大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書13章21~30節

2019-07-16 08:49:45 | ヨハネによる福音書

2019年2月24日 大阪東教会主日礼拝説教 闇へ迷い出ないために」 吉浦玲子

<心騒がせられた主イエス>

 三年半、弟子たちは主イエスと共に宣教活動をしてきました。弟子たちにしてみれば、すべてをなげうって主イエスに従い、寝食を共にしてきたのです。数々の奇跡を起こされたイエス様、このお方こそ待ち望んでいた救い主であると信じ、輝かしい未来を夢見て、三年半の歳月を過ごしたのです。

 しかしいま、事態は不穏な方向に向かっています。弟子たちはどこまで事態を把握していたかはわかりません。しかし、どうにも主イエスのおっしゃることやなさることが理解できない感覚を持ちながら捉えどころのない不安な思いを抱いていたでしょう。今日の聖書箇所の前のところでは主イエスは父のもとに帰るというようなこともおっしゃっています。なぜそのようなことをおっしゃるのか。主イエスについて来た私たちはこれからどうなるか、もやもやとした思いが弟子たちの内にはあったでしょう。その不穏な雰囲気の中で、ついに主イエスははっきりと重大発言をされます。

 「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』」寝食を共にしてきた弟子の共同体に明確に罅が入っていること、この共同体がすでに破局に向かっていることを主イエスは断言されました。主イエスはそれを冷静におっしゃったのではありません。「心を騒がせて」おっしゃったのです。先週の聖書箇所である弟子の足を洗う場面でも主イエスはその裏切る弟子であるユダの足を洗われました。今日はヨハネによる福音書における最後の晩餐の場面ですが、この食事にもユダは共にいたのです。聖書において食事というのは重要な交わりの場です。しかも、今日の場面は最後の晩餐の場面です。主イエスはその場からユダを追い出そうとはされませんでした。

 ユダにしてみれば、主イエスを裏切ることはこの時点ではそれほど大きな問題ではなかったのでしょう。ローマを倒すこの世の王になりそうにない、自分にとって理解できないことばかり語っているこのイエスという男を見限っただけに過ぎないのです。他の福音書にはのちにユダはこの裏切りを後悔して自殺することが記されています。まさか主イエスが自分の裏切りが契機となって死刑にまで至るとは、このときユダは考えていなかったと言われます。ただ、ユダは主イエスのことを「使えない奴」だとユダは感じたのです。この人にについて行っても得にならない、メリットがない、そう考えたのです。自分の希望、自分の夢、自分のやりがい、自分の利益に相手が貢献してくれるならば協力しましょう、そういったことが望めないのなら、他を当たります、それがユダのあり方でした。しかしそれは現実的なものの考え方としたらけっしておかしなことではありません。多かれ少なかれ人間はそのような判断を現実においてなすのです。生きていくうえで、できるかぎり得なやり方、得になる付き合い、得になる場所を目指すのは普通のことです。ユダはイエスという人間は自分に取って得にならないと考えたのです。そしてまたユダにしても三年半の歳月は軽いものではなかったでしょう。彼なりに人生をかけて主イエスについて来たのです。そして幻滅したのです。ユダはイエス・キリストを裏切りましたが、ユダからしたらむしろ自分こそイエスに裏切られた、希望をつぶされた、そういう思いもあったでしょう。その思いが祭司長やファリサイ派に寝返るという行動にでたのかもしれません。

<裏切り者のいる部屋>

 さて、この場に裏切者がいる、その発言で場は緊迫をします。それまで漠然と皆が感じていた不自然さ、不安があらわになりました。サスペンスドラマで一部屋に複数の人々がいて、この中に<犯人がいる>と名探偵が叫んだような場面です。シモン・ペトロは主イエスの最も近くにいる、ヨハネと一般的には考えられている、「愛しておられた弟子」に合図を送ります。主イエスがだれについて言っておられるのか聞けと合図したのです。合図された弟子は「主よ、それはだれのことですか。」と問います。弟子たちが疑心暗鬼になった場面、それが最後の晩餐の場面でした。最後の晩餐は、聖餐式の起源です。しかしその場面は、混乱と不安と疑心暗鬼が満ちた場でした。恵みと喜びに満ちた場ではなかったのです。

 しかし主イエスは「この中に裏切る者がいる」とおっしゃりながら、その犯人を暴こうとされたわけではありません。ユダを皆の前で断罪するつもりはなかったのです。ではなぜこのような弟子たちを不安に陥れる言葉を語られたのでしょうか?それは人間は誰もが裏切るのだということを主イエスは示しておられるのです。マルコによる福音書やマタイによる福音書では奇妙なことに、「この中に裏切者がいる」と最後の晩餐の場面で主イエスがおっしゃったとき、弟子たちは「まさかわたしのことでは」と口々に言ったことが記されています。裏切ろうとしていたユダ以外の弟子たちが「まさかわたしのことでは」と言ったのです。ユダ以外の弟子たちはもちろんこの時点で裏切る気持ちは持っていませんでした。しかし、主イエスの言葉によって自分の心の中にある主イエスを裏切るかもしれないという思いがあきらかにされたのです。実際、こののち主イエスを裏切り裏切ったのはユダだけではありませんでした。ペトロも他の弟子たちも結局裏切ったのです。

主イエスを中心とした共同体はそのような集まりなんだと主イエスはおっしゃっているのです。いま、最後の晩餐に集っているのは聖人君子ではない、自分の得になることばかり考える人間、自分の思いが通らなければ去って行く人間、表面では信仰的な態度を取りながら内側では相手を欺いている人間、そういう人間が集まっている、それが主イエスの弟子たちであり、共同体なのだとおっしゃっているのです。

<主イエスがおられる部屋>

 じゃあ主イエスの弟子たち、そしてまた信仰の共同体は、言ってみれば、この世のさまざまな組織や共同体と変わらないようなものなのでしょうか。そうではありません。やはりこの世の様々な組織や共同体とは異なるのです。なぜならそこには主イエスがおられるからです。裏切る者、自己中心的なもの、欺く者のなかに、イエス・キリストがおられるのです。そのイエス・キリストが足を洗ってくださり、食事の中心にいてくださる、どうしようもないわたしと共にいてくださり、愛を注いでくださるのです。13章の冒頭で主イエスは「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とありました。イエス・キリストの共同体は徹頭徹尾人間の側には特別なことはなく、ただイエス・キリストが共におられ愛を注いでくださる共同体なのです。そのことにおいて、この地上のどの組織、共同体とも異なるのです。私たちはイエス・キリストが共にいてくださることを感謝し、その愛をただ感謝して受け取る、それだけでよいのです。

<闇へ出ていくユダ>

 さて、主イエスはパン切れを浸してとりユダにお与えになりました。ビネガーのようなものに浸したパンをユダに渡したのです。これは主人が客人をもてなす行為です。そしてまたキリストがご自身をお与えになる愛の行為を象徴していました。そのまさに主イエスが愛を捧げておられる、その瞬間にユダは裏切りました。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った、とあります。13章2節で悪魔はイスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていたとありました。裏切りの思いをもっていたユダがいよいよ行動を起こすことを決意したのです。イエスから愛のパンを受け取ったまさにその瞬間にユダは愛を拒否して裏切りました。裏切りはもともと仲の悪い反目しあっている間にはありません。信頼関係や親愛の思いがあるところに起こるのが裏切りです。相手から愛を受け取らない、拒否をする、それが裏切りです。神は人間に愛を注がれます。人間にはその愛を受け取る自由も、拒否する自由もあります。そして人間は神からの愛を拒否するとき、サタンに支配されるのです。神の愛を拒否し神から離れる時、それは自由になるのではありません。どうしようもない闇に落ちてしまうのです。

 イエスからパン切れを受け取ったユダはすぐに出て行きました。「夜であった」とあります。これはとても象徴的なことです。ユダは闇の中へ出て行ったのです。ヨハネによる福音書では主イエスは光として描かれています。その光なる神である主イエスの愛を拒否した者は闇へと向かいます。神の愛を拒否する者は夜へ闇へと向かうのです。

 イスカリオテのユダはキリストを売った裏切り者として、ある意味、新約聖書中最大の悪人のように感じられます。しかし、さきほども申し上げましたようにユダと他の弟子たちは50歩100歩だったのです。人間はだれでもユダになりうるのです。私たちの心の中にもユダはいるのです。しかし他の弟子たちとユダは何が違ったのでしょうか?

<主イエスから離れない>

 それは他の弟子たちは主イエスを拒否しなかったということです。主イエスが逮捕されたときひとときイエスのもとから離れましたが、復活のキリストのもとに戻ってきました。ある方の説教に「愛しておられた弟子」について興味深いことが語られていました。今日の聖書箇所でその弟子はイエスのすぐ隣にいたのです。主イエスの一番弟子はペトロのはずですが、この「愛しておられた弟子」はすぐ隣にいたのです。しかもイエスの胸もとに寄りかかっていたと書かれています。なんと大胆なと思いますが、おそらく当時はユダヤ式に床に体を投げ出して寝た姿勢で食事をとっていたので、隣にいた「愛しておられた弟子」はイエス様に体を接するくらいの位置にいたということでしょう。この弟子は十字架の時も、十字架の下にいたのです。復活の時も、マグダラのマリアから主イエスの遺体が墓から取り去られていることを知らされ最初に墓に走って行ったのはこの愛しておられた弟子でした。つまりこの弟子はいつも主イエスのそばにいたのです。主イエスのそばにいる弟子を「愛する弟子」とヨハネによる福音書は記しているのです。古い伝承ではこの弟子は一番若くて美少年だったように描かれたりもしています。しかし、愛しておられた弟子というのは特に主イエスから寵愛をうけた弟子とか、特別に立派だった弟子ということではないのです。愛しておられた弟子というのは、ただただそばにいた弟子を現しているのです。逆に言えばそばにいる者が愛されるのです。さらにいえばそばで愛を拒否せずに受けていた者がもっとも祝福をうけるということです。

 それに対して、ユダは愛を拒否して離れてしまいました。マルコによる福音書では主イエスは「人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」と語られています。これは恐ろしい言葉です。イエス様ご自身が「生まれなかった方が、その者のためによかった」とおっしゃるというのはどういうことでしょうか?主イエスを裏切る者、主イエスから離れる者には呪われてしまうというのでしょうか。実際、ダンテの神曲という作品に描かれる地獄にはいくつかの階層があり、そのもっとも最下層の地獄は裏切者がいくところとされています。そしてその裏切り者の行く所は主イエスを裏切ったユダがモチーフとされています。

 しかし、それはあくまでも象徴的な描かれ方をしているのであって、私たちはそのような地獄に落ちないために主イエスのもとに留まるのではありません。主イエスが「人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」とおっしゃったのは、主イエスから離れる時、人間は闇に落ちてしまう、そのことのゆえに不幸だとおっしゃったのです。主イエスのそばにいればいただける恵み、祝福、慰めから離れて、暗く冷たく殺伐とした闇の中に生きることになるのです。

<光の中に生きる>

 私は少し疑問に思うのです。なぜ主イエスは「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われたのでしょうか。どうして不幸になる道へ行くな、闇に落ちてしまうからここにとどまれとおっしゃらなかったのか。その理由はいくつか考えられます。先ほども言いましたように神は人間が神の愛を受け取らない自由を認めれおられるということです。神は人間が自分の意思でご自分のもとに留まることを望んでおられるのです。無理やり縛り付けようとはなさいません。主イエスは最後の最後までユダにチャンスを与えられたのだとも言えます。ユダの裏切りは、神のご計画の中で、定められたものでした。しかし、裏切ったあとでも、ペトロのように戻ってくることはできたのです。

 いずれにせよ、主イエスは最後までユダをも愛し抜かれました。ご自身の心を激しく騒がせ、打ち震えるような思いで主イエスはユダを送り出しました。裏切られても裏切られても愛さずにはおられない愛なる神の思いでユダを見送られたのです。

 私たちもまたユダの心を持っています。しかしなお私たちはとどまります。主イエスのもとにとどまります。主イエスの愛のもとにとどまります。そのとき私たちに日々は輝きます。イエス・キリストによって輝かせていただきます。主イエスの元の共同体もまた、主イエスが共におられるゆえに豊かに光の中で輝かされます。


ヨハネによる福音書13章1~20節

2019-07-16 08:39:09 | ヨハネによる福音書

2019年2月17日 大阪東教会主日礼拝 あなたは清くされる吉浦玲子

<過越しの犠牲>

 過越し祭の前のことである、と書かれています。前にもお話ししましたように、過越しの祭りは紀元前1300年ごろの出エジプトの出来事を記念した祭りです。エジプトで奴隷となっていたイスラエルの人々はモーセに率いられてエジプトを脱出する夜、神の命令により犠牲の羊を屠り、その羊の血を家の入口の柱と鴨居に塗りました。その犠牲の羊の血が目印となってイスラエルの人々の家を災いは過ぎ越して行きました。その過ぎ越しを記念して、1300年後の主イエスの時代にも過ぎ越し祭の食事では犠牲の羊が食べられたのです。ヨハネによる福音書では十字架の前、主イエスご自身が過ぎ越しの食事をなさったとは記されていません。今日の聖書箇所も「過越し祭の前のこと」だと記されています。つまり、ヨハネによる福音書では、主イエスご自身が犠牲の羊なのだということを明確にする意図を持って「過越し祭の前のことである」と記しているのです。主イエスご自身が汚れなき小羊としてこれから屠られる、人間への災いが過ぎ越していくように、人間の罪への神の怒りが通り過ぎて行くように、主イエスご自身の血が私たちの戸口に塗られるのです。それが十字架の出来事でした。

 その十字架の時が近づいていることを主イエスはご存知でした。「この世から父のもとへ移るご自身の時が来たことを悟り」と1節にあり、3節には「ご自分が神のもとからきて、神のもとへ帰ろうとしていることを悟り」とあります。私たちも、クリスチャンでなくても、人が亡くなるとき、天に帰る、とか、この世を去ったという言い方をします。しかし、主イエスは単純に、父のもとから来られてまた戻られる、ということではありません。たしかに天の父の元にお帰りになりますが、地上からさっと天に帰られるわけではありません。さきほど告白しました使徒信条で「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け十字架につけられ死にて葬られ陰府に下り三日目に死人の内よりよみがえり天に昇って」とありますように、この地上の支配者であるローマの総督ポンテオピラトの手によって十字架刑に処され、陰府にまで下られ、復活され、天に昇られるのです。地上からひといきに天に向かわれたのではなくいくつかのことを経て、天の父の元に戻られるのです。それは天の父の元にすべての人を連れていくためでした。すべての人を救い、ご自分の民として父にお与えになるためでした。そのことを通して神に栄光が帰されるためでした。神のもとから来て神のもとに帰られるイエス・キリストはご自分だけが帰ろうとされているのではありませんでした。私たちをも父のもとへ連れて帰るために、過ぎ越しの犠牲の羊となられました。

<愛し抜かれた>

 その犠牲の羊となられる主イエスは、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。愛し抜かれた、というのは、最後まで愛し通されたということです。キリストの愛はなによりその十字架においてはっきりと示される愛です。しかし、もうこれから自分は十字架にかかるのだから、その十字架の時まではひとまず愛は置いておいて、ということではありません。地上で弟子と過ごされるその最後の残された時間をも、主イエスは弟子たちを愛されたということです。

また文語訳聖書ではここは「極みまで之を愛し給へり」と訳されています。主イエスは弟子たちを極みまで愛された。愛の極みを弟子たちに尽くされたということです。極みまでの愛といいますと、この世では情熱的な恋愛とか、劇的な状況での人間の情感のようなことを私たちは考えます。もちろん主イエスがご自身の命を捧げられる十字架はたいへん劇的なことです。しかし、もっとも素朴に端的に極みまでの愛が示されているのが、今日の聖書箇所に記されている弟子の足を洗うということです。

主イエスは十字架の時を前にして、弟子たち一人一人の足を洗われました。洗足の出来事として名高い場面です。受難週の木曜日を洗足木曜日といい、大阪東教会でも洗足木曜日礼拝を行っています。教会によっては、牧師や長老が実際に人々の足を洗う洗足の儀式をするところもあります。ローマカトリック教会ではローマ法王が毎年洗足の儀式をすることになっていて、今年は法王が誰の足を洗うかがニュースになります。ちなみに昨年はイタリアの刑務所で服役中の人々の足を法王は洗われたそうです。

ローマ法王の洗足式の写真を見ますと、服役中の囚人たちはそれぞれにスニーカーなどの靴を履いていて、足を洗ってもらうとき靴を脱いだようです。翻って、主イエスの時代、人々はスニーカーや革靴などは履いていませんでした。サンダルのような履物だったと考えられます。道も現代の都会のように舗装されていません。埃っぽい道をサンダルのようなもので歩くので、足は大変汚れていたと考えられます。その足を洗うのは奴隷の仕事でした。それも外国人の奴隷に限られた仕事でした。もっとも下賤な仕事とみなされていたのです。汚れた汚い足の上に奴隷は身をかがめて洗うのです。たちまちに盥の水は濁って汚くなったでしょう。主イエスはそのような足を洗うということを12人の弟子全員になさいました。そこに主イエスの愛の極みがありました。謙遜ということを言いますが、自分が謙遜な態度を取るにふさわしい立派な相手に対して謙遜にふるまうことは容易です。優れた人尊敬する人身分の上の人に自分を低い者としてふるまうのは普通のことです。しかしそうではない、優秀でもない、尊敬にも値しない、そのような人を前に謙遜にふるまうのはそれほど容易なことではありません。それでも態度の上で丁重に謙遜にふるまうことは可能かもしれません。しかし、主イエスのように実際に身をかがめて汚れた足を洗うということは容易ではありません。

しかし、主イエスは洗われました。弟子たちの汚れた足を、そして何より、人間の罪の汚れを主イエスは洗われました。人間を清くするために主イエスは来られたのです。人間を清くする、そのことにおいて主イエスは愛の極みを示されました。弟子たちは汚れていただけではありません。皆、主イエスを裏切る者たちでした。2節に「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」とありますように、この時点でユダははっきりと裏切りの気持ちを持っていました。少し前の箇所でベタニアでマリアから主イエスが高価な香油を注がれれる場面がありました。労働者の年収ほどもする高価な香油でした。そんな無駄遣いをしないでその香油を売って貧しい人に施せばよかったのに、とユダはマリアを叱責しました。しかし、イエス様はマリアのしたことをむしろ褒められました。そのことがユダの心がイエス様から決定的に離れる契機だったかもしれません。そしてそのことを主イエスはご存知でした。はっきりとご自分を裏切る意思を持っているユダの足をも主イエスは洗われました。ユダだけを素通りして洗われなかったのではありません。12人全員の足を洗われたのです。

この時点では裏切る意志はもっていなかったにせよ、他の弟子も結局、主イエスを裏切りました。そのことをも主イエスはご存知でした。ご自分が逮捕される時、自分を捨てて逃げていく弟子たちであることを、主イエスはよくよくご存知でした。そのような弟子たちの足を洗われました。

<洗っていただくことが交わり>

弟子たちはもちろん驚きました。主イエスが奴隷のなさるようなことをされていることにいたたまれなかったことでしょう。「わたしの足など、決して洗わないでください」そうペトロは叫びました。これはすべての弟子の思いだったでしょう。エルサレムに王として入って来られたはずの主イエスが奴隷のように身をかがめて自分の汚い足を洗っておられる、それは耐え難いことだったでしょう。群衆がなつめやしの枝をふって歓迎されたお方がなんてことをなさるのか、もったいないという思いがあったでしょう。また一方で仕えられるということに人間は不思議な抵抗感を持つものです。完全に相手が自分より下だと思う相手なら抵抗は少ないかもしれません。しかし多くの場合、人間は人にやってもらわなくても自分でできると思ってしまうのです。仕えられるのはある意味うっとおしいことでもあります。しかしそこに何でも自分でできるという人間の傲慢もあります。自分で自分の汚れくらい洗える、そう思ってしまうのです。しかし人間は自分で自分の罪の汚れを取り去ることはできません。

そしてまた弟子たちは自分たちが師と仰ぐお方に汚い自分の足を見られ触られるのは嫌だったでしょう。敬愛するお方であるゆえに、そのお方に自分の汚いところはお見せしたくなかったでしょう。自分の良いところ立派なところだけを見ていただきたいと思ったでしょう。しかし主イエスはおっしゃるのです。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」さきほども申し上げましたように、主イエスはわたしたちを洗いに来られたのです。私たちの罪の汚れを清くするために来られました。そのことのゆえに私たちは主イエスとかかわりを持たせていただくのです。主イエスの素晴らしい教えや慰めに満ちた言葉を私たちはいただきますが、なにより、主イエスとの交わりは罪をあらっていただくということにあります。

それは、私たちは主イエスの前で、立派でなくてよいということでもあります。罪の姿のままで立てばよいのです。ダメな自分のままで弱い自分のままで私たちは主イエスの前に立ちます。その私たちを主イエスは洗ってくださるのです。私たちの隠していた汚いところをつまびらかにし、叱責なさるのではありません。ただ身をかがめて洗ってくださるのです。

「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」と主イエスに言われたペトロは今度は「主よ、足だけでなく、手も頭も」と言います。いかにもペトロらしい調子の良さです。もちろんペトロは自分が汚れていることを素朴に自覚してこう言ったのです。しかし主イエスは「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」とおっしゃいます。既に主イエスは来られました。ですから私たちは清くされているのです。わたしたちは十字架で清くされています。小羊の血で清くされているのです。時間的な軸で言いますと、洗足の出来事は十字架の前です。しかし、すでに主は十字架における罪と死への勝利を確信しておられました。罪の滅びを知っておられました。そしてまた「全身が清い」ということは洗礼を指しているとも言われます。主イエスの十字架における死と主イエスの名による洗礼によって人間はすでに清くされているのです。主イエスを信じ洗礼を受けた者はすでに清くされているのです。しかし全身は清くても、また折々に罪を重ねる者でもあります。ですから足を洗うのです。洗っていただくのです。

私たちは罪のこの世界を生きていきます。どのように汚れないように気をつけても私たちの足は汚れます。スニーカーを履いても、立派な革の靴を履いても、私たちの生身の足は泥にまみれるのです。生きていくことは罪の泥にまみれることとも言えます。しかしなおその汚れを洗ってくださる方がおられます。

<雪のように白く>

詩編51編は罪の悔い改めの詩編として名高いものです。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。/深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。/わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください」で始まります。「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。/わたしが清くなるように./わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。」このような言葉もこの詩編にはあります。わたしたちは深い憐れみによって罪をぬぐってください、罪から清めてください、という言葉には心を合わせらます。しかし、雪よりも白くなるように洗ってくださいというのは、なにか大げさな詩的な誇張のように聞いてしまうかもしれません。私たちの汚れた罪の心が、この世を歩んで汚れた足が雪のように白くなるなんてことは実は心からは思っていないかもしれません。真黒な罪が洗われても、私たちはそれが真っ白ではなくグレーくらいのものにように感じるかもしれません。しかし、たしかに主イエスが身をかがめ奴隷として私たちに仕えてくださるゆえに、私たちは雪のように白くなるのです。一点の汚れのない者として父なる神の前に立つことができるのです。主イエスが洗ってくださったからです。