2017年8月6日 主日礼拝(平和主日)説教 「平和を実現する人」 吉浦玲子
<この世の「平和」>
イザヤ書の11章1節に出て来ますエッサイはダビデ王の父親です。クリスマスのころに歌われる讃美歌にもその名前は出て来ます。エッサイの株からひとつの芽が萌えいでて、さらにその根からひとつの若枝が育った、その若枝こそがイエス・キリストなのだとイザヤは語ります。もちろん旧約聖書の時代ですから、「イエス」という名前は直接出て来ません。しかし、この箇所は、旧約聖書の中でもイエス・キリスト預言がされている箇所として、たいへん有名なものの一つです。この預言は、約七百年の時を隔てて、成就します。
この預言が為された時代は、アッシリアという大国が周辺の国々を牛耳っていました。イスラエルは北王国と南王国に分裂をし、おそらくこの預言の時期には北王国はアッシリアによって滅んでいたと考えられます。南王国はかろうじてアッシリアに従属的な位置に甘んじて、その国家としての体裁を保っていました。イスラエルだけでなく、当時、アッシリアの圧倒的な軍事力によって、周辺国家はおとなしくせざるを得なかった、アッシリアの強大さのゆえに、その地域の均衡が保たれていたともいえます。つまり、言ってみれば、当時の世界は「アッシリアの平和」ともいえる皮肉な状態でありました。アッシリアという強大な国の支配によって、見かけ上、世界に平和が保たれているように見えた時代です。「アッシリアの平和」という言葉はおそらく「ローマの平和」という言葉を応用して語られているのでしょう。主イエスの時代は、のちの歴史家によって「パクス・ロマーナ」つまり「ローマの平和」と言われていました。だいたい主イエスのお生まれになる少し前から2世紀後半までの約200年くらいのことです。「パクス・ロマーナ」とはローマ帝国がもっとも強大で安定していた時代のことでした。ローマに支配されていた地域はローマの強大さゆえにはむかうことができず、一見、当時の世界は安定していたのです。支配されていた地域の人々は決して幸せではなかったでしょう。主イエスの時代のイスラエルもローマの支配から解放されることを望んでいました。そんな「パクス・ロマーナ」「ローマの平和」でしたが、やがて徐々にローマ帝国の力が弱まり出すと今度はあちこちで紛争が起こりだしました。「パクス・ロマーナ」が壊れて行ったのです。大国の強大さのゆえに、一見、国際間の秩序が保たれている、しかし、大国の力が衰えるとバランスが崩れ、あちこちで紛争が起き、一触即発の状態となる、そういうことはいつの時代にもありました。20世紀の米ソ冷戦の時代もそうであったかもしれません。現代においてもそうでしょう。米国やロシア、中国といった諸国がそれぞれにやぶにらみの状態でかろうじて均衡を保っているといえます。もっとも現代は、絶え間なく紛争やテロはあり、多くの人々が犠牲になっている現実はあります。ですから「平和」という状況とは程遠いともいえます。
さて、イザヤ書の時代、「アッシリアの平和」の中で、もちろん、イスラエルの民族感情としては、アッシリアに従属することは本意ではありませんでした。当時のイスラエルの中には、他国と軍事同盟をむすび、アッシリアへ対抗しようという考えもありました。それはいかにも当然なことであります。国家が国家として、民族が民族として生き延びていくために、政治的政策、外交的方策、さらには軍事的手段を取ろうとすること自体は当然のことです。
<預言者の語る「平和」>
しかし、イザヤは<アッシリアの平和>と言える時代にあって、また、アッシリアに対抗しようという<反アッシリアの平和>をめざす人々の中にあって、人々が考えるのとはまったく異なる平和を語った人でありました。神の造り出す平和を語りました。まず、今日の聖書箇所の冒頭、「エッサイの株から」とあります。新共同訳ではエッサイの株と訳されていますが、多くの翻訳では「切り株」と訳されています。つまりエッサイの株はいったん切り落とされることをイザヤは語っているのです。つまり若枝が育つその前に、裁きがあることをイザヤは語っています。
いまはまだ国家として命脈を保っているイスラエルが切り落とされる日が来る、そのことをイザヤは語っています。実際、かつて栄華を誇ったダビデ王そしてソロモン王から続いたこの国は廃墟と化します。しかしなお、イスラエルで最も大いなる王とされたダビデの子孫から平和の王が生まれる、それはダビデの父のエッサイの切り株から生まれるのだと言います。切り落とされた株から小さな芽が萌え出でる、とても美しい比喩です。しかし、芽ですから、ほんとうに小さなものです。芽が出たことを気づかれることもないでしょう。その芽が育ち、根が広がっていく、根ですから、土の中にあり、その姿は人間の目には見えません。その肉眼では確認できない根から、やがて出てくる若枝が主イエスであるとイザヤは語ります。そのイエスこそが平和の王であるのだと語ります。イエスが神の平和を作り出すのだと語ります。
さらに時代をくだって、かろうじて存続していた南王国も滅び、生き残った人々もバビロン捕囚としてバビロニアへ連れて行かれるような時代背景の中で預言をした預言者にエレミヤがいます。エレミヤも周囲の人々と異なる平和を目指した点において同様でした。エレミヤの呼びかける平和は、当時の敵のバビロンに投降して、捕囚となってバビロンに行くことでした。エルサレムは包囲され、人々は闘っていました、国を挙げて皆が命がけで戦っているその状況の中で、戦うな捕虜になれとエレミヤは語りました。当然、人々は聞く耳は持ちません。すぐ目の前に敵がいるその戦争状態の中で、戦争を否定するような人間はその国家にとって、また共同体にとって、言ってみれば敵に等しいわけです。当然、エレミヤの言葉に人は耳を貸しませんでしたが、結果的には、エレミヤの預言通りになったのです。しかし、エレミヤ自身、単に、捕囚になって命を長らえることで神の平和が終わるとは考えていませんでした。イザヤと同じく、やがてくる神の平和をエレミヤもまた語ったのです。ふたたび新しく神のもとに皆が集い神を賛美するときがくる、その神の究極の平和をエレミヤは語りました。その究極のビジョンがあったからこそ、ひととき、バビロン捕囚という試練をも甘んじて受けることができるとエレミヤは考えていたのです。バビロン捕囚はまさに今日の聖書箇所で語られているエッサイの株が切り取られた時代のことでした。
<真の平和の王>
その切り株の根から出た主イエスはまことの平和の王となられます。「そのうえに主の霊がとどまる」とあります。主イエスはまさに神の霊を受けて王となられます。まことの知恵を持ったお方となります。その知恵の根源はなにより「神を畏れる」ことにあります。神を畏れ、正しい裁きを行う王であります。5節までの平和の王、弱い人貧しい人を助ける主イエスの姿には私たちは心慰められます。
しかし、6節から語られる、その王の造り出す平和は、私たちの目からは、いかにもおとぎ話のようなものに見えます。<狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す>このようなことは現実にはありえないことです。<子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く>子牛といっても大きいものですから、小さい子供にはとうてい導けません。ましてや若獅子などと子供を一緒になどできません。ありえないユートピアのような世界です。
そもそも、6節からの世界は、創世記で語られた天地創造の時代と同様なものとして世界が造り直されることを現しています。そもそも神は天地創造において、この世界を良いものとして造られました。創世記の第1章に創造されたその世界は「見よ、それは極めて良かった」と記されています。その極めて良かった世界が壊れたのは罪が世界に入って来たからです。きわめて良かった世界は罪のために壊れてしまったのです。しかし、ふたたび、きわめて良い世界として、この世界が造り直される、その再び造り直された世界をイザヤは今日の聖書箇所で語っています。そもそも、狼と小羊が共に宿ることのできなくなったのは、ノアの時代の大洪水のあとからでした。天地創造の最初の時代、実は動物はみな、草食だったと聖書では語られています。しかし、ノアの時代の洪水ののち、神は動物が動物の肉を食べることをゆるされました。その時代から、動物同士が殺し合いをする世界となったのです。動物の血が流される世界となったのです。それは神が罪の世界を忍耐されることを決意された、その決意のなかで、ひととき赦される流血でした。
しかし、その動物の血が流される世界がやがて、初めの時のように造り替えられる。狼と小羊が共に宿るようになる、これはいま壮年婦人会で読んでいるヨハネの黙示録で語られている終わりの日のことでもあります。
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では私たちは、その終わりの日まで、狼と小羊が共に宿るその日まで、この暗い、平和のない世界で忍耐をしないといけないのでしょうか?それはたしかに半分はそうです。私たちは、この罪によって壊れた世界で、戦争に怯え、不条理に耐えつつ、菜食主義者でなければ、他の動物の命をいただきながら生きていきます。
しかし、エッサイの若枝たるキリストはすでに来られたのです。2000年前に。しかし、この2000年間、おびただしい悲惨がこの世界にありました。世界大戦も、原爆も、テロも、原発の事故もありました。ホロコーストもありました。若枝たるキリスト到来ののちも何一つ世界は変わっていない、いやむしろ時代が進めば進むほど、もっと悪くなっているのではないか、そのような現実があります。しかし、それは神の現実でもあります。終わりの日へと、確実に向かう神の現実がこの世界に及んでいるということです。終わりの日は最後の裁きの日です。しかし、それは破滅の日ではありません。神が再び世界を完全に造り直される時です。その時の前に、世界には苦難が満ちていくのです。それはヨハネの黙示録に語られていることです。世界に、そして私たちの日々にも苦難、困難が満ちていきます。信仰の目で見る時、ある面、世界には一層の苦難が満ちているのです。
しかし、一方で、信仰の目で見る時、すでにイザヤの言う平和は実現しているのです。暗い世界の中に、たしかに、若枝たるキリストの平和は芽生えているのです。その平和は人間が造るのではありません。神が作り出される平和です。平和の主イエス・キリストの力による平和です。それはこの世の力とは異なる力です。平和の主であるキリストは「敵を愛せ」とおっしゃいました。これはクリスチャンでなくても知っている有名な言葉です。そしてクリスチャンであれノンクリスチャンであれ、これがとても難しいことであることを知っています。しかしこの言葉は崇高な理念を語った言葉ではありまえん。難しいかもしれないが、がんばって実践すべき努力項目でもありません。すでにキリストによって実現されたことなのです。そもそも人間は罪によって神の敵となっていました。その神の敵である人間を愛された方がイエス・キリストでした。みずからを十字架につける人々をも愛したお方でした。その愛は、いま、私たちにも注がれています。けっして敵を愛することのできない、いや、味方ですら十全には愛することのできない、愛において無力な私たちの上になお平和の主であるキリストの力はすでに及んでいます。そのキリストの愛のゆえに平和の奇跡はいまこのときの地上においても起きるのです。
アメリカの黒人差別の歴史の中で、公民権運動のリーダーであったキング牧師は、その運動の日々、絶え間ない脅迫を受けていました。自分や家族の命が奪われる危険を覚えながら、なお、神の奇跡を信じ歩んだ人でした。非暴力を貫き、敵であった白人層からも共感を得て、支持を取り込みつつ歩んだ方でした。しかし、いよいよ黒人の権利が守られる公民権法が制定される前夜、キング牧師の置かれた状況はけっして良いものではありませんでした。むしろ運動が頓挫しそうな意気消沈するような状況でした。しかし、公民権法は制定されました。それはキング牧師の見た奇跡でした。そのキング牧須はその後、暗殺される直前の演説でこのように語っています。
<…前途に困難な日々が待っています。でも、もうどうでもよいのです。私は山の頂上に登ってきたのだから。皆さんと同じように、私も長生きがしたい。長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。神の意志を実現したいだけです。神は私が山に登るのを許され、私は頂上から約束の地を見たのです。私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。>これは出エジプトの民を率いて40年旅をしてきたモーセが、最晩年、神から約束の地に入ることをゆるされず、しかし、ネボ山の上から約束の地を見せていただいたと記されている申命記を下敷きにした言葉です。キング牧師は、道の途中で暗殺をされました。モーセのように自らは約束の地へはいることはできなかったといえます。しかし、彼はそれを見たのだと暗殺の前夜語ったのです。キング牧師は約束の地を、そして狼と小羊が共に宿るその日を信仰によって見ていた方でした。その終わりの日のビジョンから突き動かされた方であったといえます。平和の主キリストの力によって突き動かされた方でした。人間の目から見たらキング牧師は道の途上で倒れた方かもしれません。しかし、キング牧師を通じて働いたキリストの力はこの地上に平和の奇跡を起こしたのです。
私たちにもすでに平和の主キリストの力は及んでいます。愛において無力であるはずの私たちもまたキリストによって私たちの日々に平和を造りだす者とされます。この世へと愛を注ぎだす者とされます。
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