🍀🍀寧静致遠🍀🍀④
さて、私の郷里・山梨の出身者に小林一三(いちぞう)という大先輩がいらっしゃいます。
阪急電鉄や東宝、宝塚歌劇団などを起こした大実業家ですが、
この方が、
「お金がないから何もできないという人間は、
金があっても何もできない人間である」
と言っています。
この言葉を聞くたびに思い出すのが、
先ほどお話しした、アメリカから帰国するときにメルクと交渉して研究資金を確保したことです。
ところが、しばらくしたら、
また困ったことが起こりました。
北里研究所は創立50周年を迎えた時に、学校法人北里学園を創立し、
そこに北里大学をつくりました。
ところが大学を発展させるために資産を大学にどんどん費やしてしまって
研究所が倒産寸前になり、
私の研究室も解散してくれというわけです。
解散したら十分な研究を続けられなくなりますから、
私は非常に厳しい覚書を交わし、
私の研究を通じて賄った資金で研究室を十年もたせてみよう。
それでもダメだったら手を上げようと肚(なら)を括(くく)りました。
幸い、5、6年で特許料が入るようになって、どうにかクビが繋がりましたが、
もしあそこで研究室を閉めていたら私はノーベル賞をいただけなかったでしょう。
世の中にはそういう厳しいことがありますが、
そこで踏ん張らなければ成功への道を歩めない。
小林一三の言葉は、そのことを示唆しているように私は思います。
しかし、その後も北里研究所の経営状態は思わしくなく、
私は教授を辞めて副社長になり、
背水の陣で研究所の立て直しに臨みました。
経営を研究するという言葉はしばしば耳にしますが、
その頃の私は、「研究を経営する」という言葉をよく使いました。
これにはまず、質の高い研究者を育成すること。
そして優れた研究アイディアの着想・考案、そのための資金の確保、
そして、そこから得た成果を社会に還元することが大切だと考えました。
中でも人を育てるのは大変なことで、
研究所の研究環境のレベルを上げなければ優れた人は育ちません。
そのために私は、海外から優れた研究者を呼んで若い研究者に話をしてもらいました。
セミナーに来てくれた方々はホームパーティーに招いて家内の料理でもてなしました。
狭い家でしたけれども、何度もパーティーを開いてできるだけ大勢の方を招いて交流を続けてきました。
セミナーは30年で500回も開き、3分の1はノーベル賞受賞者を初めとする著名な海外の研究者にご講演いただきましたが、
日本の大学や研究所でこれだけセミナーを続けた人はいないと思います。
おかげさまで若い人たちも成長し、120人が博士になり、そのうち31人が大学教授になっています。
それによって研究を一層発展させ、
また研究所も経営を立て直すためのいろんなことかできたわけです。
経営には全くの素人であった私は、家内の伝(つて)で紹介していただいた井上隆司先生、
研究所の監事を務めていただいた東洋曹達工業元会長の二宮善基さんや、東京海上火災保険元会長の渡辺文夫さんから、
いろいろなお話を聞きながら経営の勉強をさせていただきました。
後で友人から伝え聞いた話ですが、渡辺さんが、
「大村に大企業の社長をやらせてみたい」
とおっしゃっていたそうで、私は渡辺さんから勲章をいただいたような誇らしい気持ちになったものです。
経営に当たっていつも心掛けていたのが、「実践躬行(きゅうこう)」と「至誠惻怛(しせいそくだく)」です。
実践躬行は、言うだけでなく、自らやって見せなさいということ。
至誠惻怛は、誠を尽くし、労りの心を持つという意味で、
幕末の備中松山藩の藩政改革を成し遂げた山田方谷が、長岡藩の河井継之助に贈ったという逸話があります。
私は、この2つの言葉をいつも心に留めて改革に打ち込みました。
研究所の立て直しには内部改革を進め、
また新規事業を起こしたりと大変なエネルギーが要るものですから、
一時期体調を崩したこともありました。
しかし、研究で入ってくる特許料によって440床の新総合病院を建設したり、
将来に向けた研究基金を用意したりしながら借金は完全に解消し、その上で二百数十億円の金融資産を確保して、
経営効率化のために北里大学との統合を果たすことができたのです。
そして、この統合を機に学校法人北里研究所となったのではあります。
研究所の改革の際、30年前に作った北里研究メディカルセンター病院は、440床の病院ですが、
設計の段階から院内に絵画を展示できるように考えました。
また、ここではロビーの椅子を取り払うとコンサートができるようになっています。
それから何と言っても有名なのは、館内にたくさんの絵を飾っていることです。
画家の岡田謙三の奥様がこの事業に非常に感銘を受けてくださり、謙三が残した絵を150点近く寄付いただいています。
アウシュビッツから生還した『夜と霧』の著者ヴィクトル・フランクルは
「芸術は人の魂を救い、生きる力を与えるものだ」
と言っていますが、
私は病院に音楽や絵を取り入れることで、
患者さんや病院を訪れる人、働いている人たちの心が豊かになってほしいと考えました。
まだ、ヒーリング・アート(癒しの技術)という言葉も聞かれなかった頃です。
ある時、懇意にしている画家の櫻井孝美さんから伺った話ですが、
離婚され、お子様が病気で、命を絶とうとまで思い詰めておられたお母様が、
病院に飾ってあった櫻井さんの絵をご覧になって、
このままではいけない、この子を何とか立派に育ててやろうと立ち直られたそうです。
芸術にはそういう力があるのです。
病院に併設した看護専門学校にも、美術館のようにたくさんの絵を飾っていますが、
病気に苦しむ患者さんと接する看護師さんたちに、
ぜひとも心優しい人になってほしいと私は願っています。
オンコセルカ症の撲滅運動に取り組んでおられたWHO (世界保健機構)の部長さんから贈られた、
目の見えない親の手を引く子供の人形があります。
これをいただいた時に彼は、
「あなたのイベルメクチンでオンコセルカ症が撲滅できれば、
この人形がゴールドになるから、大切にとっておいてくさい」
と言ってくれました。
薬と言うのは、使っているうちに耐性になった菌や虫が現れたりして効かなくなることがよくありますから、
その時はそう簡単にはいかないだろうと思っていました。
しかし幸いにして、イベルメクチンはその後もたくさんの人を救い続け、
いよいよ撲滅の見通しが立ってきたことで、
私のノーベル賞を受賞することができました。
人形は見事にゴールドになったのです。
研究者としてここまでこられたのは、私を導いてくさった、たくさんの先生方、研究仲間、そして家内、文子のおかげです。
家内は、研究で忙しい私の代わりに、子供の養育から冠婚葬祭、交流する研究者のもてなしまで
一手に引き受け、私が研究に専念できるように心を砕いてくれました。
北里研究所メディカルセンター病院を設立する際、地元医師会の反対で計画が難航した時には、
署名運動を起こして設立の後押しをしてくれました。
17年前に亡くなった時には、世界中の仲間からお悔やみの言葉が寄せられ、私はそれを綴じて『大村文子の生涯』という本にしました。
本の巻末には、
「病気がちでありながら、絶え前向きに生き、人生を楽しみ、人のために尽くした、文子の短くあったが、その生涯を讃えながら筆を置く」
と認(したた)めました。
「よき人生は日々の丹精にある」。
これは、生前懇意にしていただいていた臨済宗僧侶・松原泰道先生が101歳の時に贈ってくださった言葉ですが、
こうしてこれまでの歩みを振り返ってみると、
胸に迫ってくるものがあります。
私の居間には、その泰道先生の
「生ききる」
という言葉、
そして東大寺の別当を務められた清水公照先生の
「不動心」
という言葉を飾っています。
私はこれからの人生で、これまで支えていただいた方々に、社会に、些(いささ)かなりとも貢献してまいりたいと考えています。
そのためにも夢を持って、不動心で生ききりたいと願っております。
(おしまい)
(「致知」6月号 ノーベル賞生理学・医学賞受賞 大村 智さんより)
さて、私の郷里・山梨の出身者に小林一三(いちぞう)という大先輩がいらっしゃいます。
阪急電鉄や東宝、宝塚歌劇団などを起こした大実業家ですが、
この方が、
「お金がないから何もできないという人間は、
金があっても何もできない人間である」
と言っています。
この言葉を聞くたびに思い出すのが、
先ほどお話しした、アメリカから帰国するときにメルクと交渉して研究資金を確保したことです。
ところが、しばらくしたら、
また困ったことが起こりました。
北里研究所は創立50周年を迎えた時に、学校法人北里学園を創立し、
そこに北里大学をつくりました。
ところが大学を発展させるために資産を大学にどんどん費やしてしまって
研究所が倒産寸前になり、
私の研究室も解散してくれというわけです。
解散したら十分な研究を続けられなくなりますから、
私は非常に厳しい覚書を交わし、
私の研究を通じて賄った資金で研究室を十年もたせてみよう。
それでもダメだったら手を上げようと肚(なら)を括(くく)りました。
幸い、5、6年で特許料が入るようになって、どうにかクビが繋がりましたが、
もしあそこで研究室を閉めていたら私はノーベル賞をいただけなかったでしょう。
世の中にはそういう厳しいことがありますが、
そこで踏ん張らなければ成功への道を歩めない。
小林一三の言葉は、そのことを示唆しているように私は思います。
しかし、その後も北里研究所の経営状態は思わしくなく、
私は教授を辞めて副社長になり、
背水の陣で研究所の立て直しに臨みました。
経営を研究するという言葉はしばしば耳にしますが、
その頃の私は、「研究を経営する」という言葉をよく使いました。
これにはまず、質の高い研究者を育成すること。
そして優れた研究アイディアの着想・考案、そのための資金の確保、
そして、そこから得た成果を社会に還元することが大切だと考えました。
中でも人を育てるのは大変なことで、
研究所の研究環境のレベルを上げなければ優れた人は育ちません。
そのために私は、海外から優れた研究者を呼んで若い研究者に話をしてもらいました。
セミナーに来てくれた方々はホームパーティーに招いて家内の料理でもてなしました。
狭い家でしたけれども、何度もパーティーを開いてできるだけ大勢の方を招いて交流を続けてきました。
セミナーは30年で500回も開き、3分の1はノーベル賞受賞者を初めとする著名な海外の研究者にご講演いただきましたが、
日本の大学や研究所でこれだけセミナーを続けた人はいないと思います。
おかげさまで若い人たちも成長し、120人が博士になり、そのうち31人が大学教授になっています。
それによって研究を一層発展させ、
また研究所も経営を立て直すためのいろんなことかできたわけです。
経営には全くの素人であった私は、家内の伝(つて)で紹介していただいた井上隆司先生、
研究所の監事を務めていただいた東洋曹達工業元会長の二宮善基さんや、東京海上火災保険元会長の渡辺文夫さんから、
いろいろなお話を聞きながら経営の勉強をさせていただきました。
後で友人から伝え聞いた話ですが、渡辺さんが、
「大村に大企業の社長をやらせてみたい」
とおっしゃっていたそうで、私は渡辺さんから勲章をいただいたような誇らしい気持ちになったものです。
経営に当たっていつも心掛けていたのが、「実践躬行(きゅうこう)」と「至誠惻怛(しせいそくだく)」です。
実践躬行は、言うだけでなく、自らやって見せなさいということ。
至誠惻怛は、誠を尽くし、労りの心を持つという意味で、
幕末の備中松山藩の藩政改革を成し遂げた山田方谷が、長岡藩の河井継之助に贈ったという逸話があります。
私は、この2つの言葉をいつも心に留めて改革に打ち込みました。
研究所の立て直しには内部改革を進め、
また新規事業を起こしたりと大変なエネルギーが要るものですから、
一時期体調を崩したこともありました。
しかし、研究で入ってくる特許料によって440床の新総合病院を建設したり、
将来に向けた研究基金を用意したりしながら借金は完全に解消し、その上で二百数十億円の金融資産を確保して、
経営効率化のために北里大学との統合を果たすことができたのです。
そして、この統合を機に学校法人北里研究所となったのではあります。
研究所の改革の際、30年前に作った北里研究メディカルセンター病院は、440床の病院ですが、
設計の段階から院内に絵画を展示できるように考えました。
また、ここではロビーの椅子を取り払うとコンサートができるようになっています。
それから何と言っても有名なのは、館内にたくさんの絵を飾っていることです。
画家の岡田謙三の奥様がこの事業に非常に感銘を受けてくださり、謙三が残した絵を150点近く寄付いただいています。
アウシュビッツから生還した『夜と霧』の著者ヴィクトル・フランクルは
「芸術は人の魂を救い、生きる力を与えるものだ」
と言っていますが、
私は病院に音楽や絵を取り入れることで、
患者さんや病院を訪れる人、働いている人たちの心が豊かになってほしいと考えました。
まだ、ヒーリング・アート(癒しの技術)という言葉も聞かれなかった頃です。
ある時、懇意にしている画家の櫻井孝美さんから伺った話ですが、
離婚され、お子様が病気で、命を絶とうとまで思い詰めておられたお母様が、
病院に飾ってあった櫻井さんの絵をご覧になって、
このままではいけない、この子を何とか立派に育ててやろうと立ち直られたそうです。
芸術にはそういう力があるのです。
病院に併設した看護専門学校にも、美術館のようにたくさんの絵を飾っていますが、
病気に苦しむ患者さんと接する看護師さんたちに、
ぜひとも心優しい人になってほしいと私は願っています。
オンコセルカ症の撲滅運動に取り組んでおられたWHO (世界保健機構)の部長さんから贈られた、
目の見えない親の手を引く子供の人形があります。
これをいただいた時に彼は、
「あなたのイベルメクチンでオンコセルカ症が撲滅できれば、
この人形がゴールドになるから、大切にとっておいてくさい」
と言ってくれました。
薬と言うのは、使っているうちに耐性になった菌や虫が現れたりして効かなくなることがよくありますから、
その時はそう簡単にはいかないだろうと思っていました。
しかし幸いにして、イベルメクチンはその後もたくさんの人を救い続け、
いよいよ撲滅の見通しが立ってきたことで、
私のノーベル賞を受賞することができました。
人形は見事にゴールドになったのです。
研究者としてここまでこられたのは、私を導いてくさった、たくさんの先生方、研究仲間、そして家内、文子のおかげです。
家内は、研究で忙しい私の代わりに、子供の養育から冠婚葬祭、交流する研究者のもてなしまで
一手に引き受け、私が研究に専念できるように心を砕いてくれました。
北里研究所メディカルセンター病院を設立する際、地元医師会の反対で計画が難航した時には、
署名運動を起こして設立の後押しをしてくれました。
17年前に亡くなった時には、世界中の仲間からお悔やみの言葉が寄せられ、私はそれを綴じて『大村文子の生涯』という本にしました。
本の巻末には、
「病気がちでありながら、絶え前向きに生き、人生を楽しみ、人のために尽くした、文子の短くあったが、その生涯を讃えながら筆を置く」
と認(したた)めました。
「よき人生は日々の丹精にある」。
これは、生前懇意にしていただいていた臨済宗僧侶・松原泰道先生が101歳の時に贈ってくださった言葉ですが、
こうしてこれまでの歩みを振り返ってみると、
胸に迫ってくるものがあります。
私の居間には、その泰道先生の
「生ききる」
という言葉、
そして東大寺の別当を務められた清水公照先生の
「不動心」
という言葉を飾っています。
私はこれからの人生で、これまで支えていただいた方々に、社会に、些(いささ)かなりとも貢献してまいりたいと考えています。
そのためにも夢を持って、不動心で生ききりたいと願っております。
(おしまい)
(「致知」6月号 ノーベル賞生理学・医学賞受賞 大村 智さんより)
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