2021年月日大阪東教会主日礼拝説教「 約束を守られる神」吉浦玲子
【説教】
<復活の生々しさ>
キリストは復活されました。肉体をもって復活されました。それは生々しい出来事でした。復活は、キリストは亡くなれたけれど、心の中にいつまでも生きておられる、というようなことではありません。あるいは霊的な存在として主イエスは生きておられる、そういうことではありません。十字架におかかりになるまえと同様に、肉体をもって、復活をされました。そしてそのお姿は光り輝くものではなく、そのお体にはたしかに、十字架におかかりになったときの釘の跡、槍て突かれた傷の跡が、生々しく残っていました。それは、主イエスが十字架の上で息を引き取られて三日目のことでした。それは、弟子たちの中に混乱を生じさせました。まず女性たちが主イエスの墓に行ったら墓が空になっていることを発見しました。遺体は一体どこへ行ったのか?何が起こったのか?弟子たちは分かりませんでした。一方、エマオへ向かっていた弟子たちに主イエスが姿を現されました。またシモンにも現れたとも聖書は記します。しかし、弟子たちはまだはっきりとは状況をつかめていませんでした。それが今日の聖書箇所の場面です。
「こういうことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた」こう記されています。これまで復活のキリストは復活されたと思われる痕跡を示したり、個別の弟子に姿を現されましたが、ここではじめて、弟子たち皆の前に現れられます。復活のキリストは弟子たちの真ん中に立たれたのです。これは今日私たちがお捧げしている礼拝の姿でもあります。復活のキリストが今も私たちの真ん中に立っておられます。これが週の初めの日の出来事です。もっとも、今もキリストは私たちの間に立っておられるというと少し話が混乱するかもしれません。いま、私たちはキリストを肉眼で見ることはできないからです。しかし、今日の聖書箇所では肉眼で見ることのできるお姿で復活のキリストは皆の前に立たれました。
そしてキリストはおっしゃいます。「あなたがたに平和があるように」。この言葉は一般的な当時の挨拶の言葉、ヘブライ語の「シャローム」であると考えられます。<こんにちは><こんばんは>そのような挨拶を主イエスはなさったのです。しかし、普通のことのように主イエスは挨拶をなさっていますが、その状況はとんでもないものでした。主イエスは話をしている弟子たちの真ん中に「いきなり」立たれたのです。どこかから入って来られたという形跡がありません。主イエスは普通に「こんにちは」とあいさつをなさっていますが、弟子たちは当然驚きます。「彼らはおそれおののき、亡霊を見ているのだと思った」とあります。当然でしょう。たしかに主イエスが息を引き取られたのを弟子たちは知っています。もし、いったん死んだものの、実は仮死状態だったので、蘇生をしたということなら、キリストはドアを開けて部屋に入って来られるはずです。しかし、突然、皆の前に現れられました。しかしここで、短絡的に、なにか霊的な存在としてキリストが復活をされたと考えてはなりません。
とはいえ、どうにも理解しがたい形で復活の主イエスは現れられました。むしろ霊的な存在として現れられたのであれば、たとえば弟子たちが考えたように亡霊であれば、まだ私たちも納得できるでしょう。しかし主イエスは自分は亡霊ではないとおっしゃるのです。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」とおっしゃるのです。亡霊ではなく、触ることのできる肉体という実体を伴った存在なのだと主イエスはおっしゃるのです。さらには焼き魚を食べるというパフォーマンスまでなさいます。 ここは弟子たちのみならず、多くの人々が戸惑うところです。復活なさった主イエスは亡霊のようなものではないが、壁をすり抜けられるようなところがあり、物理的な制約において十字架におかかりになる前の体の様子とは少し違うのです。少し違うのですが、たしかにキリストは生々しく肉体を持って復活をされました。
<復活のキリストと出会う>
ところで、7年前、私がこの大阪東教会に主任として仕えるようになった年の復活祭の礼拝では、平山武秀牧師が説教をしてくださいました。私が当時、伝道師であって、聖餐を執行できませんでしたので、平山先生にお願いしてお越しいただいたのです。その時の説教の中で、平山先生は「聖書には主イエスを目撃した人々、主イエスと出会った人々の証言がたくさん記されています。その聖書において、主イエスに関する出来事の中で、受肉と復活は、特に重要な出来事です。受肉と復活は、神の救いの根幹に関わる最も大きな奇跡です。しかし、そのふたつの出来事を直接目撃した者はいないのです」と語られました。キリストの語られたことやなさったことを多くの人々が目撃しました。そしてそのことは福音書にも手紙にも書かれています。しかし、受肉と復活の決定的瞬間を直接に目撃した人はいないのです。復活に関していえば、すべての福音書で「空の墓」から話が始まります。墓の中で主イエスが目を開け起き上がられる場面、歩き出される場面などはだれも見ていないのです。復活なさった主イエスとの出会い方も尋常なあり方ではありません。突然、姿が見えたり、消えたりします。亡霊だ、幽霊だと言われる方がよほど信じやすいのです。決定的な場面の目撃証言がないままに不思議な書かれ方で聖書は復活の出来事を伝えています。それゆえ、復活なんて信憑性がないとか、教会の捏造だとかいう愚かな人々も出てきます。
しかし、たしかに2000年に渡り、キリスト者は受肉と復活の奇跡を信じて来たのです。それが愚かな作り話であれば、2000年前に発生した新興宗教のたわごととして歴史の中で消えていったことでしょう。実際のところ、決定的瞬間の目撃者はいないにも関わらずキリストが復活されたという伝承は消えませんでした。復活のことが記されたもっとも古い文書はコリントの信徒への手紙であると言われます。この手紙はキリストの死後20年頃に書かれたことが学問的に解明されています。十字架の出来事から20年という時間はけっして長くはありません。今から20年前のことを思い出してみてください。アメリカの同時多発テロが起こった頃です。当時物心ついた年齢であった人間にとってはツインビルが崩壊する衝撃的な映像は生々しく記憶にあるでしょう。キリストの復活の記事もそうです。実際に主イエスがエルサレムで十字架におかかりになった記憶が鮮明にある人々がまだ残っていた時代です。復活は十字架の出来事をリアルで知っている人々がいなくなった100年や200年後に言い出されたことではないのです。
しかしなにより決定的なことは、復活のキリストと実際のところ、多くの人々が決定的な形で出会ったことです。その復活のキリストは出会った人々に対して決定的な変化を生じさせたのです。単に亡霊と話をしたというのではない、出会った人々の人生を根底から変える存在として復活のキリストは人々と出会われたのです。ですから、復活のキリストと出会った人々はそのことを語らざるを得ませんでした。そしてその証言は、2000年後においても聖霊によって聞くとき、リアルな生々しい言葉として響いて来るのです。
<肉体をもった復活>
そして繰り返しになりますが、キリストご自身が肉体をもって復活なさったことはとても大事なことです。そもそも肉体、体とは何でしょうか?キリストご自身が「触ってみなさい」とおっしゃっていますが、肉体とは触れ合えるものなのです。観念や概念ではなく、触ることができる実体なのです。聖書が語ることは哲学や精神論ではありません。現実の世界において起こる出来事であり、現実の世界を生きる私たちの生活に関わって来ることです。
愛というものが、単なる概念であれば、私たちにとって愛は意味をなしません。愛は、愛するという行為を伴ったときはじめて意味を成します。そしてその愛するという行為は肉体によって行われます。聖書には主イエスが病人を治された話がたくさんあります。主イエスは病人に優しい言葉をおかけになっただけではなく、実際に肉体に働きかけられたのです。肉体に対して愛を実践されました。つまり肉体というものは、抽象的なものではなく、実際に愛し、愛されるという現実に生きる存在であるということです。
以前、どうしても出席しないといけない会で、周りはあまり親しくない人ばかりで、アウェイ感満載で、いごこちが悪い思いをしました。会が終わり、周りの人はまだ三々五々それぞれに雑談をしていましたが、私は、そそくさとその場を離れ帰ろうとしていました。戸口のところで、ふと視線を感じて振り返ると、一人の人が、私に向かって、部屋の向こう側から「さよなら」という感じでニコニコしながら手を振ってくれていました。別に駆け寄って来て話しかけるということではなかったのですが、アウェイ感、疎外感を感じていた私はその人が手を振ってくれていたのがとてもうれしく感じました。その人は私が話す相手もなくとぼとぼ帰っていく姿を見て、わざわざ手を振ってくれたのです。その気持ちがうれしくて、私も手を振って会釈をして帰りました。その人は肉体の目で私を認識して肉体の手を振って気持ちを表してくれました。言ってみれば小さな愛を示してくださったのです。
肉体は、愛を入れる器として存在します。そしてまた愛を受ける器として存在します。 重い荷物を持ってしんどい思いをしている人に、口で愛してると言っても意味はありません。小さな荷物の一個でも一緒に持ってあげる、そこに愛があります。疲れた家族のために、その人が好きな飲み物をそっと準備をする、そこに愛があります。泣いている子供をぎゅっと抱きしめてあげる、その時、子供は愛を感じます。
そもそも肉体は神がお造りになりました。神が愛を持って造ってくださいました。その肉体をもって私たちは愛を表現する者となるのです。キリストご自身がその肉体にお苦しみを受け愛を示してくださいました。そしてまた愛と救いを示すために、肉体をもって復活してくださいました。2000年前、弟子たちはたしかに肉体を持った復活のキリストと出会ったのです。天から響くキリストの声を聞いたのではありません。わざわざ魚まで食べてみせられる生身のキリストと出会ったのです。
<神の約束としての復活>
そしてそれらのことはすべて神のご計画の内にありました。愛のご計画、救いのご計画の中にありました。愛を持って私たちの肉体を造ってくださった神は、2000年前突然キリストを復活させられたわけではありません。44節に「わたしについてモーセの理っぽいと預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」と主イエスが語っておられます。復活は、人間の救いのために、罪からの救いのために、すべては神がご計画されていたことでした。そしてそのことはあらかじめ知らされていたことでした、神が約束されていたことでした。神はその約束を果たされました。しかしそれで終わりではありません。神の約束はまだ続きます。いま肉眼で私たちは私たちの真ん中におられるキリストを見ることができませんが、やがて見ることのできる日が来ます。再臨の時です。そしてまた私たち自身も復活をします。すでにこの地上を去った愛する兄弟姉妹もそうです。終わりの日に肉体をもって復活をします。先に地上を去った人々も復活をします。その日、すべての涙はぬぐわれます。神の約束は続くのです。その約束の希望に生きる力を与えられるのがキリストの復活の出来事です。キリストの復活は、神の約束の成就であり、さらに与えられる約束への確かな希望です。
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