではなく、
当時は秘密にされていましたが、
大戦に関わる歴史上の貢献もあった人なんです。
だから、マーガレット・サッチャー、ヘンリー・キッシンジャーなどの錚々(そうそう)たる指導者も彼のもとをしばしば訪ねてきていました。
彼は、第二次世界大戦直後にはインテリジェンスの分野で、連合国の勝利に貢献したとしてアメリカのトルーマン大統領から国家最高勲章を受けていたのですが、
機密解除によって私がそのことを知ったのは、亡くなってから10年ほど経ってからでした。
しかし、そういうことはおくびにも出さなかった。
しかし、そういうことはおくびにも出さなかった。
私が生活に困っていることを知ると
「家の芝を刈りなさい」
「キッチンを掃除しなさい」
と言っては面倒を見てくださいました。
高坂先生が「知」の人であるとすれば、ヒンズリー先生は師弟関係で最も大事な
「情」というものの手本を私に教えてくださったように思います。
🔹童門、ヒンズリー先生の下では何年ほど学ばれたのですか。
🔸中西、行ったり来たりですが、通算すると7年ほどです。
彼は私より30歳年上でしたから息子みたいに可愛がってくれましたが、いつも、
「元気を出せ。トラブルなんか気にするな」
「何があっても明るく楽天的でいなさい」
が口癖でした。
トマトの剥き方まで教えていただいて、
いま振り返ると、あの人は一体何だったんだろうと思います(笑)。
🔹童門、いい出会いでしたね。
🔸中西、師と言えば、もう1人、文芸評論家の江藤淳さんのことも忘れられません。
江頭さんとお会いしたのは、私がもう50歳前後の頃だったと記憶していますが、
冷戦が終わり、これから日本の進路をどうするかという時に、
アメリカからの精神の自立を、終始一貫ひるむことなく唱え続けていた江藤さんの示された指針は大変参考になりました。
江藤さんは文学の世界で地歩を築かれた方ですが、
『閉ざされた言語空間』(文春文庫)という著書で戦後日本におけるアメリカの言論抑圧を厳しく批判された時、
一部の親米派の学者や外交評論家からは辛辣な言葉を浴びせられたんです。
私は
「江藤さんは、すでに評論家として大家の域に達しておられるのに、
なぜこんな損な言論活動あえてされるのだろう」
と、そこにやむにやまれぬ
「大きな志」
のようなものを感じていたのですが、
ある勉強会に招いていただいたということをきっかけに、
江藤さんが1999年に亡くなるまでの7、8年間、親しくお付き合いする機会を得ました。
江藤さんは普段は折り目正しいジェントルマンでしたが、
ここぞという時は、相手が誰であれ、
全く物怖じせずに言うべきことは迷うことなく、
ズバッとおっしゃる、
いわば「意志の人」でした。
人間は「知」「情」「意」の三本の柱が立ってこそ
人格が完成できると言いますが、
その意味でも、私はこの3人の師に恵まれたことを感謝しております。
(つづく)
(「致知」7月号、中西輝政さん童冬二さん対談より)
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