大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書3章1~15節

2018-06-11 17:52:06 | ヨハネによる福音書

2018年5月27日 大阪東教会主日礼拝説教 「水と霊によって生まれる」吉浦玲子

<招かれたニコデモ>

 主イエスは人々を招いておられます。人々が、信じない者ではなく信じる者へとされるように、滅びではなく救いへ向かうように、闇ではなく光の中に生きるようにと招いておられます。その招きをうけた一人が今日の聖書箇所のニコデモです。もちろん、今日の聖書箇所ではニコデモが主イエスに招かれたという記載はありません。ニコデモはみずから主イエスのもとへ赴いて来ました。ニコデモの社会的立場からすると危険すら犯して、主イエスのもとに来ました。主イエスは、先週お読みした神殿での出来事をはじめ、その行動と言葉において、ファリサイ派や祭司たちを敵に回しました。エルサレムの権力者たちから疎まれていました。その権力側にニコデモはいました。ですから、ニコデモは夜の闇に乗じて来たのです。人目を避けて来たのです。ニコデモは人目を避けて、自分の思いで、危険を冒して、自分の意志で来たのです。しかしなお、ニコデモは主イエスに招かれたのです。深いところで、ニコデモは主イエスからの招きを感じたのです。

 ニコデモはファリサイ派であり、聖書に詳しかったのです。信仰的で熱心な人でした。議員であり、人々に教える教師でした。そのニコデモの深いところに、主イエスがなさったしるしは響いたのです。ニコデモが目の前で主イエスの業をみたのか、伝え聞いたのかは分かりません。いずれにせよ、聖書の教師であり議員であったニコデモがごく単純に主イエスのなさった奇跡に驚き、主イエスを<わあ、すごい>だと思ったのではありません。ニコデモは求めていたのです。ほんとうの救いを求めていたのです。ほんとうの神の業を求めていたのです。聖書のことは誰よりも詳しく知っている、人に教えるほど知っている、そんな自分でありながら、自分が救われていないことをニコデモは感じていたのです。どれほど熱心に聖書を学んでも、まじめに律法を守っても、そこには真実の平安がなかったのです。

 思い起こすのは幾度かお話ししたことのある宗教改革者のルターの若き日のことです。ルターもまた、まじめな修道者として、そしてまた聖書の学者として日々を送りながら満たされていませんでした。満たされるどころか、むしろ恐れに囚われていたのです。自分自身が救われる確信がありませんでした。どれほどまじめに修道者として生活をしても、熱心に学んでも、自分の罪が赦されるとは思えませんでした。絶えず不安がありました。

 しかしルターは、ローマの信徒への手紙のパウロの言葉を再発見しました。「信仰によって義とされる」ということを自身の信仰的確信として発見しました。まじめな修道者としての生活や聖書の学びといった行いではなく、ただ十字架と復活の主イエスを信じる信仰によって救われる、そのことを知ってルターは初めて平安を得ました。救いの確信を得ました。しかし、ルターは神学的にまったく新しいことを言ったわけではありません。「ローマの信徒への手紙」で、そしてまた「ヘブライ人への手紙」で語られている信仰の意味を16世紀に新しく捉えなおしたのです。行いによって正しい者とされる、救われるという誤った当時の考えを、もともと聖書で語られていた原点へと引き戻したのです。

 ニコデモもまた、求めていました。信仰によって義とされ救われるという確信に至るまでのルターのように不安で、救いを求めていたのです。求めていたニコデモは主イエスに呼ばれました。深いところで主イエスの招きを感じ、やってきました。

<新たに生まれる>

そのニコデモに主イエスはおっしゃいます。「はっきり言っておく。人は、新たに生れなければ、神の国を見ることはできない。」

 これは、ニコデモにとって驚天動地なことでした。熱心に聖書を学び、律法を守っていた自分が生まれなおさなければ神の国を見ることができないなどと言われるとは思っていなかったのです。ニコデモは今の自分に何かプラスアルファすれば、救いを得られ、神の国へと入れると思っていたのです。しかしそうではない、もう一度生まれなおしなさい、と主イエスはおっしゃるのです。「年をとった者が、どうして生まれることができるでしょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」ニコデモは生まれ変わるということを肉体的に生まれ変わると感じているようです。このやり取りから分かることは主イエスがおっしゃっていることが、「生まれ変わったように何かをしなさい」とおっしゃっているのではなく、まさにもう一度「生まれる」ことをおっしゃっているということです。生まれ変わったようにまったく違った観点で聖書を読みましょうとか、まったく新しく生き直すように律法を解釈して実行しましょうということではないのです。徹底的に何かをしなさいということではありません。今の自分に何かをプラスしなさいということではないのです。

 聖書を長く読まれている方はここで主イエスがおっしゃっているのは洗礼のことだと理解されているかと思います。続いて主イエスが語られている「だれでも水と霊によって生れなければ、神の国に入ることはできない。」という言葉は、たしかに洗礼のことをおっしゃっているのです。しかし、一方において、現実に、洗礼をお受けになった方が、洗礼で「新しく生まれた!」という感覚をどれほど鮮烈に覚えられたかというと千差万別だと思うのです。私自身、洗礼を受けるとき、洗礼式が近づいたころ、当時の牧師から、「吉浦さんのこの世での命はあと何日ですねー」と何回か言われました。洗礼とはこの世の命にいったん死に、新しく生まれることだと理解していたので、その牧師の言葉はよく分かりました。しかし実際に洗礼の時、頭から水をたらされた、そのとき、現実的に自分が死んだとか新しく生まれたという感覚は持てませんでした。

 じゃあ洗礼はあくまでも形だけの儀式であって、洗礼を受けた人は死にもしなければ新しく生まれもしないのでしょうか?そうではありません。たしかにキリストを信じて信仰告白をして洗礼を受けた者は、新しく生まれたのです。生まれさせていただいたのです。ですから、洗礼を受けた者は洗礼の日を境に変えられてきたはずです。まったく変わっていないなどということはないはずです。変えられているのです。新しくされているのです。

<上から生まれる>

 そうしてもう一つポイントがあります。ここで主イエスが「新しく生まれなければ」とおっしゃっている「新しい」という言葉は、もう一度、とか再びというニュアンスと合わせて、「上から」というニュアンスもあるのです。ここで主イエスがおっしゃっている新しく生まれるということは、当然、もう一度、母の胎内に入ることではないと同時に、まったく違う生まれ方をする、上から生まれるということなのです。上から、つまり神からもう一度生まれさせて頂くということです。

 神から招かれて神のもとに来たら、今度は神にもう一度生まれさせていただくのです。神の招きは一回だけではありません。たとえばこの教会に入ってくるにも、正門側からにせよガレージ側からにせよ、まずブロック塀の内側に入ってきます。そののち、日曜日であれば礼拝堂であり、また平日であれば私が執務している別館へと入ってきます。ブロック塀の内側に入って、そのまま引き返す人もおられます。礼拝堂なり、別館へ一回だけ来て、それっきりの方もおられますし、継続的に来られる方もおられます。それまで教会に来たことのない方にとっては、ブロック塀の内側に入るのも勇気がいることかもしれません。わたしもそうでした。初めて教会に行く時は勇気が要りました。建物の中に入るのは更に勇気がいるでしょう。決断がいるでしょう。そしてまた物理的に建物の中に入るだけではなく、信仰という目に見えない招きの扉を開くのはまた勇気がいることです。決断がいることです。しかし、そのすべての扉は、神によって供えられ、神が開かれるものです。恵みによって供えられるものです。

 ニコデモは主イエスのところに来ました。招きに応えたのです。そしてまた、新しく生まれる、上から生まれるという新たな招きをいま受けています。新しい招きの扉の前にいるのです。恵みの扉の前にいます。上から、まさに上におられる神によって供えられた扉の前に立っています。私たちも上からの恵みによって、新たに生まれました。いまも生かされています。そして折々にまた新しく招きを受けるのです。さらに新しく生かされています。私たちの力ではなく、神の恵みによって、招かれて、上からの力によって生かされています。

<風は思いのままに吹く>

 しかしその恵みの招きの中で主イエスとニコデモの会話はどこまでいっても平行線なのです。ニコデモは「どうして、そのようなことがありえましょうか」と答えています。その会話のなかで「風は思いのままに吹く」という不思議な言葉があります。風はギリシャ語で、息とか霊という意味も持っています。つまり風はここで神の霊を重ねて語られています。神の霊は思いのままに吹くと主イエスはおっしゃっているのです。私たちの常識の中で、たぶんこっちから吹いてあっちに行くだろうと考えられるような形で神の霊の働きはないということなのです。しかし、その霊の働きは風のようになんとなく感じることもできるのです。物理的な風は、木の葉がざわめくのを見たり、実際に肌の感覚で感じたりします。神の働きもそうだと主イエスはおっしゃいます。ニコデモは主イエスに招かれたと言いました。ニコデモは主イエスのなさった業に神の働きを感じたのです。最初の主イエスへのニコデモの言葉は「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」でした。ニコデモは主イエスのなさったしるし、奇跡に神が共におられると感じたのでした。

 まじめな教師であるニコデモが長年培ってきた感覚や常識、宗教的知識を越えて、神は働かれ、その神の霊の働きによってニコデモは主イエスのもとに招かれました。私たちも同様です。私たちも人それぞれさまざまな経緯でありながら、なにか感じるところがあって、神が感じさせてくださって、教会へ来たのです。そこに神の霊の働きがあったのです。神の風が吹いたのです。先週はペンテコステの礼拝でした。2000年前に吹いた神の霊の風は今も吹き続きていました。しかしまた、一方で、人間は、その神の霊の働きを意識的にも無意識的にも押さえようとしてしまうのです。どうしても私はこっちからあっちへ向かいたいと、神の霊の風とは逆の方に歩むときがあります。神の霊の風をさえぎるように歩んでいても、私たちは神の働きを感じることができません。むしろ、その歩みは抵抗の多い、障害の多いものとなります。私たちはその時ニコデモのように「どうして、そんなことがありえましょうか」と神の霊の働きを信じない者になっているのです。エフェソの信徒への手紙に「神の聖霊を悲しませてはいけない」とあります。風は神の霊と申しましたが、一方で聖霊は人格を持ったお方です。聖霊の力は風のように感じるのですが、その存在自体はふわふわしたものではありません。人格をお持ちですから、聖霊は悲しまれることもあるのです。私たちは聖霊を悲しませてはならないのです。

<何度でもやり直せる>

 さて、<新たに生まれる>、つまり<上から生まれる>ということを別の観点で言いますと、それは神の子どもとされるということです。正確に言うと神の子どもとされる権利を得るということですが、神の子どもとされると言っていいでしょう。神から神の子どもとして新しく生まれさせて頂くのです。そしてまた、神の子どもとされた者は何度でもやり直せるのです。洗礼はただ一度ですが、一度、神の子どもと私たちの人生は、日々新しくされるのです。私たちの内に与えられた神の霊によって、新しくされるのです。

 現実の私たちの人生はやり直しの利かないことだらけのように感じます。もちろん、若いころならある程度、やり直しはきくかもしれません。若いスポーツ選手のことがニュースをにぎわせていますが、あの選手は、いろんな形でこれからやり直すことができるでしょうし、ぜひやり直してほしいです。一方で、一般的には歳をとればとるほど、やりなおしはできません。でも、神によって新しく生まれた者は、上から生まれた者は、何度でもやり直すことができます。神の前ではいくつになっても、子供です。聖霊によって愛と力と知恵を日々いただく子供です。肉体的には衰えても、新しく生きていくことができます。

 「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」そう主イエスはおっしゃいます、これは民数記に記されていることをもとに語られています。出エジプトのイスラエルの民が荒れ野で神に逆らいました。神がお怒りになり、炎の蛇を民に送られました。そこで多くの人が死にました。民が悔い改めると、モーセは神にとりなしの祈りをし、青銅の蛇を作り旗竿にかかげました。神から送られた炎の蛇にかまれた者はそのかかげられた青銅の蛇を見上げれば助かりました。主イエスご自身が自分も上げられねばならないというのは、十字架のことです。かつて荒れ野で人々が青銅の蛇を見上げて命を救われたように、わたしたちのためにキリストが十字架に上げられました。その十字架のイエスを見上げる者は救われるのです。永遠の命を得るのです。それは現実の中で行き止まりになる人生ではなく、幾たびもやり直しのできる神の子どもとしての人生です。死では終わらない希望のある日々です。

 


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