7🌟若手に習う🌟
いまの将棋全般の傾向について、「変わった」と言われることがある。
対局のあり方の、様子が違う。
私がデビューした頃は、午前中、10時から12時は、雑談の時間。
盤に向かい合う棋士同士、みんな雑談をしていた。
内容はたいしたことではない。
たいていは近況報告。
みんな会社勤めと違って毎日会うわけではないので、たまに手を合わせたときには近況を語り合う。
序盤は定跡通りに進む。
本当の勝負は午後になってからだ。
全体に和気藹々とした雰囲気で指していた。
ところが、いまは顔を合わせても誰も口を開かない。
最初から、勝負の局面がものすごくシビアなのだ。
最初の10手とか15手、20手というところが、すでにもう大きな山場になっている。
一手の選択で一局の骨格が違ってしまうことも珍しくはない。
手の感覚にしても、従来に比べて変わってきていると思うことがある。
これまではいわれていた「当たり前のこと」「常識」あるいは「いい形」から、
少し離れたところに可能性を求めている、といえばいいだろうか。
それはまるで、モダンアートのようである。
前衛的なモダンアートを見て、すぐさま「美しい」という人はなかなかいないだろう。
ただし、それもひとつの表現のあり方、仕方であることは承知されている。
将棋界に、このモダンアートが台頭してきたような感じだ。
すでにがっちりと決められた定型のの中でやるのではなく、
ちょっと違うことも試してみようかといった潮流が、いま出てきている。
ここ5年間くらいの潮流だ。
それがいいかどうか、将棋の世界にフィットするかどうかはまた別の話ではあるが、
そういった流れはたしかにできつつある。
この流行の最先端をつくっているのは、10代後半から20代前半。
プロになったかならないかの人たちのアイデアから生まれていることが多い。
彼らは、私の20歳前後の頃とは全然違う。
従来では考えられない発想とかアイデアみたいなものを、驚くほど豊富に生み出すことができる。
ただし、その発想やアイデアが全部実っているかというと、それはほとんどない。
アイデアは出てくる。
次から次へと、繰り広げられる。
しかし、それをちゃんとした形として、戦法として使えるようになるとは、やはり別の次元の話だ。
湧き出たアイデアをしっかりまとめるためには、もうひとつ別のプロセスがあると思っている。
それでも彼らのアイデアから学ぶところは、たしかに多い。
こういう考え方もあるのか、こういったアイデアもあるのかと、私自身、非常に参考にしている。
どうして若い人のほうが、斬新な発想ができるのか、…。
それは、明確な割り切り、いいとこ取りができるからではないかと思っている。
思い入れが生じてしまうと、いいとこ取りはできない。
たとえば、「10年間かけてこの形をマスターした」「この手で勝ち抜いた」などといった思い入れがあると、
それを切り捨てることはできなくなる。
愛着のようなものが湧いてきてしまうからだ。
それは心情として、捨てがたい。
そして、私たちは常にそういった感情携えながら、将棋盤に向かってきた。
「これはダメだから」「使えないから」「意味がないから」などと割り切ってしまうことで、
思い浮かんでくるものは、もちろんある。
だからといって割り切った目で見たものが全部正しいわけではない。
それでもやはり、割り切った見方から吸収できること、新たな発見があるというのも事実だ。
一方では、それと正反対のこともある。
10年、20年も前に一生懸命勉強した形。
いまでは二度と日の目を見ないと思っていたものが、めぐりめぐって復活してくることがある。
そういうときは、とても嬉しい。
時間をかけて、ようやく「来た!」というときの喜びは、ひとしおのものがある。
つまり、自分がこれまで培ってきたものを信じる、拠り所にするのと同時に、
積み重ねてきたその経験もどこかで否定しなければいけない、
リセットする覚悟ももち合わせないければならないということだ。
それらは、いずれかに結論づけるべきものではないと思う。
常にこっちが絶対だという、絶対価値みたいなものを結論づける必要はないということだ。
ある程度の流動性を保っておくということ。
目まぐるしく変わっていく時代の中にあって、
その変化を大前提にして、状況に適応しながら考える。
予想が外れることを前提にしていれば、対応もしやすいし、気楽ともいえる。
それまでの自分のやり方を貫くことよりも、そのときできることをやる。
それで出た結果は、自分の手を離れたら仕方のないことだからと覚悟して、
そういった流れとかベクトル、あるいは自分にないものを、
こだわって時間をかけたりせずに素早く取り入れ、修正しながら進んでいくことが必要だと思うのだ。
(「直感力」羽生善治さんより)
いまの将棋全般の傾向について、「変わった」と言われることがある。
対局のあり方の、様子が違う。
私がデビューした頃は、午前中、10時から12時は、雑談の時間。
盤に向かい合う棋士同士、みんな雑談をしていた。
内容はたいしたことではない。
たいていは近況報告。
みんな会社勤めと違って毎日会うわけではないので、たまに手を合わせたときには近況を語り合う。
序盤は定跡通りに進む。
本当の勝負は午後になってからだ。
全体に和気藹々とした雰囲気で指していた。
ところが、いまは顔を合わせても誰も口を開かない。
最初から、勝負の局面がものすごくシビアなのだ。
最初の10手とか15手、20手というところが、すでにもう大きな山場になっている。
一手の選択で一局の骨格が違ってしまうことも珍しくはない。
手の感覚にしても、従来に比べて変わってきていると思うことがある。
これまではいわれていた「当たり前のこと」「常識」あるいは「いい形」から、
少し離れたところに可能性を求めている、といえばいいだろうか。
それはまるで、モダンアートのようである。
前衛的なモダンアートを見て、すぐさま「美しい」という人はなかなかいないだろう。
ただし、それもひとつの表現のあり方、仕方であることは承知されている。
将棋界に、このモダンアートが台頭してきたような感じだ。
すでにがっちりと決められた定型のの中でやるのではなく、
ちょっと違うことも試してみようかといった潮流が、いま出てきている。
ここ5年間くらいの潮流だ。
それがいいかどうか、将棋の世界にフィットするかどうかはまた別の話ではあるが、
そういった流れはたしかにできつつある。
この流行の最先端をつくっているのは、10代後半から20代前半。
プロになったかならないかの人たちのアイデアから生まれていることが多い。
彼らは、私の20歳前後の頃とは全然違う。
従来では考えられない発想とかアイデアみたいなものを、驚くほど豊富に生み出すことができる。
ただし、その発想やアイデアが全部実っているかというと、それはほとんどない。
アイデアは出てくる。
次から次へと、繰り広げられる。
しかし、それをちゃんとした形として、戦法として使えるようになるとは、やはり別の次元の話だ。
湧き出たアイデアをしっかりまとめるためには、もうひとつ別のプロセスがあると思っている。
それでも彼らのアイデアから学ぶところは、たしかに多い。
こういう考え方もあるのか、こういったアイデアもあるのかと、私自身、非常に参考にしている。
どうして若い人のほうが、斬新な発想ができるのか、…。
それは、明確な割り切り、いいとこ取りができるからではないかと思っている。
思い入れが生じてしまうと、いいとこ取りはできない。
たとえば、「10年間かけてこの形をマスターした」「この手で勝ち抜いた」などといった思い入れがあると、
それを切り捨てることはできなくなる。
愛着のようなものが湧いてきてしまうからだ。
それは心情として、捨てがたい。
そして、私たちは常にそういった感情携えながら、将棋盤に向かってきた。
「これはダメだから」「使えないから」「意味がないから」などと割り切ってしまうことで、
思い浮かんでくるものは、もちろんある。
だからといって割り切った目で見たものが全部正しいわけではない。
それでもやはり、割り切った見方から吸収できること、新たな発見があるというのも事実だ。
一方では、それと正反対のこともある。
10年、20年も前に一生懸命勉強した形。
いまでは二度と日の目を見ないと思っていたものが、めぐりめぐって復活してくることがある。
そういうときは、とても嬉しい。
時間をかけて、ようやく「来た!」というときの喜びは、ひとしおのものがある。
つまり、自分がこれまで培ってきたものを信じる、拠り所にするのと同時に、
積み重ねてきたその経験もどこかで否定しなければいけない、
リセットする覚悟ももち合わせないければならないということだ。
それらは、いずれかに結論づけるべきものではないと思う。
常にこっちが絶対だという、絶対価値みたいなものを結論づける必要はないということだ。
ある程度の流動性を保っておくということ。
目まぐるしく変わっていく時代の中にあって、
その変化を大前提にして、状況に適応しながら考える。
予想が外れることを前提にしていれば、対応もしやすいし、気楽ともいえる。
それまでの自分のやり方を貫くことよりも、そのときできることをやる。
それで出た結果は、自分の手を離れたら仕方のないことだからと覚悟して、
そういった流れとかベクトル、あるいは自分にないものを、
こだわって時間をかけたりせずに素早く取り入れ、修正しながら進んでいくことが必要だと思うのだ。
(「直感力」羽生善治さんより)
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