大阪東教会礼拝説教ブログ

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ローマの信徒への手紙 5章12~21節

2017-07-14 13:46:49 | ローマの信徒への手紙

2017年7月9日 主日礼拝説教 「新しいアダム」 吉浦玲子牧師

 ローマの信徒への手紙の5章を先週から読んでいます。4章まででパウロは罪、律法、信仰というものを説明していました。ユダヤ人と異邦人、どちらも共に神による救いに入れられるのだと語っていました。人間は信仰によって義とされる、行いではなく信仰によって正しい者とされる、そう語っていました。5章からは信仰によって正しい者とされた私たちはどのように生きていくのかという話になってきています。

 先週お読みした5章の前半では罪によって義とされた私たちは、たとえ苦難の中でも希望を持って生きていくことができるのだということをパウロは語っていました。その5章前半を受けて今日の聖書箇所は「このようなわけで」とはじまります。そこから語られているのはアダムの話です。罪の話です。さんざん律法と罪について語り、ようやくそののち、信仰によって正しいとされ、神と和解をさせていただいたこと、そしてその希望を語ったその直後の「このようなわけで」で、アダムのことが語られている、つまりふたたび罪のこと、罪の起源について語られているのは少しつながりとしてねじれているような不思議な印象があります。実際、学者の間では「このようなわけで」については、さまざまな解釈が考えられているつながり方なのです。

 しかし、今日お読みした箇所で、パウロは最終的に恵みということについて語っています。信仰によって義とされた私たちにとてつもない恵みが与えられた、その恵みの豊かさを説明するために、恵みの反対のことがらとしてアダムと罪についてまず語られていると考えられます。神との和解の話から地続きに恵みへと移っていくその意味での「このようなわけで」というつながりとも言えます。

<罪と死>

 さて創世記3章には、アダムとエバが神から食べてはいけないと言われていた木の実を食べたことが記されています。エデンの園から人間が追放されたという有名な話です。<一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです>とあります。パウロはアダムという一人の人間が罪を犯した、そのときからこの世界に罪が入って来たというのです。でも普通に考えるとそれは強引な話のようにも思えます。私たちの遠い遠い先祖が罪を犯し、そのためにその子孫である私たちも罪を犯すようになったというのは、なにかスッとは理解できない解せない話です。現代の私たちにアダムの罪の遺伝子のようなものが組み込まれているのでしょうか?

 パウロがここで語っているのは遺伝子やDNAに罪が組み込まれているということではなく罪の普遍性ということです。そもそもアダムというのは「土(アダマ)」という言葉から来た「人間」を表す名詞です。特定の人類の祖先の誰それということではなく普遍的な人間の罪の物語が創世記3章には記されています。実際、罪から免れている人間は誰一人としていない、それは納得のできることではないでしょうか。ですから、遠い遠い祖先ではなく、すべての人間がアダムであるともいえるのです。同時に、すべての人間の罪の源にアダムという普遍的な罪人が想定されているともいえます。

 そしてパウロはその罪によって「死」が入り込んできたというのです。ローマの信徒への手紙の少し先の6章に「罪の支払う報酬は死です」という有名な言葉があります。でも、それもよくよく考えると不思議なことではないでしょうか?人間は、皆、死にます。人間だけではなく、命あるものは、やがて死にます。生物として滅びます。その生物学的なことと、罪という宗教的なこと倫理的なことが結びつくというのは、分りにくいことではないでしょうか。善人であれ悪人であれ、人間は、皆、死にます。善人が悲惨な死を遂げることもあれば、悪行の限りを尽くしたような人間がそこそこ平穏な死を迎えることもあります。

 ところで、ヨハネによる福音書の11章にラザロの死と復活の記事があります。ラザロという、イエス様がとても親しくしていた男性が死んでしまった。そのラザロを、すでに墓に葬られて四日もたっていたのですが、イエス様は生き返らせられます。ラザロを生き返らせられる前、11章35節でラザロが葬られていた墓の前でイエス様は涙を流されます。イエス様は父なる神に祈り、ラザロを生き返らせることができる方でした。実際、主イエスはラザロの墓の前にお立ちになったとき、ラザロの生き返りをすでに確信しておられたはずです。しかし、主イエスは墓の前で涙を流された。これは単にラザロの死を悲しんだのではありません。愛するラザロとの別離のために涙を流されたのはありません。死というもの、人間をからめとる死の力に対してイエス様は憤り涙を流されたのです。そしてその死の根源にある人間の罪に対して憤り涙を流されたのです。

 罪は神に背くことです。神の方を向かず自分中心に生きることです。そしてそれは神との関係が断たれることです。神との関係が断たれていなければ、永遠の神と共に人間も永遠の存在であったはずです。しかし、罪によって人間は神との関係を断たれました。永遠の命を失いました。死ぬようになったのです。創世記3章の楽園追放の記事の最後に命の木の実を人間が取らないように楽園が封鎖されるようすが描かれています。これはアダムの罪によって死が入り込んできたことを明確に示しています。

 ところで、3節に「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められない」と語られています。これは律法は罪を測る尺度であるということです。以前、レントゲン写真と言いましたが、律法に照らした時、罪は罪と診断ができるということです。逆に言えば律法が与えられる前から罪は罪であり死をもたらす者であったということです。「アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。」アダムからモーセ、つまり、律法が与えられる前にも人間には罪があり、死を免れなかったということです。

<死ではなく恵み>

 15節からパウロは恵みについて語り始めます。そしてその恵みがアダムではないもう一人の人に結びついていることを語ります。もう一人の人とはイエス・キリストその人です。アダム以来、おびただしい罪があり、死がありました。しかし、たった一人の人、イエス・キリストによって命が与えられました。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」もう一人の人、新しいアダムとも言えるイエス・キリストは罪と死に支配された世界をひっくり返されました。すべては恵みの働きの中へと入れられました。

 「一人の人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」アダムのあやまった行為によって世界に死が入り込んできました。それと対比してイエス・キリストの正しい行為によって命が与えられました。神の恵みは裁きより強く、神の恵みは死をも覆すのです。

 ところで、クリスチャンになってまだ間もない頃、会社の休憩時間に女性の先輩と雑談をしていました。そしてなぜか私がクリスチャンだということに話が及びました。その先輩はとても温和な方で、なんでもにこにこと聞いてくださる方でした。特に宗教的なことに興味を持っておられたわけではないのですが、その時は珍しくなぜ私がクリスチャンになったのかと聞かれました。聞かれたので答えました。すごくかいつまんでいうと「自分がほんとうに汚くてだめな人間だと思ったとき救いが必要だと感じたから」ということです。それを聞いた先輩は、「私も自分が本当にだめで汚い人間だと心から思ったときがある。そしてその時から、すべての宗教に興味を失った。」と答えられたのです。私はその先輩にその時、いやそうではなくてというような反論はしませんでした。できなかったというのが本当のところです。どう答えて言いか考え込んでしまい、うまく答えられませんでした。

 しかし、今なら<恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される>というパウロの言葉を伝えたいと思うのです。<一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです>という言葉を伝えたいと思います。そもそも「すべての宗教に興味を失った」とおっしゃった先輩は具体的に宗教をどうとらえておられたのかは、良くわかりません。しかしなにか、ご自分に絶望するような感覚をもったとき、一般的に考えられる宗教的な儀式や修行などで自分のどうしようもない罪深さというのが取り除かれるわけがないと直感的に感じられたのかなと思います。

 そもそも人間には自分の罪を自分でどうすることもできません。いわゆる「宗教」をもってしてもそれは無理でしょう。それは神の恵みによらなければどうしようもないのです。ただお一人の方によらなければ人間は正しい者とはされません。

 少し話がずれるようですけど、ある神学者は「宗教ではない神の国だ」と語りました。キリストを信じるということは一般的に考えられるような「宗教」ではない、ということです。なんらかの儀式や宗教的行為によって何かを得ていくということではないということです。「宗教ではない神の国だ」という<神の国>というのはキリストによって開かれた神の国の現実を生きるということです。キリストを信じるということは、キリストの恵みに現実にあずかりながら、新しい命に生きるということです。死よりも強い神の恵みと命に生きるということです。どんなに自分が罪深くとも数々の罪を犯していても、ただお一人の方キリストによって、神の前で無罪とされました。そしてもはや死には支配されていません。その喜びのうちに生きるのがキリスト者なのだということです。

 17節「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人が、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」とあります。支配するという言葉はキリストを通して生きる人間がなにかこの世的な支配者になるということではありません。自分自身を支配するということです。そもそも私たちは罪に縛られて生きている時、自由であったでしょうか?パウロの言うところの罪の奴隷ではなかったでしょうか?自分で自由に生きているつもりでも不自由な生き方をしていました。しかし、キリストを通して生きる時、私たちはほんとうの自分を生きることができます。自分を支配することができるようになるのです。

 20節「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪がましたところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」律法は先に述べたように罪を判定するためのものです。律法によって罪はその姿を現すのです。しかし、そのあらわにされた罪のあるところに、恵みが満ちあふれました。罪が増したところに恵みが満ちあふれたというのは不思議な言葉です。この言葉は次の6章にもつながる言葉です。私たちは確かに罪ということにおいてアダムの子孫です。そしてたしかに肉体的にはやがて死を迎えます。しかしもう罪びとである自分に絶望する必要はありません。死に怯える必要はありません。罪が増したところに恵みが満ちあふれたからです。罪に対して余りある恵みがあるからです。とこしえの命が与えられているからです。

 一人の人イエス・キリストによって私たちは死から命へ移されました。永遠の命に写されました。今、壮年婦人会ではヨハネの黙示録を学んでいますが、ヨハネの黙示録22章にはきたるべき天のエルサレムの様子が描かれています。神と共に永遠の命に生きる人間の喜びの姿が描かれています。その天のエルサレムには命の木があるのです。かつて創世記で罪を犯したアダムが追放され、封印された命の木が天のエルサレムに流れる川の両岸にあると黙示録に記されています。一人の人アダムによって入り込んで来た死が、一人の人キリストによって命、永遠の命にかえられたことを象徴しています。

 そして永遠の命というのは未来の遠い話ではありません。もちろん未来の希望はたしかにあります。しかし、いまもその命の希望が与えられているので私たちは日々を喜びをもっていきていくことができるのです。ある先輩の牧師が、重篤な病を得られ痛みが激しい時のことを語られました。信徒さんには、どのような時でも祈りなさい、どうしても祈れない時には主の祈りだけでも祈りなさいと教えながらその牧師自身あまりに肉体的な苦痛が大きい時主の祈りすらこんがらがって祈れなくなったことがあると正直におっしゃっていました。またその先生は数年前まで認知症のおくさまの介護も自宅でされていました。その時期にもなかなかしっかりと祈れないということがあったそうです。しかし、祈ることもできず希望がついえるような苦しみの中にあって、なお決して自分から去ることのない恵みも感じたのだとおっしゃいました。奥様も自分も確かに体は衰えて死に向かっている、しかし、それを越える恵みを感じられたそうです。その恵みはしっかりと祈ったから何か良いことをしたから与えられるのではなく、ただただお一人の方から注がれるものなのだとおっしゃいました。

 私たちはただ一人の方、キリストに信頼しつながっていきます。良き時も悪き時もお一人の方と歩みます。キリストと共に歩むその日々はすでに天のエルサレムである神の国の先取りであり、また神の国へ向かう喜びの日々なのです。


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