8🌟相手を研究するより自分の型🌟
プレッシャーは集中力や直感を導き出すことに一役買うが、一方では、過度に神経質に、ナーバスになってしまう。
それは好ましい状態ではないだろう。
中学3年でプロの四段になり、最初の1年目は本当に楽しかった。
対局に臨んで「考えられるようになった」といったらいいだろうか。
なんとなく、自分としても伸びていっている実感があった。
多少の不安や緊張といえば、遠征で大阪など知らない地方へ行ったりすること。
そういうときは、やはりまだ子どもだから、少し不安を感じるといったことはあったが、
将棋そのものや棋士としての生活は、それまでとの環境の変化も含め、ひたすら楽しんでいた。
そうやって1年が過ぎ、環境にも慣れてきた頃、
初めての順位戦で、対局が夜の12時半頃まで及んだことがあった。
私は夕方6時くらいの時点で、すでにもうクタクタになっており、
みんな、こんなにしんどいことをよくやっているものだと感心したのを覚えている。
このとき16歳。
勝負に対するプレッシャーで辛いというよりも、体力的、精神的にまいった、という感じだった。
それまでは短い時間の対局しか経験したことがない。
根気よく1日中考えるなんて経験はしてこなかった。
たとえていえば、初めてフルマラソンを走ったようなものだった。
慣れてくれば平気なのだが、やはり最初のうちはそのような疲れがずいぶんとあったように思う。
「羽生にらみ」といった対局中の所作を取り入れたされたこともあった。
勝負の世界にいるわけだから、基本的にあたたかく見守ってもらうだけということもないだろうが、
周囲の空気の変化に戸惑うこともあった。
思い返してみれば10代の頃は、ナーバスになっていた。
対局を前にして緊張することもやはり多かったが、
それ以上に神経質に考え込んでしまったことが多かった。
たとえば、この手でこられたらどうなるかとか、こんな状況になったらどうしようかとか。
どう展開するかも決められない段階で、
起きるかどうかも分からないことをいろいろ考えてしまう。
そして、もしこうこられたら対策が分らない、
この手で返されたら次はない…と、
不安でいっぱいのまま、延々と反芻してしまう。
ふっきろう、ふっきろうと頑張ってはみるものの、なかなかできなかった。
そういった不安を払拭して、完璧に万全の状態にもっていくことなど、なかなかできるものではない。
それはいまも同じだ。
しかし、完璧とか万全の状態をつくるなど至難の業だと言うことに、
当時の私は気がつかなかった。
それが分かってきてしまえば、別に必ずしもそういう状態でなくていいのだと安心して、
本来集中すべきところに帰っていけるのだが、
そこに辿り着くまでは、とにかくもがき続け、考え続けた。
その頃には、対戦する相手の棋譜を1年分ぐらいずっと調べていたこともあった。
しかし、すでに終わってしまった過去の対局の棋譜を調べたところで、必ずしも、次回同じものになるわけではない。
いたずらに心配の種を増やすだけだということに、途中で気がついてやめてしまった。
つまり、相手のことを研究してもあまり意味がないということだ。
相手のことを研究するよりも、自分の作戦や型を充実させておいたほうがいい。
自分のやり方を求めていく方が対応しやすいのではないか。
相手がこう出てくるからこうしよう、というのではなく、
自分がこうするのだということを、きっちり押さえておいたほうがいい。
そうすれば、相手に誰がやってこようとも対応できる。
だからそのほうがいいのではないかと、途中からは考えるようになったのだ。
そして、そのための方法は、自分で自分に合ったやり方を研究するしかないという結論に至ったのだ。
ただし、それは20代に入ってからのことだ。
そこに至るまでに数年はかかった。
結局、プロになってから5。6年の間は模索していたことになる。
(「直感力」羽生善治さんより)
プレッシャーは集中力や直感を導き出すことに一役買うが、一方では、過度に神経質に、ナーバスになってしまう。
それは好ましい状態ではないだろう。
中学3年でプロの四段になり、最初の1年目は本当に楽しかった。
対局に臨んで「考えられるようになった」といったらいいだろうか。
なんとなく、自分としても伸びていっている実感があった。
多少の不安や緊張といえば、遠征で大阪など知らない地方へ行ったりすること。
そういうときは、やはりまだ子どもだから、少し不安を感じるといったことはあったが、
将棋そのものや棋士としての生活は、それまでとの環境の変化も含め、ひたすら楽しんでいた。
そうやって1年が過ぎ、環境にも慣れてきた頃、
初めての順位戦で、対局が夜の12時半頃まで及んだことがあった。
私は夕方6時くらいの時点で、すでにもうクタクタになっており、
みんな、こんなにしんどいことをよくやっているものだと感心したのを覚えている。
このとき16歳。
勝負に対するプレッシャーで辛いというよりも、体力的、精神的にまいった、という感じだった。
それまでは短い時間の対局しか経験したことがない。
根気よく1日中考えるなんて経験はしてこなかった。
たとえていえば、初めてフルマラソンを走ったようなものだった。
慣れてくれば平気なのだが、やはり最初のうちはそのような疲れがずいぶんとあったように思う。
「羽生にらみ」といった対局中の所作を取り入れたされたこともあった。
勝負の世界にいるわけだから、基本的にあたたかく見守ってもらうだけということもないだろうが、
周囲の空気の変化に戸惑うこともあった。
思い返してみれば10代の頃は、ナーバスになっていた。
対局を前にして緊張することもやはり多かったが、
それ以上に神経質に考え込んでしまったことが多かった。
たとえば、この手でこられたらどうなるかとか、こんな状況になったらどうしようかとか。
どう展開するかも決められない段階で、
起きるかどうかも分からないことをいろいろ考えてしまう。
そして、もしこうこられたら対策が分らない、
この手で返されたら次はない…と、
不安でいっぱいのまま、延々と反芻してしまう。
ふっきろう、ふっきろうと頑張ってはみるものの、なかなかできなかった。
そういった不安を払拭して、完璧に万全の状態にもっていくことなど、なかなかできるものではない。
それはいまも同じだ。
しかし、完璧とか万全の状態をつくるなど至難の業だと言うことに、
当時の私は気がつかなかった。
それが分かってきてしまえば、別に必ずしもそういう状態でなくていいのだと安心して、
本来集中すべきところに帰っていけるのだが、
そこに辿り着くまでは、とにかくもがき続け、考え続けた。
その頃には、対戦する相手の棋譜を1年分ぐらいずっと調べていたこともあった。
しかし、すでに終わってしまった過去の対局の棋譜を調べたところで、必ずしも、次回同じものになるわけではない。
いたずらに心配の種を増やすだけだということに、途中で気がついてやめてしまった。
つまり、相手のことを研究してもあまり意味がないということだ。
相手のことを研究するよりも、自分の作戦や型を充実させておいたほうがいい。
自分のやり方を求めていく方が対応しやすいのではないか。
相手がこう出てくるからこうしよう、というのではなく、
自分がこうするのだということを、きっちり押さえておいたほうがいい。
そうすれば、相手に誰がやってこようとも対応できる。
だからそのほうがいいのではないかと、途中からは考えるようになったのだ。
そして、そのための方法は、自分で自分に合ったやり方を研究するしかないという結論に至ったのだ。
ただし、それは20代に入ってからのことだ。
そこに至るまでに数年はかかった。
結局、プロになってから5。6年の間は模索していたことになる。
(「直感力」羽生善治さんより)
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