道元④
🔸境野、ここで少し道元禅師の人生を振り返ってみたいと思います。
禅師は14歳の頃、比叡山で剃髪(ていはつ)し得度、出家なさるわけですが、
天台教学を中心とし諸宗にも伝わる
「本来本法性(ほんらいほんぼっしょう)・天然自性身(てんねんじしょうしん)」
という文言に疑問を抱かれるんですね。
人間は生まれながらに仏性を持っている。
なのになぜ修行しなくてはいけないのか、と。
ゲスな喩(たと)えで恐縮ですが、言って見れば人間は皆一億円を持っているのに、
なぜ働かなくてはいけないんだ、というようなことですよね。
🔹大谷、そういうことです。「本来、仏である」ということと「修行して仏になる」とでは根本的に矛盾します。
宗教的な大疑団といえます。
禅師は14歳にしてその天台仏教の根幹にぶつかって、悩み続けられるんです。
そこでご自身の親戚筋にあたる圓成寺(おんじょうじ)(三井寺)の公胤(こういん)僧正にそのことを尋ねられる。
すると公胤僧正は
「わが宗教に訓訣(くんけつ)ありといえども、未だその義を尽くさず」
つまり、その問いには誰も答えることはできないと答えるわけです。
納得できないでいると、
公胤僧正は、宋に仏の正法を伝える禅宗が存在すると入宋を示唆(しさ)し、
宋帰りの建仁寺(けんにんじ)の栄西(えいさい)禅師を紹介します。
道元禅師は早速会いに行って、その疑問をぶつけられる。
すると栄西禅師は
「三世の諸仏は、悟りなどにとらわれていないのだ。
そんな疑問は通り過ぎている。
狐や狸に等しい凡夫がそんな理論的な悟りを論じているにすぎない」
と唐代の禅僧・南泉普願(なんせんふがん)の語をもって一蹴してしまうんです。
栄西禅師は、仏道は高邁(こうまい)な仏教理論や人間を単なる分別智(ぶんべつち)の世界のみでは把握しきれないことを南泉の語を借りて教示したのです。
これにはショックを受けられたと思います。
だって天台の緻密な学問仏教をやってきたプライドが崩壊してしまうわけでしょう。
ただ、道元禅師はその時に禅という、頭の学問ではなく体認する世界があることを強烈に知るんです。
栄西禅師から明全(みょうぜん)という和尚を紹介され、
24歳の時に和尚と共に海を渡り、宋の地を踏まれる。
🔸境野、それだけでも道元禅師の志がいかに強固なものだったかが分かりますね。
🔹大谷、ところが、宋に渡ったのはいいが、
見る人、聞く人、皆日本と同じ。
努力もせずに悟りを求めようとする修行者ばかりだった。
がっかりして日本に帰ろうと考えていた時、
老しんという僧から
「日本の若い坊さんよ。天童山には如浄という古来希なる禅師が住職された。
とにかく会ってみなさい」
と言われて、宋の元号で宝慶元年(1225年) 5月1日に如浄禅師と相見(しょうけん)される。
少し話が横道に逸れますが、よく道元禅師が宋の国で尋師訪道(じんしほうどう)されたということが言われます。
いろいろな師を訪ね歩くことですが、
道元禅師は栄西禅師の拠点を中心として回られているんです。
このことはほとんど指摘されていませんが、
栄西禅師が日本に移入された臨済禅をその師 明全和尚を通して道元禅師もまた、しっかり学ばれていたことが分かります。
🔸境野、いや、私もそのことは存じ上げませんでした。
🔹大谷、道元禅師が初めて如浄禅師に会われた5月1日は、天童山は新緑がとても美しい時でした。
如浄禅師は道元禅師を見るなりこうおっしゃるんです。
「仏仏祖祖(ぶつぶつそそ)の面授(めんじゅ)の法門現成(げんじょう)せり」と。
「面授」とは、フェイス・トゥ・フェイス、師と弟子が相対して師から弟子へ直接仏祖正伝の正法が伝えられることを意味します。
言って見れば仏法を己の体の中に浸透させることが叶ったな、
と突然そう言われて道元禅師はいたく感激されたに違いありません。
🔸境野、如浄禅師はひと目見て、道元禅師がどれだけの人物かを見抜いたでしょうね。
🔹大谷、そう思います。それには師であった明全和尚の確たる慫慂(しょうよう)があったと思いますが、
如浄禅師は300年に1人出るかでないかというほど稀代(きだい)なる禅師であると、
道元禅師は『正法眼蔵』で述べられています。
また道元禅師ご自身も不世出の若き求道者でした。
65歳の如浄禅師と26歳の道元禅師。
このお二人が天童山で出会ったことの意味はとても大きい。
道元禅師にとって、まさに人生最大の転換期でもあったわけです。
🔹大谷、それ以来、道元禅師は如浄禅師に就いて修行をされるのですが、
その修行ぶりがまた凄まじい。
道元禅師の弟子の懐奘(えじょう)禅師がまとめた『正法眼蔵随聞記(ずいもんき)』には次のように書かれています。
我れ大宋天童先師の会下(えげ)にして、この道理を聞いて後、
昼夜定坐して極熱(ごくねつ)極寒には発熱しつべしとて諸僧暫(しばら)く放下(ほうげ)しき。
我れその時、自ら思はく、たとい発病して死ぬべくとも、なほただ是れを修すべし。
(私は宋で天童如浄禅師の門下にあって、この道理を聞いてからは昼夜座禅をした。
極暑や極寒の時は病気になりそうだったと言って、
僧の多くはしばらく座禅をやめてしまった。
しかし、私はその時考えた。たとえ発病して死のうとも修行を続けよう)
生命を懸けて決死の覚悟でやり抜くという決意が伝わってきます。
如浄禅師は夜中の2時半まで座禅をし、朝6時には起きて座禅をしていましたから、
寝ている姿を誰も見たことがなかったと言われています。
道元禅師もそんな如浄禅師に全身全霊で追随される。
🔸境野、道元禅師の言葉に
「正師(しょうし)を得るざれば学ばざるに如かず」
とありますが、正師に出会って感応道交(かんのうどうこう)してこそ本当の修行ができ、
自分の中にある仏の姿も見つけることができる。
一方で道元禅師は邪師のもとではいくら修行してもダメだと言う言い方もしています。
だから草の根を分けてでも正師を探しなさいと。
🔹大谷、それだけ正師に巡り合うのは難しいということですね。
道元禅師と如浄禅師が会われたのは宝慶元年5月1日。
その月の27日には9年間師事し修行を共にした明全和尚が亡くなります。
それからというもの、西方の仏法を極め帰らなくてはいけ正伝の仏法を究め帰らなくてはいけないという大きな使命が道元禅師の肩に掛かってくるんです。
道元禅師はその状態を手紙に書いて如浄禅師に伝えます。
すると如浄禅師もやはり名僧ですね。
「君は衣を着けようが着けまいが、いつでも質問に行きなさい」
と返事を寄こす。
そこで道元禅師はほとんど毎日のように如浄禅師のもにはせ参じては教えを乞うのですが、
『寶慶記』に記されているのは、まさにその時のやりとりなんです。
それからの約2カ月間、仏の家に自分を投げ出し懸命に修行を続けた道元禅師はついに身心脱落の境地に至られる。
🔸境野、ある修行者が座禅中に居眠りをしていて、
それを見た如浄禅師が修行者を木靴で殴りつけた。
その瞬間に道元禅師は悟られた、と言われていますね。
🔹大谷、はい、道元禅師が「身心脱落しました」と伝えると、
如浄禅師はさらに、「脱落、脱落」と、
身心脱落したことさえ忘れてしまえと、そう言うんです。
それが悟りの境地であり、無所得(むしょとく)、無所悟(むしょご)の不染汚(ふぜんな)の修証(しゅしょう)の只管打坐の究極です。
それが師から弟子へと仏法が正しく伝授されていく。
🔸境野、師資相承(ししそうじょう)がこの時成ったということでしょうね。
🔹大谷、そして印可を得、帰国する道元禅師に如浄禅師は
「君は国に帰って教化に努めなさい。
ただし、町に住んで国王大臣に近づいてはいけない。
深山幽谷(しんざんゆうこく)に居して修行を続け、弟子たちを育てなさい」
と伝えるんです。
当時、日本の仏教者は皆、権力者に近寄ろうとしました。
ところが道元禅師は父親が内大臣の久我家、母が摂政関白の藤原家という家柄にありながら、
権力を一切利用しようとはされなかった。
雪深い越前の永平寺を建立して只管打坐の厳しい修行に励み、
如浄禅師の戒めを守り続けられるんです。
それには幼い頃から権力争いを目のあたりにし、
母の死に極度の無常を感じ、
多くの親族を失うという経験も大きかったと思います。
🔸境野、権力者たちのドロドロした一面を見抜いていらっしゃったのでしょうね。
(つづく)
(「致知」2月号 境野勝悟さん大谷哲夫さん対談より)
🔸境野、ここで少し道元禅師の人生を振り返ってみたいと思います。
禅師は14歳の頃、比叡山で剃髪(ていはつ)し得度、出家なさるわけですが、
天台教学を中心とし諸宗にも伝わる
「本来本法性(ほんらいほんぼっしょう)・天然自性身(てんねんじしょうしん)」
という文言に疑問を抱かれるんですね。
人間は生まれながらに仏性を持っている。
なのになぜ修行しなくてはいけないのか、と。
ゲスな喩(たと)えで恐縮ですが、言って見れば人間は皆一億円を持っているのに、
なぜ働かなくてはいけないんだ、というようなことですよね。
🔹大谷、そういうことです。「本来、仏である」ということと「修行して仏になる」とでは根本的に矛盾します。
宗教的な大疑団といえます。
禅師は14歳にしてその天台仏教の根幹にぶつかって、悩み続けられるんです。
そこでご自身の親戚筋にあたる圓成寺(おんじょうじ)(三井寺)の公胤(こういん)僧正にそのことを尋ねられる。
すると公胤僧正は
「わが宗教に訓訣(くんけつ)ありといえども、未だその義を尽くさず」
つまり、その問いには誰も答えることはできないと答えるわけです。
納得できないでいると、
公胤僧正は、宋に仏の正法を伝える禅宗が存在すると入宋を示唆(しさ)し、
宋帰りの建仁寺(けんにんじ)の栄西(えいさい)禅師を紹介します。
道元禅師は早速会いに行って、その疑問をぶつけられる。
すると栄西禅師は
「三世の諸仏は、悟りなどにとらわれていないのだ。
そんな疑問は通り過ぎている。
狐や狸に等しい凡夫がそんな理論的な悟りを論じているにすぎない」
と唐代の禅僧・南泉普願(なんせんふがん)の語をもって一蹴してしまうんです。
栄西禅師は、仏道は高邁(こうまい)な仏教理論や人間を単なる分別智(ぶんべつち)の世界のみでは把握しきれないことを南泉の語を借りて教示したのです。
これにはショックを受けられたと思います。
だって天台の緻密な学問仏教をやってきたプライドが崩壊してしまうわけでしょう。
ただ、道元禅師はその時に禅という、頭の学問ではなく体認する世界があることを強烈に知るんです。
栄西禅師から明全(みょうぜん)という和尚を紹介され、
24歳の時に和尚と共に海を渡り、宋の地を踏まれる。
🔸境野、それだけでも道元禅師の志がいかに強固なものだったかが分かりますね。
🔹大谷、ところが、宋に渡ったのはいいが、
見る人、聞く人、皆日本と同じ。
努力もせずに悟りを求めようとする修行者ばかりだった。
がっかりして日本に帰ろうと考えていた時、
老しんという僧から
「日本の若い坊さんよ。天童山には如浄という古来希なる禅師が住職された。
とにかく会ってみなさい」
と言われて、宋の元号で宝慶元年(1225年) 5月1日に如浄禅師と相見(しょうけん)される。
少し話が横道に逸れますが、よく道元禅師が宋の国で尋師訪道(じんしほうどう)されたということが言われます。
いろいろな師を訪ね歩くことですが、
道元禅師は栄西禅師の拠点を中心として回られているんです。
このことはほとんど指摘されていませんが、
栄西禅師が日本に移入された臨済禅をその師 明全和尚を通して道元禅師もまた、しっかり学ばれていたことが分かります。
🔸境野、いや、私もそのことは存じ上げませんでした。
🔹大谷、道元禅師が初めて如浄禅師に会われた5月1日は、天童山は新緑がとても美しい時でした。
如浄禅師は道元禅師を見るなりこうおっしゃるんです。
「仏仏祖祖(ぶつぶつそそ)の面授(めんじゅ)の法門現成(げんじょう)せり」と。
「面授」とは、フェイス・トゥ・フェイス、師と弟子が相対して師から弟子へ直接仏祖正伝の正法が伝えられることを意味します。
言って見れば仏法を己の体の中に浸透させることが叶ったな、
と突然そう言われて道元禅師はいたく感激されたに違いありません。
🔸境野、如浄禅師はひと目見て、道元禅師がどれだけの人物かを見抜いたでしょうね。
🔹大谷、そう思います。それには師であった明全和尚の確たる慫慂(しょうよう)があったと思いますが、
如浄禅師は300年に1人出るかでないかというほど稀代(きだい)なる禅師であると、
道元禅師は『正法眼蔵』で述べられています。
また道元禅師ご自身も不世出の若き求道者でした。
65歳の如浄禅師と26歳の道元禅師。
このお二人が天童山で出会ったことの意味はとても大きい。
道元禅師にとって、まさに人生最大の転換期でもあったわけです。
🔹大谷、それ以来、道元禅師は如浄禅師に就いて修行をされるのですが、
その修行ぶりがまた凄まじい。
道元禅師の弟子の懐奘(えじょう)禅師がまとめた『正法眼蔵随聞記(ずいもんき)』には次のように書かれています。
我れ大宋天童先師の会下(えげ)にして、この道理を聞いて後、
昼夜定坐して極熱(ごくねつ)極寒には発熱しつべしとて諸僧暫(しばら)く放下(ほうげ)しき。
我れその時、自ら思はく、たとい発病して死ぬべくとも、なほただ是れを修すべし。
(私は宋で天童如浄禅師の門下にあって、この道理を聞いてからは昼夜座禅をした。
極暑や極寒の時は病気になりそうだったと言って、
僧の多くはしばらく座禅をやめてしまった。
しかし、私はその時考えた。たとえ発病して死のうとも修行を続けよう)
生命を懸けて決死の覚悟でやり抜くという決意が伝わってきます。
如浄禅師は夜中の2時半まで座禅をし、朝6時には起きて座禅をしていましたから、
寝ている姿を誰も見たことがなかったと言われています。
道元禅師もそんな如浄禅師に全身全霊で追随される。
🔸境野、道元禅師の言葉に
「正師(しょうし)を得るざれば学ばざるに如かず」
とありますが、正師に出会って感応道交(かんのうどうこう)してこそ本当の修行ができ、
自分の中にある仏の姿も見つけることができる。
一方で道元禅師は邪師のもとではいくら修行してもダメだと言う言い方もしています。
だから草の根を分けてでも正師を探しなさいと。
🔹大谷、それだけ正師に巡り合うのは難しいということですね。
道元禅師と如浄禅師が会われたのは宝慶元年5月1日。
その月の27日には9年間師事し修行を共にした明全和尚が亡くなります。
それからというもの、西方の仏法を極め帰らなくてはいけ正伝の仏法を究め帰らなくてはいけないという大きな使命が道元禅師の肩に掛かってくるんです。
道元禅師はその状態を手紙に書いて如浄禅師に伝えます。
すると如浄禅師もやはり名僧ですね。
「君は衣を着けようが着けまいが、いつでも質問に行きなさい」
と返事を寄こす。
そこで道元禅師はほとんど毎日のように如浄禅師のもにはせ参じては教えを乞うのですが、
『寶慶記』に記されているのは、まさにその時のやりとりなんです。
それからの約2カ月間、仏の家に自分を投げ出し懸命に修行を続けた道元禅師はついに身心脱落の境地に至られる。
🔸境野、ある修行者が座禅中に居眠りをしていて、
それを見た如浄禅師が修行者を木靴で殴りつけた。
その瞬間に道元禅師は悟られた、と言われていますね。
🔹大谷、はい、道元禅師が「身心脱落しました」と伝えると、
如浄禅師はさらに、「脱落、脱落」と、
身心脱落したことさえ忘れてしまえと、そう言うんです。
それが悟りの境地であり、無所得(むしょとく)、無所悟(むしょご)の不染汚(ふぜんな)の修証(しゅしょう)の只管打坐の究極です。
それが師から弟子へと仏法が正しく伝授されていく。
🔸境野、師資相承(ししそうじょう)がこの時成ったということでしょうね。
🔹大谷、そして印可を得、帰国する道元禅師に如浄禅師は
「君は国に帰って教化に努めなさい。
ただし、町に住んで国王大臣に近づいてはいけない。
深山幽谷(しんざんゆうこく)に居して修行を続け、弟子たちを育てなさい」
と伝えるんです。
当時、日本の仏教者は皆、権力者に近寄ろうとしました。
ところが道元禅師は父親が内大臣の久我家、母が摂政関白の藤原家という家柄にありながら、
権力を一切利用しようとはされなかった。
雪深い越前の永平寺を建立して只管打坐の厳しい修行に励み、
如浄禅師の戒めを守り続けられるんです。
それには幼い頃から権力争いを目のあたりにし、
母の死に極度の無常を感じ、
多くの親族を失うという経験も大きかったと思います。
🔸境野、権力者たちのドロドロした一面を見抜いていらっしゃったのでしょうね。
(つづく)
(「致知」2月号 境野勝悟さん大谷哲夫さん対談より)
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