道元⑤
🔸境野、道元禅師が宋で何を悟られたかということについては、28歳で日本に帰ってこられた時、
「何を悟ってきたのか」
と質問を受けて、
「悟ったものは何もない。しばらく柔軟心(じゅうなんしん)を得たり」
と答えられた話が有名ですね。
🔹大谷、『永平公録』には、宋で得たものは
「眼横鼻直(がんのうびちょう)」、
眼は横に付いている、鼻は縦についてる。
それが分かっただけだ。
それ以外は何も持たずに帰ってきた(空手遷郷(くうしゅげんきょう))と書かれています。
ありのままの姿の中にこそ、仏法はあるということでしょう。
🔸境野、日本に帰られた道元禅師は、京都の深草に興聖寺(こうしょうじ)を開いて本格的な坐禅修行を始め、
弟子が増え名声も高まってくると、そこから逃れるように越前の山中に大仏寺を建立されます。
これが後の永平寺ですが、私はつくづく感心するんですね。
高貴な身分をお持ちなのに、よくぞ雪の越前に行って只管打坐やられたものだと。
🔹大谷、全く同感です。だから最初から食うや食わずで、ものすごく苦労されたと思います。
が、他宗の寺のように焼き討ちに遭うこともなく、
道元禅師はいわゆる鎌倉新仏教の祖師方のように流罪にも遭っていません。
当時の権力者たちも道元禅師には迂闊に手を出せなかったのではないかと思います。
先ほど道元禅師は権力に近づかれなかったと申し上げましたが、
宝治元年(1247年)、執権・北条時頼(ときより)の求めに応じて鎌倉に出向いて人々の教化に当たられたことがあります。
弟子であり、時頼の1番の家臣でもあった波多野義重端の頼みということもあったのでしょう。
半年後、時頼から
「もう少し鎌倉に残り新寺を建立してはどうか」
と頼まれますが、それは断って半年で永平寺に帰られます。
🔸境野、道元禅師は永平寺でいつもどのようなことをなさったとお考えですか。
🔹大谷、よく誤解されることなのですが、道元禅師は『正法眼蔵』を一生かけて描かれたわけではありません。
越前で大仏寺を建立するまでの最初の2年間でほぼ書き終えられているんです。
最終の巻「八大人覚(はちだいにんがく)」だけは最晩年、54歳で亡くなる前に書かれている。
それはおそらく口宣(くせん)であったと思われますが、
それでは永平寺での晩年は何をやっておられたかと言えば、
五参上堂(じょうどう)(5日ごとの上堂)、四節上堂、
降誕会(こうたんえ)、成道会(じょうどうえ)、
涅槃会(ねはんえ)、達磨忌(だるまき)、
先師忌(せんじき)、亡僧忌(ぼうそうき)、
拝請(はいしょう)など禅宗特有の「上堂」という説法をしているんです。
ちなみに道元禅師の後半生、11年間にわたる上堂(説法)回数は実に501回に及びます。
『永平広録』 (十巻)最初の上堂には次の文章があります。
「上堂に、云く。
依草(えそう)の家風、附木(ふぼく)の心、道場の最好(さいこう)は叢林(そうりん)なるべし。
床一撃(しょういちげき)、鼓三下(くさんげ)、
伝説す、如来微妙(みみょう)の音(おん)。
正当恁ちの時、興聖門下、
且(しばら)く道(い)え、如何(いかん)。
良久して云く、湘の南、潭の北、黄金国、限り無き平人(へいじん)、陸沈(りくちん)を被(こうむ)る。
(道元は上堂し、次のように言った。
いたずらに文字にとらわれず、草々にも真実の仏を見る正伝の仏法の家風を、
また木々にも真実の仏の心を知る、
そのようなことを体認しうる修行の場として最好なのは、我がこの道場である。
この道場では、禅牀(ぜんしょう)を打つ音、太鼓の音の中にさえも釈尊の微妙な真実のみ教えが伝え説かれている。
さあそれでは、まさにこの時、そこのところを興聖の門下である諸君はどのように表現しうるか。
道元は、しばらく無言の間をおいてから次のように言った。
洛南の深草の地にある我が道場は、
譬えてみれば中国湖南省の嶺南(れいなん)地方、
湘江(しょうこう)の南、潭水(たんすい)の北の黄金の国にも匹敵する絶好の場である。
ゆえにこの叢林に一度入れば、人は誰でも真実の仏法に浸り切るのだ)
道元禅師の「上堂」の形式は、まず仏法のありようを述べ
「仏道とはこういうものであると知っているか」
と問い掛け、弟子たちにそれを喚起させ、
その答えを模索させ良久して、
仏道とはこういうものである、と最後に偈頌(げじゅ)を持って結ぶという、
その師・天童如浄禅師の上堂のやり方の踏襲(とうしゅう)です。
私はこの文章を声に出して読んでいと、
道元禅師が目の前に現れるような感覚を抱きます。
『正法眼蔵』よりも、むしろ上堂の説法を読む方が、禅師を身近に感じることができるんです。
🔸境野、『永平広録』を読むと、確かにそれがよく分かりますね。
🔹大谷、こういう話もあります。
6月の梅雨時期に雨がたくさん降って作物に大きな被害が出そうになった時、
村人が困って道元禅師のところにやってきて
「お祈りをしてください」
とお願いをする。
その時に道元禅師は
「いま雨が降っているけれども」と述べた後で、
いきなり「ハクション」と大きなクシャミをするんです。
皆がシーン浸透したところで
「私がいまクシャミをしたように天がクシャミをしているんだ。
だからいずれやむ。
安心してよろしい」と。
これは如浄禅師の上堂のやり方そのものなのですが、
私はそこに道元禅師の身体動作が見えるし、
言葉が聞こえるし、息吹を感じるんです。
道元禅師は『正法眼蔵』で漢語と和文を交えた日本語によって、
「悟り」というそれまで日本には曖昧(あいまい)でしかなかった大悟の世界を明確に示された。
と同時に、上堂という現場でそれを大衆に示された。
だから『眼蔵』と『広録』の両方を見ていかないと、
道元禅師の正確な仏法は掴み得ません。
🔸境野、いま大谷先生がおっしゃったように上堂の言葉を自分が発音することで道元禅師の姿が見えてくる。
そこはとても大切なところでしょうね。
以心伝心、感応道交というのか、同じ言葉を声で発することで魂が通じ合う。
言葉の力は不思議でもあるし、素晴らしいと感じます。
(つづく)
(「致知」2月号 境野勝悟さん大谷哲夫さん対談より)
🔸境野、道元禅師が宋で何を悟られたかということについては、28歳で日本に帰ってこられた時、
「何を悟ってきたのか」
と質問を受けて、
「悟ったものは何もない。しばらく柔軟心(じゅうなんしん)を得たり」
と答えられた話が有名ですね。
🔹大谷、『永平公録』には、宋で得たものは
「眼横鼻直(がんのうびちょう)」、
眼は横に付いている、鼻は縦についてる。
それが分かっただけだ。
それ以外は何も持たずに帰ってきた(空手遷郷(くうしゅげんきょう))と書かれています。
ありのままの姿の中にこそ、仏法はあるということでしょう。
🔸境野、日本に帰られた道元禅師は、京都の深草に興聖寺(こうしょうじ)を開いて本格的な坐禅修行を始め、
弟子が増え名声も高まってくると、そこから逃れるように越前の山中に大仏寺を建立されます。
これが後の永平寺ですが、私はつくづく感心するんですね。
高貴な身分をお持ちなのに、よくぞ雪の越前に行って只管打坐やられたものだと。
🔹大谷、全く同感です。だから最初から食うや食わずで、ものすごく苦労されたと思います。
が、他宗の寺のように焼き討ちに遭うこともなく、
道元禅師はいわゆる鎌倉新仏教の祖師方のように流罪にも遭っていません。
当時の権力者たちも道元禅師には迂闊に手を出せなかったのではないかと思います。
先ほど道元禅師は権力に近づかれなかったと申し上げましたが、
宝治元年(1247年)、執権・北条時頼(ときより)の求めに応じて鎌倉に出向いて人々の教化に当たられたことがあります。
弟子であり、時頼の1番の家臣でもあった波多野義重端の頼みということもあったのでしょう。
半年後、時頼から
「もう少し鎌倉に残り新寺を建立してはどうか」
と頼まれますが、それは断って半年で永平寺に帰られます。
🔸境野、道元禅師は永平寺でいつもどのようなことをなさったとお考えですか。
🔹大谷、よく誤解されることなのですが、道元禅師は『正法眼蔵』を一生かけて描かれたわけではありません。
越前で大仏寺を建立するまでの最初の2年間でほぼ書き終えられているんです。
最終の巻「八大人覚(はちだいにんがく)」だけは最晩年、54歳で亡くなる前に書かれている。
それはおそらく口宣(くせん)であったと思われますが、
それでは永平寺での晩年は何をやっておられたかと言えば、
五参上堂(じょうどう)(5日ごとの上堂)、四節上堂、
降誕会(こうたんえ)、成道会(じょうどうえ)、
涅槃会(ねはんえ)、達磨忌(だるまき)、
先師忌(せんじき)、亡僧忌(ぼうそうき)、
拝請(はいしょう)など禅宗特有の「上堂」という説法をしているんです。
ちなみに道元禅師の後半生、11年間にわたる上堂(説法)回数は実に501回に及びます。
『永平広録』 (十巻)最初の上堂には次の文章があります。
「上堂に、云く。
依草(えそう)の家風、附木(ふぼく)の心、道場の最好(さいこう)は叢林(そうりん)なるべし。
床一撃(しょういちげき)、鼓三下(くさんげ)、
伝説す、如来微妙(みみょう)の音(おん)。
正当恁ちの時、興聖門下、
且(しばら)く道(い)え、如何(いかん)。
良久して云く、湘の南、潭の北、黄金国、限り無き平人(へいじん)、陸沈(りくちん)を被(こうむ)る。
(道元は上堂し、次のように言った。
いたずらに文字にとらわれず、草々にも真実の仏を見る正伝の仏法の家風を、
また木々にも真実の仏の心を知る、
そのようなことを体認しうる修行の場として最好なのは、我がこの道場である。
この道場では、禅牀(ぜんしょう)を打つ音、太鼓の音の中にさえも釈尊の微妙な真実のみ教えが伝え説かれている。
さあそれでは、まさにこの時、そこのところを興聖の門下である諸君はどのように表現しうるか。
道元は、しばらく無言の間をおいてから次のように言った。
洛南の深草の地にある我が道場は、
譬えてみれば中国湖南省の嶺南(れいなん)地方、
湘江(しょうこう)の南、潭水(たんすい)の北の黄金の国にも匹敵する絶好の場である。
ゆえにこの叢林に一度入れば、人は誰でも真実の仏法に浸り切るのだ)
道元禅師の「上堂」の形式は、まず仏法のありようを述べ
「仏道とはこういうものであると知っているか」
と問い掛け、弟子たちにそれを喚起させ、
その答えを模索させ良久して、
仏道とはこういうものである、と最後に偈頌(げじゅ)を持って結ぶという、
その師・天童如浄禅師の上堂のやり方の踏襲(とうしゅう)です。
私はこの文章を声に出して読んでいと、
道元禅師が目の前に現れるような感覚を抱きます。
『正法眼蔵』よりも、むしろ上堂の説法を読む方が、禅師を身近に感じることができるんです。
🔸境野、『永平広録』を読むと、確かにそれがよく分かりますね。
🔹大谷、こういう話もあります。
6月の梅雨時期に雨がたくさん降って作物に大きな被害が出そうになった時、
村人が困って道元禅師のところにやってきて
「お祈りをしてください」
とお願いをする。
その時に道元禅師は
「いま雨が降っているけれども」と述べた後で、
いきなり「ハクション」と大きなクシャミをするんです。
皆がシーン浸透したところで
「私がいまクシャミをしたように天がクシャミをしているんだ。
だからいずれやむ。
安心してよろしい」と。
これは如浄禅師の上堂のやり方そのものなのですが、
私はそこに道元禅師の身体動作が見えるし、
言葉が聞こえるし、息吹を感じるんです。
道元禅師は『正法眼蔵』で漢語と和文を交えた日本語によって、
「悟り」というそれまで日本には曖昧(あいまい)でしかなかった大悟の世界を明確に示された。
と同時に、上堂という現場でそれを大衆に示された。
だから『眼蔵』と『広録』の両方を見ていかないと、
道元禅師の正確な仏法は掴み得ません。
🔸境野、いま大谷先生がおっしゃったように上堂の言葉を自分が発音することで道元禅師の姿が見えてくる。
そこはとても大切なところでしょうね。
以心伝心、感応道交というのか、同じ言葉を声で発することで魂が通じ合う。
言葉の力は不思議でもあるし、素晴らしいと感じます。
(つづく)
(「致知」2月号 境野勝悟さん大谷哲夫さん対談より)
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