🍀般若心経の解説🍀15
🌸🌸「無受想行識(むじゅそうぎょうしき)」🌸🌸
「受・想・行・識も無く」
先に「空中無色」(空の中には色も無く)について学びましたが、
この五文字も同様に
「空の中には、受想行識も無く」
と理解してください。😄
「受想行識」につきましては、前ページ(解説7)の「人間の心の4つの働き」というところで、
それぞれを説明しましたので、
おさらいをしてください。😄☀️
「色」と、これらの4文字は、あわせますと「五蘊(ごうん)」と総称🌸されるされますので、
ここでは、次の五文字を想定🍀することができます。
空中無五蘊(空の中には五蘊もなく)
この五文字は、あくまでも皆さまの理解を助けるために、かりに作られたものです。
「空☁️」の究極の立場に立てば、
つまり「空」という大真実🌸の高い立場🗻に立てば、
「五蘊」として、分けて説く必要はないのではないか、
というほどの意味にとってよいかと思います。😄
「照見五蘊皆空」(解説1)で説明しました「五蘊皆空」と、
けっきょくは、同じことを述べていると考えられます。😄
さて、以下「般若心経」では、
この「五蘊」をはじめとする仏教の重要な術後に対して
否定的ないい方がなされます。😵
なぜあえて「無⚡️」という字が冠せられるのでしょうか?
ここで、歴史的📖な背景からその理由を考えてみましょう。
「般若心経」などの大乗経典📚が生まれる前は、
伝統的・保守的仏教(とくに説一切有部(せついっさいうぶ)という学派)が盛んでした。
かれらは、私たちの存在を含めた
この世のすべて(一切法)を
微に入り細にわたって分析🔎📑✒️することが、
仏教🌸を学ぶことにほかならないと誇っていました。
これに対して、「般若心経」などを奉ずる人たちは、
従来の仏教🌸は、存在の分析にのみとらわれ、
真実のさとりとは何か、救いとは何か、ということを忘れているのではないか、
と言う猛省をこめて、
「五蘊」などの伝統的な仏教の術語📖に対して「無」という字を冠したのでした。☀️☀️
高い、空の究極の立場🗻からすれば、
何もこと細かい教義をたてる必要はないではないか、
というわけです。😄
伝統的な学匠たちは、これに驚いき😵、そして無視☁️☁️したのでした。
(「あなただけの般若心経」より)
🌸🌸「無受想行識(むじゅそうぎょうしき)」🌸🌸
「受・想・行・識も無く」
先に「空中無色」(空の中には色も無く)について学びましたが、
この五文字も同様に
「空の中には、受想行識も無く」
と理解してください。😄
「受想行識」につきましては、前ページ(解説7)の「人間の心の4つの働き」というところで、
それぞれを説明しましたので、
おさらいをしてください。😄☀️
「色」と、これらの4文字は、あわせますと「五蘊(ごうん)」と総称🌸されるされますので、
ここでは、次の五文字を想定🍀することができます。
空中無五蘊(空の中には五蘊もなく)
この五文字は、あくまでも皆さまの理解を助けるために、かりに作られたものです。
「空☁️」の究極の立場に立てば、
つまり「空」という大真実🌸の高い立場🗻に立てば、
「五蘊」として、分けて説く必要はないのではないか、
というほどの意味にとってよいかと思います。😄
「照見五蘊皆空」(解説1)で説明しました「五蘊皆空」と、
けっきょくは、同じことを述べていると考えられます。😄
さて、以下「般若心経」では、
この「五蘊」をはじめとする仏教の重要な術後に対して
否定的ないい方がなされます。😵
なぜあえて「無⚡️」という字が冠せられるのでしょうか?
ここで、歴史的📖な背景からその理由を考えてみましょう。
「般若心経」などの大乗経典📚が生まれる前は、
伝統的・保守的仏教(とくに説一切有部(せついっさいうぶ)という学派)が盛んでした。
かれらは、私たちの存在を含めた
この世のすべて(一切法)を
微に入り細にわたって分析🔎📑✒️することが、
仏教🌸を学ぶことにほかならないと誇っていました。
これに対して、「般若心経」などを奉ずる人たちは、
従来の仏教🌸は、存在の分析にのみとらわれ、
真実のさとりとは何か、救いとは何か、ということを忘れているのではないか、
と言う猛省をこめて、
「五蘊」などの伝統的な仏教の術語📖に対して「無」という字を冠したのでした。☀️☀️
高い、空の究極の立場🗻からすれば、
何もこと細かい教義をたてる必要はないではないか、
というわけです。😄
伝統的な学匠たちは、これに驚いき😵、そして無視☁️☁️したのでした。
(「あなただけの般若心経」より)
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