大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書8章12〜20節

2018-10-01 19:00:00 | ヨハネによる福音書

2018年9月30日 大阪東教会主日礼拝 「世の光」 吉浦玲子

<闇を照らす光>

 主イエスは「わたしは世の光である」とおっしゃいました。ヨハネによる福音書1章ですでに「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と記されています。言、つまり主イエスの内にまことの命があり、そしてそれは人間を照らす光であると言われているのです。まさに光として主イエスは来られました。天体の太陽の光が地球上の生物の命に不可欠なものであるように、主イエスは、私たちの存在の根源を支える光です。その光なる神であるイエス・キリストご自身が「わたしは世の光である」と今日の聖書箇所ではおっしゃっています。

 「世の光」という時の「世」という言葉は、「コスモス」というギリシャ語です。英語で宇宙を指す単語はコスモスですが、その語源となった言葉です。「世」という漢字を見ると、なんとなく、日本人は世間とかこの世といったものを考えますが、「世」「コスモス」というのはむしろ神がお造りになった世界、宇宙全体、被造物全体の世界を指すニュアンスがあります。そしてまたそれは、神のご支配が完全になっている「天」と対比されるニュアンスもあります。罪のあるこの世界、壊れた世界が「世」とも言えます。

 しかし、その罪で壊れた世界にあって主イエスは「光」であるとおっしゃっています。「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」この世界は、そして一人一人の日々は、時に闇の中と感じられることがあります。どう考えても真っ暗闇ではないかと感じることもあります。その暗闇のなかをみ言葉に支えられて、主イエスの言葉に励まされて生きる、主イエスご自身がともしびのように私たちの道を照らしてくださいます。詩編119編105節に「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」という言葉があります。イエス様が、神のみ言葉が、暗闇を照らしてくださるのです。照らしてくださるのであれば、そこは闇であってもまったくの暗闇ではありません。だから主イエスは「わたしに従う者は暗闇の中を歩かない」とおっしゃるのです。

 以前、東北の大震災の時の夜の闇の話をしました。先般の台風21号の被害で広範囲に関西でも停電がありました。そののち北海道の地震でも大規模な停電、ブラックアウトが起こりました。闇の恐ろしさは、それが底なしであって、光がどこかから来るという希望が持てないことから来ます。

 主イエスが「わたしに従う者は暗闇の中を歩かない」とおっしゃるのは、一つには先に申し上げたように、主イエスご自身が私たちの歩みを照らしてくださるということがあります。主イエスが光として共におられるので、そこは底なしの闇ではありません。そしてまた、私たちは先の見えない闇を歩いていくわけではありません。いま、この世は、世界は罪の闇の中にあります。罪によって壊れた世界です。しかしやがてこの世が、世界が完全に新しくされるときがきます。神の救いが完成するときが来ます。キリストがふたたび来られるときです。そこに大きな光があります。ですから、私たちは先の見えない闇を歩いていくのではありません。その光はいまは遠くにぼんやりと感じられているだけですが、やがて確実にやってくる光です。私たちはやがてやってくる完全な光を信じることができるので、闇の中を歩みながら、完全な暗闇に埋もれてしまうことはないのです。

 ある女性が以前こういう話をしてくださいました。その方は熱心なクリスチャンであったお母さんに育てられました。お母さんが所属していたのはかなり熱心な教派で毎日早朝の祈祷会などもあったそうです。その早朝の祈祷会に、その女性は母親に連れられて行っていたそうです。眠くてしんどいなあと思いながら母親に連れていかれたそうです。やがて大学生になり親元を離れて生活をするようになって、その人は親への反発もあり、教会には行かなくなりました。当初はせいせいして楽しく生活をしたそうです。やっと自由になり自分の好きなように生きることができるようになって喜びにあふれていたそうです。しかし、だんだんと生活がすさんだ感じになってきたそうです。特に悪い生活をしていたわけではないのです。しかしなにかが足りないのです。日々はそれなりに不自由なく楽しく生活しているようで、どこか満たされたない思いがありました。そして、楽しいはずなのに、むしろ自分はずぶずぶと暗い沼のようなものに落ち込んでいっているような感覚を持ったそうです。何年かのち、その方は教会にふたたび行きました。そして子供の頃、無理やり連れていかれていた時は感じられなかった主イエスがそこにおられることを感じました。そして暗い沼にずぶずぶと落ち込んでいた自分がいま光の中にあることを感じたそうです。彼女はお母さんが行っていた厳しい教派ではなく、もう少しゆったりとした教会に落ち着かれました。そして初めて心の平安を取り戻したそうです。

 キリストを知らなくても、主イエスと離れていても、実生活でなにか悪いことが起こるわけではないのです。逆にキリストを知っていても、イエス様と共に歩んでいても、明るい日々だけがあるわけではない、それは皆さんもよくよくご存知でしょう。しかし、けっして明るくはない日々であっても、底なしの沼のような暗いものに取り込まれていくような日々ではありません。いつも私たちの歩む足元は照らされているのです。そして、目を上げると向こうに光が見えているのです。キリストがこの罪の世にふたたび来られるときの光がすでに見えているのです。

<私たちも光とされる>

 そしてまた「暗闇の中を歩かない」というとき、私たち自身がすでに変えられているということでもあります。私たち自身が光を放つ者とされているのです。キリストを信じ、キリストと共に歩む者は、自分では感じられないかもしれませんが、すでに光を放つ者とされているのです。聖霊なる神が内側におられるからです。私たちは神を知らずたしかに闇の中に生きていました。罪の闇の中を生きていました。そのとき、私たちの中には光はありませんでした。しかし、キリストを信じたとき、私たち自身が変えられました。ほのかに光を放つ者とされました。ですから暗闇の中を歩まないのです。

 <一隅を照らす>という言葉があります。これは金銀や財宝ではなく、人間の正しい行いや謙虚なありかたによって、その人のいるところが明るくされるということです。天台宗を開いた最澄という方の言葉からきているそうです。最澄がおっしゃったことは、人間のあり方としてとても素晴らしいことだと思います。しかし、私たちが暗闇の中を歩まないということは、正しく世のためになることをして、一隅を照らす存在になるからではありません。すでに神が私たちを変えてくださっています。自分たちが気が付いていなくても、キリストと共に歩むとき、私たちはすでに光を放つ者とされるのです。

 しかしそれはなにか華々しい光ではないかもしれません。一隅を照らすようなあり方ではないかもしれません。あああの方は目立たないけれどこまごまと気をつかってくださる、あるいはあの方といるとほっとするというような、つつましいけれど周囲に良い印象を与えるということでも必ずしもないかもしれません。

 子供が小さい時に町内の子供会で能勢のキャンプ場にキャンプに行きました。キャンプ場には大きな天体望遠鏡があり、夜、皆でその望遠鏡で星を観察しに行きました。望遠鏡の管理をしている方から、望遠鏡やら星の説明を受けて、かわりばんこに望遠鏡をのぞいたのですが、印象に残っているのは、大型の望遠鏡で月を見るのはまぶしすぎて危険だという説明です。天体観測される方には常識的なことかもしれませんが、月が眩しすぎるということに私は驚きました。なにかフィルターを付けたのか、あえて小さく見るようにしたのかわかりませんが、月の光がそれほど強烈であるということには驚きました。

 太陽の光は直接見てはいけないと子供の頃、言われた記憶があります。直接見てはいけない、だから黒い下敷きのようなものを通して観察した記憶があります。その太陽の光を反射しているだけの月の光もその表面を大きな望遠鏡で見るとき、とてつもなく眩しいのです。それは見る者の目を害するような激しいものなのです。眩しい光とというのは、かならずしも心地よいものではありません。キリストは光として来られました。まことの光として来られました。その光は、かならずしも心地よく、人々を喜ばせるようなものではなかったのです。わたしたちもまたキリストを信じ歩むとき、その放つ光は必ずしもこの世の人にとって心地の良いものとはかぎらないのです。

 ところで、今日の聖書箇所は、7章の仮庵祭の話から続いています。7章で主イエスが「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」とおっしゃり、また「わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と生きた水について語られた背景には仮庵祭のなかで、ギホンの泉というところから水を汲んでくるという儀式があったことがあります。その水は神の救いの象徴でした。しかし、そのようなギホンの水を汲んでも、人間は救われない、わたしを信じて、わたしの生きた水を受けなければ救いはないのだ、と主イエスはおっしゃったのです。祭りで盛り上がっている人々へまさに冷や水を浴びせるような言葉を語られたのです。

 そしてまた今日の聖書箇所も、仮庵祭で、夜、神殿に4本の黄金の燭台が灯されたことを背景としています。その燭台はとても大きくてエルサレムのどこからも見えたそうです。この燭台は、モーセの時代、荒れ野を旅する民を神が夜は火の柱として守られたことを象徴しています。祭りの時、この巨大な光を見るとき、先祖を導かれた神の光を人々は思い起こしたのです。しかし、その人々に主イエスはおっしゃるのです。そんな金の燭台の光ではなく、このわたしこそが、この罪で壊れた世という荒れ野を旅するあなたの光なのだ。そのような儀式の光では、この世の闇を照らすことはできない、そう主イエスはおっしゃっています。仮庵祭のとき、壮大な神殿で、煌々と輝く光に酔いしれていた人々にとっては、主イエスの「わたしは世の光である」という言葉は、耳障りな言葉であったかもしれません。主イエスの光は大きくて、まことの光であったゆえに望遠鏡で見る月の光が目によくないように、人の心を突き刺すものであったかもしれません。実際、先週お読みしました姦淫の女の場面では、主イエスの光によってその場にいた人間の罪が明るみに出されたのです。

 しかし、主イエスの光は罪を明るみしますが、同時に、そこから救いが始まる光でもあります。そこにしか救いがないという光です。神の光を失った状態が罪だからです。しかし、いま世の光なる主イエスはすでに来られています。この方と共に歩むとき、私たちは暗闇を歩くことはありません。出エジプトの民が闇の中を火の柱に守られて歩んだようにキリストの光と共に歩みます。それは金の燭台に灯された人工の光ではありません。キリストの光はわたしたちを光の子としてくださる光です。神の目から見たら、私たちもいまこの世の闇のなかで、はっきりと輝いて歩んでいく一人一人なのです。神に愛され、神の光を放つ、光の子供なのです。


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