大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書19章23~27節

2019-07-19 08:47:22 | ヨハネによる福音書

2019年3月24日 大阪東教会主日礼拝説教 「神の家族~十字架の上の七つの言葉」吉浦玲子

<他者への無関心>

 受難節、十字架の上の主イエスの言葉に聞いています。今日は「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの子です。」という二つの言葉に聞いていきたいと思います。主イエスは十字架の上で七つの言葉を語られたと言われますが、その7つの中で他の言葉が十字架とその救いの業に直結したような言葉であるのに対して、今日のこの言葉は少し異質な印象を与えます。しかしこの言葉もまた神の豊かな救いと慰めに満ちたものです。

 今日の聖書箇所の前半は、少し前に共にお読みしましたルカによる福音書にも出てきました兵士たちが主イエスの服を分け合う場面になっています。服を取る、つまり人間の尊厳をはぎ取り、分け合っているのです。ルカによる福音書より服を分け合う場面は少し詳しく書かれています。4つに分けられる上着は分けて、それぞれが取りました。兵士は4名いたのでしょう。当時、ローマでは兵士は4名一組が最小単位だったといわれます。そこで、縫い目のない下着は分けられないので、誰か一人が取ることになる、誰のものになるのかくじを引いて決めました。これはルカによる福音書で記述されていたのと同様に、詩編22編に記されている「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という言葉の成就でした。ヨハネによる福音書では、下着に縫い目がないということが書いてあります。ここはさまざまな解釈をされているところです。一説には、縫い目がないのは大祭司の着る服は縫い目がない一枚織りだったところから来ているという解釈があります。十字架の主イエスは大祭司であり、今まさに贖罪の供え物としてご自身を捧げているということを示しているというのです。そういう解釈はさまざまにありますが、なにより注目すべきは、十字架の上で肉体の死を目前にして苦しんでいる者を前にして、その下で人間はその苦しみに無関心で、苦しんでいる者からしたらとことん残酷なことをしているということです。

 もちろん文化も時代も違います。人間の命と言うものへの根本的な考え方も違います。まったく現代の価値観とは違う世界で兵士たちは生きていました。兵士たちにとって十字架につけられる者を見ることは日常的な仕事であって、なんら心を動かされることではなかったかもしれません。そもそも、十字架にかかるというのはローマ帝国への反乱者でした。ローマに盾突く人間などローマの兵士である彼らにとって厄介な存在であり、そんな人間はどうなっても構わないのです。手に入れられるものをさっさと手に入れて仕事を終えてしまいたい、そんな気持ちだったかもしれません。

 人権意識の高い現代にはこのようなことはありえないでしょうか?少しずれるような話になるかもしれませんが、今月、地下鉄サリン事件から24年目を迎えました。若い方はご存じないかもしれません。カルト宗教の集団が地下鉄に毒ガステロを行った事件です。あの24年前、当日、たまたま現場に遭遇したジャーナリストがそのときのことを書いているのを読んだことがあります。道に何人もの人が倒れ苦しんでいた信じられない光景があったそうです。しかし、もっと信じられない光景があったとその人は書くのです。倒れうめいている人や、混乱の中で救護活動をする駅職員や救急隊がいるなかで、足早に、倒れている人の横を通り過ぎて会社に急ぐスーツ姿のサラリーマンたちもいた、と。苦しむ人に関心を示さず、自分の行き先に向かうことだけを考えている人々が無数にいた、と。倒れている人をまたいで急ぐ人々すら多くいた、と。サラリーマンにしてみたら、交通機関が混乱して困った、一刻も早く会社へ、またお得意様のところへ行かなくてはいけない、それだけで頭がいっぱいだったのかもしれません。その状況に遭遇したジャーナリストは倒れている人々をまたいで急ぐ人々は恐怖や混乱でその場から離れようとしたのではなく、むしろ淡々と、自分の日々の職務に忠実に急いでいたと書いていました。テロも恐怖であったが、無表情に先を急ぐスーツ姿の人々も恐ろしい光景だったとその方は書いていました。それを読みながら、私自身、その場にいたらどんな態度がとれるのかわからないと感じました。

サリン事件の現場に限らず、私たちは往々にして苦しむ人のそばで、その苦しみを見ることなく、自分のことだけを考えている、そのようなところがあるのだと思います。本当はすぐそばにいる他者の苦しみを見ることなく、足早に通り過ぎてしまう、あるいは自分は楽しく皆と過ごす、そのようなことは私たちも無意識の内にしているのではないでしょうか。私たちは実際のところ、誰かの服をはぎ取り、その服を分け合っている四人の兵士のように、十字架の上で、そして傍らで、苦しむ人に無関心で、残酷なことをする者なのです。

<神の家族の誕生>

 さて、十字架の下では、そのような人間の罪にまみれた行いがなされていました。十字架上の主イエスはどうだったでしょうか?また今日の後半の場面では不思議なことが記されています。ヨハネによる福音書では十字架のもとには「その母と母の姉妹、クロバの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」とあります。新共同訳の日本語を見ますと四人の女性がいたと書かれています。しかし、ここの原語は、解釈によってはそこにいた女性は2名とも3名ともとれる書き方になっています。が、さきほどの服を分け合っていた兵士たちが4名であるとすれば、この女性たちも4名と考えて良いかもしれません。つまり十字架の下に、異質な二組の4名のグループがいたと言えるのです。同じ十字架の下にありながら、この二つのグループには違いがあったのです。

後者の婦人たちのグループに主は言葉をかけられます。「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」と言われた。」とあります。つまり、自分の母マリアのそばにいた愛する弟子を指して、母に「あなたの子です」とおっしゃったのです。そしてまた弟子にもこう言われました。「見なさい。あなたの母です。」。自分の母に対して弟子を「息子」だと言い、弟子に対して母を「あなたの母」だとおっしゃいました。そして「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とあります。つまり実際、主イエスの母とこの弟子は、このとき以降、親子のように過ごしたというのです。

 これは考えてみれば、主イエスが弟子に対して「自分が死んだあと、私の母をよろしく頼む」と言ったのだとも考えられます。母マリアはすでに夫であるヨセフを失っていたと考えられます。そして長男である息子まで失うことになるのです。その母を主イエスは弟子に託されました。そのことがわざわざ記述されていることの意味を教会は長く大事にしてきました。これは単に死にゆく息子が母の行く末を気遣ったというだけの話ではないのです。ここに「神の家族」つまり教会の基が建てられたと考えてきたのです。もちろん教会が教会として活動を始めたのはペンテコステの時からです。しかし、教会はなにより「神の家族」としてその原型を持っているのだと聖書は語るのです。

主イエスは母マリアに対して「婦人よ」と呼びかけています。これは親子としては冷たい言い方にも聞こえます。同じ呼びかけがヨハネによる福音書の2章のカナの婚礼の場面でもありました。婚礼の席でぶどう酒がなくなったことを母マリアは息子である主イエスに伝えました。しかし主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだきていません。」と答えます。この時の「婦人よ」もずいぶん冷淡だと感じられる言葉です。「わたしの時はまだきていません」と2章で語られた「わたしの時」は十字架の時でした。救い主として、救いを成し遂げる十字架の時を主イエスは語っておられました。主イエスは救い主として語っておられたのであって、相手が母マリアであっても、それは肉親の関係で、息子として語られているのではなかったのです。救い主として語られていた、ですから「婦人よ」と呼ばれたのです。カナの婚礼のときは、まだ主イエスの時である十字架の時はまだ来ていませんでした。しかし、今日の聖書箇所は、まさに主イエスの時でした。十字架の時でした。いまや主イエスは救い主として十字架におられます。救い主として主イエスはふたたび「婦人よ」と語りかけられました。

 救い主によって、いま新しい時が始まるのです。人間が救い主によってひとつとされる時が始まったのです。血のつながりや、気が合うとか趣味が合うとか、利害が一致するということを越えて、人と人とが救い主によって、神によって、まことに結びつく新しい時代の始まりが告げられたのです。これが教会という共同体の原型でした。

<教会は信仰の基>

 ある人がこういうことをおっしゃったそうです。「教会を母として持たないものは、神を父として持つ事はできない。」と。ときどきこういう人がいます。「教会で嫌なことがあって傷ついたので教会にはもう行きません。でも聖書も読んで、お祈りもしています。だから私はちゃんとイエス様に繋がっています。」と。しかしそれは間違いなのです。キリストの体なる教会につながっていなければ、キリストにはつながっていないのです。キリストに繋がっていなければ、父なる神にもつながっていないのです。そしてキリストの体なる教会は、ひとりではなく、共に、キリストを仰ぐのです。十字架のもとに4人の女性が集ったように、救い主であるイエス・キリストを共に仰ぐ共同体です。それが神の家族なのです。

 教会にもさまざまな教会があります。和気あいあいとした教会もあれば、どちらかというと教会員同士のつながりが希薄な教会もあります。礼拝で隣に座っている人のことは何も知らないという場合もあります。しかし、教会が教会である核は共に礼拝を捧げ、共に聖餐にあずかることです。共に十字架のイエス・キリストを仰ぐのです。教会の雰囲気が和気あいあいとしていても、一見、冷たいようなクールな感じであっても、そこに礼拝を何より大事にし、聖餐を心から感謝して共に受ける人々があるとき、それは教会でなのです。人間的な親しさを越えて、共に十字架のキリストを仰ぐのが神の家族なのです。

 以前もお話ししたことがありますが、東北の大震災ののち、会堂が津波で流された教会がありました。会堂もまわりもぐちゃぐちゃになって何もなくなってしまった。しかし、人々は、がれきで十字架を教会の跡地の地面に建てました。そこそこ大きなもので新聞にも写真が載っていたと記憶します。そのがれきの十字架のもとで人々は祈りました。その姿はまるで今日の聖書箇所のように十字架の主イエスのもとにいる4人の婦人たちのようです。会堂もなくなり、集会を継続するのも困難な中にも、主イエスの十字架を共に見上げるとき、そこには神の家族があり、キリストの教会があるのです。

<十字架の慰め>

 そして主イエスの十字架を見上げる時、そこには本来は悲惨な流血と死があるはずなのですが、慰めがあるのです。今日の場面で言えば、母マリアは息子に先立たれます。親が、ことに自分の腹を痛めた母親が子供を失うというのは絶望的なことです。しかも母マリアの息子は、病気や事故ではなく、見るも無残でみじめな死を遂げるのです。しかし、「婦人よ、ごらんなさい、あなたの子です」という息子である主イエスの言葉は、未来を拓く言葉でした。これからはあの弟子に世話をしてもらいなさいということ以上の希望の言葉でした。新しい家族が与えられる、それも神の家族が与えられる、もちろん、失った子供への思いはけっして消えることはありません。しかしそこで終わりではないという希望が与えられているのです。この時点で母マリアはまだ復活のことは良くわかっていなかったでしょう。しかし主イエスの十字架で終わりではない新しい何かの始まりを主イエスの言葉から感じたでしょう。一方の愛する弟子もそうでしょう。主イエスと共に宣教活動をしていた、それがリーダーである主イエスの十字架刑で、実を実らせることなくが無残な形で潰えたと思っていた、しかしその先にまだ未来がある、「あなたの母です」という言葉はその未来を指し示したでしょう。単に主イエスの母親の世話をする、それ以上のことを感じたからこそ、「そのときから」と書いているように弟子はただちに母マリアを引き取ったのです。今日の聖書箇所の次の場面である29節には「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」とあります。つまり、母マリアと愛する弟子に新しい家族として生きていくことを告げられた、そのことは主イエスが十字架の死の直前に成し遂げなければならない重要なことだったといえます。

 十字架は終わりではありませんでした。十字架を終わりだと考えている4人の兵士はくじを引いて、自分がもらえるものだけに関心を持っていました。今日この時のことだけを考えていました。サリン事件で倒れている人をまたいで仕事へと急いだサラリーマンもそうでした。しかし、主イエスの十字架は新しい時を開きました。十字架を仰ぐ人々がまことに新しくつながる時代を開きました。それは和気あいあいと楽しく皆で集うというのとは少し違います。未来へとつながる共同体です。そこに、終わりだと見えて、けっして終わることのない希望があるのです。絶望のように見えたその先に示される希望があるのです。

 


ルカによる福音書23章39~43節

2019-07-19 08:40:46 | ルカによる福音書

2019年3月17日 大阪東教会主日礼拝説教 あなたは今日楽園にいる~十字架の上の七つの言葉」吉浦玲子

 聖書を読みますと、人間が神を畏れる、というとき、恐ろしい神の姿を見たり、神の怒りにふれたから畏れるということではなく、むしろ、神の恵み、神の慈しみに触れたとき、人間は神を畏れる者とされることがわかります。ルカによる福音書5章には有名な大量の話が記されています。もともと漁師であったペトロは、あるとき、一晩中漁をしても魚がとれませんでした。夜通し頑張ったのに魚が取れなかったのです。ところが、イエス様の言葉に従って網を降ろしますと、おびただしい魚が網にかかって網が破れそうになったのです。もともと漁師でありますから、この大量がとんでもないことであることがペトロには良く良くわかりました。神の業以外の何物でもないことがわかりました。そのペトロは主イエスの前にひれ伏して言います。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」とんでもない大量、驚くべき神の恵みの前に、初めて人間は神への畏れを覚えるのです。そして自分の罪深い姿を知るのです。

<二人の犯罪人>

 今日の聖書箇所でもそのような一人の人間がでてきます。彼は主イエスと一緒に十字架にかけられた犯罪者でした。主イエスを真ん中にして、三本の十字架が立てられていました。主イエスの両脇の十字架にはそれぞれに犯罪者がいたのです。二人の犯罪者が主イエスと共に十字架にかけられたことは他の福音書にも記されていますが、ルカによる福音書は特徴的な書き方をしています。一人の犯罪者は、権力者や兵士や野次馬と同様に主イエスを罵るのですが、もう一人の犯罪者はそうではなかった、そう記されています。犯罪人の一人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と主イエスを罵ります。しかしもう一人の犯罪者は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」ともう一人をたしなめます。

 二人の犯罪人がどのような人間であったのか聖書は語りません。政治犯であったかもしれません。十字架刑になるのですから、ローマ帝国への抵抗運動をしていたのかもしれません。他の福音書には強盗と書いてあります。いまでいうところのテロリストのようなものであったかもしれません。ローマを倒すために殺したり、盗んだりしてきたのかもしれません。そしておそらくこの二人はこれまでの生き方において本質的な違いはなかったのではないかと考えられます。

 しかし主イエスへの態度において、きわめて鮮やかな対比を二人は見せます。共に、十字架の尋常ではない苦しみのなかにありました。自分の命が終わりに近づいているその中で、一人は、その苦痛の中で八つ当たりするように「我々を救ってみろ」と主イエスに叫びました。絶望の叫びでした。彼は自分のしてきたことはローマへの抵抗であってなんら悪いことだとは思っていなかったかもしれません。そしてまた主イエスが救い主であるなんてことはまったく思っていなかったでしょう。しかし苦しみとぜつぼうのゆえにこの犯罪人は主イエスを罵ったのです。

 しかしもう一人は「お前は神をも恐れないのか」という言葉でたしなめます。このもう一人の犯罪人は、主イエスがただならぬ存在であると感じていたようです。そして主イエスが何も悪いことをなさっていないことも感じていたこともわかります。この犯罪人がどうして主イエスに対してこのような思いを抱けたのか、その理由は聖書には記されていません。この犯罪人は、エルサレムからゴルゴダの丘までのビアドロローサをいっしょに十字架を担がされ歩きました。映画などで見ると、この場面は、ことに主イエスはいくたびもよろめき力なく歩まれています。それゆえに今日の聖書箇所の前の場面ではキレネ人のシモンが主イエスの十字架をになわされることになったのです。一方で主イエスと一緒に十字架にかけられた犯罪者は、それなりに腕っぷしも強かったかもしれません。体力もあったのではないでしょうか。実際、十字架において、他の二人の犯罪人より主イエスは早く絶命されたようです。共に十字架につけられた、普通に見たら、みじめな罪人の姿です。

主イエスのお姿はことに弱弱しくみじめに見えたかもしれません。しかも、野次馬たちは、ことにこのイエスという男を罵っている、その罵りの言葉からこのイエスという男は「自称メシア」、自分を神から来た救い主と言っていたらしいことが分かります。最初はなんて愚かな男だろうと感じたかもしれません。しかし、十字架に共にかかりながら、すぐ横で、主イエスの様子を見ながら、この犯罪人は分かったのです。自分と同じ苦しみ、みじめさの中にあって、死を目前にしてなお「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られる姿に、ああ、この方は罪のない方なのだと分かったのです。同じ苦しみ、同じみじめさの中にいるからこそ、その中で、自分を殺そうとしている者、侮辱する者たちのために祈られていることがただならむことであるのが分かったのです。

 それまでの生き方において、二人の犯罪人には大きな違いはありませんでした。しかし、死を直前にした十字架の上で決定的な違いが起こりました。同じように主イエスのそばにいて、そして同じように主イエスの言葉を聞きながら違いが出たのです。これは私たちにも起こることです。同じようにみ言葉を聞きながら、そしてまた聖書を読みながら、その御言葉の前で態度に違いが出るのです。主イエスはたとえ話をお語りになると木、「耳ある者は聞きなさい」とおっしゃいました。これは耳があっても、つまり、言葉は聞こえ言語としては理解できても、それを神の言葉として受け取れない人々がいることを主イエスはご存じだったからおっしゃったのです。つまり、十字架の上の二人の犯罪人のうち、一人だけが耳があったということになります。

 「父よ、彼らをお赦しください。」その言葉の恵みを受け取ったのです。そこにイエス・キリストの愛を感じたのです。そのとき、彼は神への畏れを感じたのです。

<楽園にいる>

 彼は言います。「我々は、自分のやったことの報いを受けているから当然だ。」彼は自分の罪が分かったのです。ローマを倒すためにやってきたことをそれまで彼は悔いていなかったかもしれません。他の福音書で書いてるように強盗だったとしても、罪の意識はなかったかもしれません。捕まって運が悪かった、運と自分を殺そうとするローマを憎みながら死んでいたでしょう。しかし、彼は罪が分かったのです。イエス・キリストの愛の前で、自分は死に値する罪を犯したことが分かったのです。その時彼に言えたことは、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という言葉だけでした。「このような私を御国に入れていただけませんか」とか「救ってくださいませんか」という言葉は到底言えなかったのです。自分の罪の深さを知ったとき、ただ、「思い出してください」としか言えなかったのです。

 すると主イエスは「はっきり言っておくが、あなた今日わたしと一緒に楽園にいる」」とおっしゃいました。この楽園とはなんであるか?そもそもの言葉はエデンの園で言われるような「園」なのです。これは解釈がいろいろあります。この「楽園」という言葉は、コリントの信徒への手紙でパウロが1回使っているだけで、新約聖書には出てきません。ただ、この言葉は一般的にいう「天国」と解釈をすべきではないでしょう。「あなたが御国においでになるときには」という言葉と対比させて、御国も天国と解釈して、イエス様があなたも天国にいくよとおっしゃったと解釈するのは違うでしょう。

 ここで語られているのは、決定的な救いです。「あなたは今日わたしと一緒に」いる、そう主イエスはおっしゃいました。キリストと同じところにいる、つまりキリストの救いの中に入れられている、ということです。そもそも多くの人が天国とか神の国というのは何かエデンの園のようなきれいなところに幸せに暮らすということではなく、神と共に赦されて生きる、ということです。そしてまた「御国においでになるときには」という言葉は天国に行かれる時にはということではなく、むしろ、キリストの再臨のときのことをさしています。ふたたびキリストが権威を持って、この世界の支配者として来られるとき、ということです。罪人は、キリストが再臨され、ご支配を完成されたとき、私のことを思い出してほしいと願いました。それに対して、主イエスはあなたはすでに今日、私と一緒にいる、つまり、今日、あなたは赦され恵みのうちにいる、とおっしゃったのです。

 この犯罪者はその死を前にして、キリストの言葉を聞き、救いを宣言されました。主イエスとこの犯罪者を見物している人々の中には祭司やファリサイ派という当時の宗教指導者たちもいました。彼らは何十年も律法を守り、宗教祭儀をなしてきたのです。しかしそのような宗教的生活をしてきた人々ではなく、十字架につけられた犯罪人の上に、救いは与えられました。

<天国泥棒?>

 この主イエスがから「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言っていただいた犯罪者は「天国泥棒」とよく言われるようです。先ほども言いましたように、いわゆる「天国」というのは主イエスのおっしゃる楽園の解釈とはちがうのですが、多くの人が、死ぬ直前に改心して救われたこの犯罪者に強い印象を持ってこういうようです。

 こういうことは現代でも起こります。私が洗礼を授かった教会の当時の牧師のK牧師は今は東京の教会で牧会されていますが、数年前、その先生から突然電話がかかってきました。近藤芳美という歌人がK先生の教会の教会員で亡くなったので、その方の歌人としてのプロフィールを教えてほしいとの電話でした。私が短歌をやっていることをご存じだったので問い合わせてこられたのです。近藤芳美といえば、歌壇の大家であって、私は面識はなかったのですが、その関係の歌人は存じ上げていたので、その方に問い合わせてお答えしました。近藤芳美さんがクリスチャンとは知らなかったのですが、よくよく聞くと病床洗礼だったようです。近藤芳美さんのご親族がK先生の教会の方で、そのご親族の願いで、K先生が、近藤芳美さんのお宅を訪問され、話をされました。近藤芳美さんはすでに聖書のこと、キリストのことをよくご存じで、K先生の語る話もすぐに理解され受け入れられました。そしてその場で洗礼を受けられたのです。もうお体がだいぶ悪く、おそらく教会の礼拝に出席することはかなわないままに召されたようです。そのしばらくあと、大阪で近藤芳美さんの弟分にあたる岡井隆という歌人を囲む会がありました。岡井隆は近藤芳美の後輩で、戦後の歌壇を担ってきたやはり大家と言える歌人でしたが、その方は、クリスチャンでした。その岡井さんに私は近藤芳美さんが亡くなる直前に洗礼を受けられたことをご存知ですか?とお聞きしましたら、ご存知なく、たいへん驚いておられました。でもしばらくして、少しにんまりとされて、「なんだか近藤さん、ずるいね。僕はずっとクリスチャンだったんだよ、何十年も。なのに、彼は、ほんのちょっとの期間だけクリスチャンになって天国行きってこと?なーんかずるいよねー」とおっしゃっていました。まるで、キリストと共に十字架に上げられて、死ぬ直前に救いに入れられた罪人のように先輩の近藤さんのことを感じておられていたようです。

 十字架の上の犯罪人にしても、今日における、病床での緊急洗礼にしても、どのような時にも救いがおこるのだということを示しています。じゃあ、死ぬまでにキリストを信じれば救われるのであれば、長い期間クリスチャンとして生活をしているのは意味のないことでしょうか?もちろん、そうではありません。主イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃいました。「今日」私たちも信じて主イエスと共にいるのです。そこに恵みがあるのです。まさにそれは「楽園」といってもよい祝福があるのです。その祝福の日々は長ければ長いだけの喜びに満ちているのです。今日、私たちはイエスと共に生き、イエスと共に光の中を歩みます。