🍀🍀必ず訪れる「死」を学ぶ🍀🍀
私は30年間、上智大学で「死の哲学」を教えてきました。
当時は誰もそのような講座を開かなかった時代でしたし、
ましてや日本では「死」というものがまだタブー視されていました。
ですから、私が「死の哲学を教えたい」と提案したときは、
「それはやめたほうがいい」とたくさんの励ましの声をいただきました(笑)。
「誰も講義をとりませんよ」とも言われましたが、
結局、毎年多くの学生が履修してくれました。
「いつか私たちの命は終わってしまう」という事は無視できません。
だからこそ、
「死への準備教育(デス・エデュケーション)」は、
生の教育でもあると思っています。
私は「死」を考えたとき、四つの側面に分けています。
普通、「死」というと「肉体の死」だけを考えがちですが、
他の三つも重要です。
まずは「心理的な死」です。
私は世界各地の老人ホームを視察しましたが、
生きる意欲を失ってしまった方に何にもお会いしました。
これが「心理的な死」です。
次に「社会的な死」です。
これは社会との接点が失われてしまった状態です。
がんでお年寄りが入院した場合、
彼の子供たちは、
最初のうちはよく病院に見舞いに行きますが、
それ以降は全く行かなくなります。
看護婦さんが「会いに来てください」と言っても
「仕事で忙しいので…」と答えたりします。
このように外部とのかかわりが途絶てしまうと、「社会的な死」となります。
親の最期のときは子供がそばにいるのが当たり前だと私は思います。
そして「文化的な死」です。
病院や老人ホームで、人間らしい文化的な潤いが一切ないとしたら、
それは「文化的な死」となります。
こうして「死」というものを深く考えてみると、
終末期における生命や生活の質を高めることの大切さがお分かりになるでしょう。
人が最期を迎えるとき、
その人のために何かをしてあげようと考えるのではなく、
ただそばにいてあげるだけで良いのです。
死んでいく人は「孤独のうちに死ぬこと」を恐れています。
ですからそういうときは、そばにそっと寄り添うことを大切にしてほしいと思います。
◇◇◇◇◇
私は長年、死別を体験された方々の話をたくさん聞きました。
愛する人、大切な人の死は、遺された人にとって「小さな死」のようなものです。
しかし、それは人生において精神的に成長するきっかけになります。
だから、死への準備教育の1つである、遺族のための教育「悲嘆教育(グリーフ・エデュケーション)を重視したいのです。
遺族が悲観から立ち直る過程には共通点があり、
12段階に分けて考えています。
その中から少し紹介します。
愛する人の死によって、遺族は一時的に感覚が麻痺したような状態になります。
それから「否認」します。
「あの人が死ぬはずがない」と考え、行動します。
私はこれをアメリカ同時多発テロの時に実感しました。
そのときニューヨークにいた私は、貿易センタービルに2機目の飛行機が突っ込んでいくのを見ました。
その後、ニューヨークで日本人の奥様方に会いました。
ご主人やご家族を亡くされた方は、「まだ葬儀はしたくない」と言われました。
なぜなら遺体を見ていないからです。
飛行機が突入してからビルが崩壊するまで1分間の猶予があったので、
その間に逃げた可能性があるわけです。
もちろんそう考えることもできますが、
2週間経っても連絡がなかったら残念ながらその可能性はゼロに近いです。
このように死を受け入れられず、「否認」の段階に陥る人はたくさんいます。
12段階のうち、9段階目になると「精神的な混乱とアパシー(無関心)」の状態になります。
アメリカで行われた研究によると、奥様を失った男性がしばらくの間、
奥様のことばかり考えて仕事に集中できなくなり、
ミスも多くなるという結果が出ました。
つまり、どうしたらいいのかわからなくなり、何事にも無関心になるのです。
しかし、この段階を超えると「あきらめ(受容)」の段階に入ります。
「あきらめる」という日本語には「明らかにする」という意味もあります。
自分の置かれた状況を「明らか」にして受け入れ、
つらい現実に勇気を持って直面しようとし始めるのです。
そして11段階目は「新しい希望・ユーモアと笑いの再発見」です。
私は日本人で何千人もの死別された方々に会いました。
ご遺族の皆さんは、しばらくの間、ユーモアを失っています。
もちろん大切な人を失った後は笑う気持ちなど起こらないと思います。
しかし、私はユーモアなしで生きるのは健康のためによくないと思っています。
悲嘆のプロセスの中でお笑いを再発見することは、
立ち直りに向けての重要な課題の1つです。
最後に12段階目は「新しいアイデンティティの誕生」です。
たとえば、田中さんの奥様はご主人が生きている間は、
「田中さんの奥さん」というアイデンティティーで生活していたかもしれませんが、
ご主人が亡くなった後はそうはいきません。
1人の自立した女性としての新しいアイデンティティを探求しなければなりません。
◇◇◇◇◇
人生において、悲しみや苦しみは難しいテーマです。
生きる上での指針となる、有名な祈りがあります。
「神よ、私に変えられないことは、そのまま受け入れる平静さと、
変えられることは、すぐにそれを行う勇気と、
そして、それらを見分けるための知恵をどうぞお与えください」
私たちの人生において変えられないことがあるのは確かです。
必ず訪れる「死」もその一つでしょう。
しかし、それを平静に受け入れながらも、
私たちは変えられることがあることを見分けて、
そこに力を注ぐことが、
望ましい生き方ではないかと、私は思っています。
(「みやざき中央新聞」アルフォンス・デーケンさんより)
私は30年間、上智大学で「死の哲学」を教えてきました。
当時は誰もそのような講座を開かなかった時代でしたし、
ましてや日本では「死」というものがまだタブー視されていました。
ですから、私が「死の哲学を教えたい」と提案したときは、
「それはやめたほうがいい」とたくさんの励ましの声をいただきました(笑)。
「誰も講義をとりませんよ」とも言われましたが、
結局、毎年多くの学生が履修してくれました。
「いつか私たちの命は終わってしまう」という事は無視できません。
だからこそ、
「死への準備教育(デス・エデュケーション)」は、
生の教育でもあると思っています。
私は「死」を考えたとき、四つの側面に分けています。
普通、「死」というと「肉体の死」だけを考えがちですが、
他の三つも重要です。
まずは「心理的な死」です。
私は世界各地の老人ホームを視察しましたが、
生きる意欲を失ってしまった方に何にもお会いしました。
これが「心理的な死」です。
次に「社会的な死」です。
これは社会との接点が失われてしまった状態です。
がんでお年寄りが入院した場合、
彼の子供たちは、
最初のうちはよく病院に見舞いに行きますが、
それ以降は全く行かなくなります。
看護婦さんが「会いに来てください」と言っても
「仕事で忙しいので…」と答えたりします。
このように外部とのかかわりが途絶てしまうと、「社会的な死」となります。
親の最期のときは子供がそばにいるのが当たり前だと私は思います。
そして「文化的な死」です。
病院や老人ホームで、人間らしい文化的な潤いが一切ないとしたら、
それは「文化的な死」となります。
こうして「死」というものを深く考えてみると、
終末期における生命や生活の質を高めることの大切さがお分かりになるでしょう。
人が最期を迎えるとき、
その人のために何かをしてあげようと考えるのではなく、
ただそばにいてあげるだけで良いのです。
死んでいく人は「孤独のうちに死ぬこと」を恐れています。
ですからそういうときは、そばにそっと寄り添うことを大切にしてほしいと思います。
◇◇◇◇◇
私は長年、死別を体験された方々の話をたくさん聞きました。
愛する人、大切な人の死は、遺された人にとって「小さな死」のようなものです。
しかし、それは人生において精神的に成長するきっかけになります。
だから、死への準備教育の1つである、遺族のための教育「悲嘆教育(グリーフ・エデュケーション)を重視したいのです。
遺族が悲観から立ち直る過程には共通点があり、
12段階に分けて考えています。
その中から少し紹介します。
愛する人の死によって、遺族は一時的に感覚が麻痺したような状態になります。
それから「否認」します。
「あの人が死ぬはずがない」と考え、行動します。
私はこれをアメリカ同時多発テロの時に実感しました。
そのときニューヨークにいた私は、貿易センタービルに2機目の飛行機が突っ込んでいくのを見ました。
その後、ニューヨークで日本人の奥様方に会いました。
ご主人やご家族を亡くされた方は、「まだ葬儀はしたくない」と言われました。
なぜなら遺体を見ていないからです。
飛行機が突入してからビルが崩壊するまで1分間の猶予があったので、
その間に逃げた可能性があるわけです。
もちろんそう考えることもできますが、
2週間経っても連絡がなかったら残念ながらその可能性はゼロに近いです。
このように死を受け入れられず、「否認」の段階に陥る人はたくさんいます。
12段階のうち、9段階目になると「精神的な混乱とアパシー(無関心)」の状態になります。
アメリカで行われた研究によると、奥様を失った男性がしばらくの間、
奥様のことばかり考えて仕事に集中できなくなり、
ミスも多くなるという結果が出ました。
つまり、どうしたらいいのかわからなくなり、何事にも無関心になるのです。
しかし、この段階を超えると「あきらめ(受容)」の段階に入ります。
「あきらめる」という日本語には「明らかにする」という意味もあります。
自分の置かれた状況を「明らか」にして受け入れ、
つらい現実に勇気を持って直面しようとし始めるのです。
そして11段階目は「新しい希望・ユーモアと笑いの再発見」です。
私は日本人で何千人もの死別された方々に会いました。
ご遺族の皆さんは、しばらくの間、ユーモアを失っています。
もちろん大切な人を失った後は笑う気持ちなど起こらないと思います。
しかし、私はユーモアなしで生きるのは健康のためによくないと思っています。
悲嘆のプロセスの中でお笑いを再発見することは、
立ち直りに向けての重要な課題の1つです。
最後に12段階目は「新しいアイデンティティの誕生」です。
たとえば、田中さんの奥様はご主人が生きている間は、
「田中さんの奥さん」というアイデンティティーで生活していたかもしれませんが、
ご主人が亡くなった後はそうはいきません。
1人の自立した女性としての新しいアイデンティティを探求しなければなりません。
◇◇◇◇◇
人生において、悲しみや苦しみは難しいテーマです。
生きる上での指針となる、有名な祈りがあります。
「神よ、私に変えられないことは、そのまま受け入れる平静さと、
変えられることは、すぐにそれを行う勇気と、
そして、それらを見分けるための知恵をどうぞお与えください」
私たちの人生において変えられないことがあるのは確かです。
必ず訪れる「死」もその一つでしょう。
しかし、それを平静に受け入れながらも、
私たちは変えられることがあることを見分けて、
そこに力を注ぐことが、
望ましい生き方ではないかと、私は思っています。
(「みやざき中央新聞」アルフォンス・デーケンさんより)
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