2018年2月11日 大阪東教会主日礼拝説教 「共に喜ぶ」吉浦玲子
<同じ思い、同じ心は可能か>
今日の聖書箇所6節でパウロは「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」と語っています。<互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて>神の前にある共同体としてのあり方がここには記されています。<同じ思い>、<心を合わせる>、<声をそろえる>、、、これはなかなか難しいことです。人間の集まりがあってその集まりにおいて同じ思いで心を合わせて声をそろえるということは簡単ではありません。パウロは神の前にある共同体に対してこう語っているのですが、神の前にある共同体であっても、同じ思いで心を合わせてということは現実的にはたいへん難しいことであることを私たちは知っています。
世間ではオリンピックが始まりました。オリンピックなどの大きなスポーツ大会の良いところは、基本的には、皆で応援ができるというところです。皆で応援をするというときの「皆」の範囲が広がります。国内のスポーツ大会であれば、それぞれにひいきのチームや選手がいて、それぞれに応援をしますが、国際大会ともなると、だいたい自分の国の選手を皆で応援することになります。もちろん日本にもいろんな民族の方が住んでおられ、みんながみんな日本人の選手だけを応援するということではありません。そしてまた競技ごとに応援したい選手はあるかと思います。けれど、大きな国際大会であれば、勝利すれば共に喜び、負ければ共に残念に思うときの連帯感が一般的に増します。
そんなオリンピック選手の活躍に対しては同じ思いで心を合わせて応援はできても、神の前にある共同体として、そして神の前の共同体であっても、<同じ思い>で<心を合わせて><声をそろえる>というのはなかなか難しいことです。モーセによって率いられた出エジプトの民は、繰り返し神の奇跡を目の前に見ていたにもかかわらず、いくたびも分裂し、問題を起こしました。かつての紀元前のイスラエル王国最大の王ダビデのもとにありながらも、いくたびも人々は争いました。
<担う信仰>
パウロは今日の聖書箇所冒頭で「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」と語り始めます。<強い者><強くない者>という言い方には、抵抗を感じられる方もあるかと思います。これは原語の意味から言いますと「出来る者」「出来ない者」という言葉になるそうです。なにが出来るのか?それは神を信頼することが出来るということです。神を信じきることができる、神を信じ切る人が出来る人であり、強い人だとパウロは考えているのです。つまり、パウロは「自分たちのように神を信じきることのできる信仰の強い者は、まだそこまで神を信じきることのできない信仰の弱い人の弱さを担うべきだ」と語っているのです。
この強い、強くないという言葉は、一般的に使われるときのニュアンスとはだいぶ違うものです。強いとか出来る、という言葉には能力の高さ、スキルの高さが通常ではイメージされます。しかし、むしろ自分の能力やスキルに頼っている人は弱い人出来ない人なのだということになるのです。このパウロの感覚は信仰者としてたいへん大事なことです。神の共同体において、この感覚が往々にして欠如することがあるからです。この世的な能力やスキルによって、神の共同体での強い強くない、出来る出来ないが判断される場合が往往にあるのです。この世的な出来る出来ない、強い強くない、の尺度が神の共同体においても用いられる時、その共同体は、<神の前の共同体>しての力を決定的に失います。この世的な強さにおいて強いことを大事にする共同体は、一見、ひとときは順風満帆にみえるときもあるかもしれません。しかし、この世の流れと共に、そしてこの世の共同体より早く朽ち果てていく存在となります。
しかしまた逆に、パウロの言葉どおりに強い強くない、が、神への信頼の強さにおいて判断されたとしても、問題は起こります。たとえば、パウロの言うところの神への信頼の<強い>人、神への信仰が<出来る>人が、神への信頼が<弱く>、何でも自分の能力に頼って行おうとする人に対して「あなたは信仰が弱い」と批判するようなことも起こります。これは先立ちます14章などでもパウロが警告していた内容でもあります。
強い人が弱い人を批判するのではなく、神を信頼し、神への信仰が強い人は、むしろ弱い人を担って行くべきだとパウロは語ります。自分の信仰が強いと考え、弱い人を担わないならば、それは信仰がそこでとどまることになります。そこで信仰がとどまるならば、それは自己満足の信仰だというのです。弱い人を担うことのない信仰は、自分の満足を求める信仰だとパウロは考えています。「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」とパウロは続けます。この「向上」という言葉は「建て上げる」というニュアンスがあります。ここで「隣人を喜ばせ」というのは、親切にするとか、気遣いをする、配慮をするというだけではありません。単に自分の好みを押し殺して、他者に仕えて他者を喜ばせるということだけではありません。互いに建て上げられていく存在として交わるということです。
それは健全な人間関係を想像してみるとき、ある程度、理解できることではないでしょうか?たとえば子供を喜ばせたいと親が思ったとしても、子供の成長にとって良くないことは親は通常はしないと思います。もちろん、甘やかしすぎな親もいないわけではないですが。十分かどうかは親それぞれとしても、基本的には親は子供が心身ともに健やかに成長するように、つまり建て上げられていくように子供を担って行くものではないでしょうか。またそのことを通じて親自身も成長していくのではないでしょうか。
<忍耐の源>
私たちは神にある共同体にあって、そのように隣人を担いながら生きていくのだとパウロは語っています。しかし共同体の中には、さまざまな人がいます。年齢も出自も趣味も考えも異なる人々がいます。かわいい子供や、自分の気の合う人なら担うことはそれほどむずかしくはないかもしれません。しかし現実には、そうでない場合も多くあります。ですから、そこには「忍耐」が必要となります。「キリストもご自分の満足はお求めになりませんでした。」とパウロは語ります。キリストは、弟子たちを、そしてまた私たち一人一人を愛して愛し抜かれ、忍耐に忍耐を重ねられ、十字架の死まで歩んでいかれました。私たち一人一人を建て上げてくださるために、ご自分の満足を求めることなく、私たちを担ってくださいました。
私たちは思うのです。キリストはたしかに忍耐してくださった。私たちの弱さとどうしようもないところを忍耐してくださいました。水曜日から受難節が始まりますが、キリストの御受難を覚える時、私たちはほんとうに感謝であると思うのです。しかし、一方で、私たちはキリストではありません。弱い人間です。ですから、キリストのようには忍耐することができない、とも考えます。もちろんその通りです。私たちはキリストのように忍耐することはできません。どうしても自分の満足を求めてしまうものです。
この世界で、そして日々にさまざまなことがあります。ですから、どうにかほっとしたい、平安を得たい、そう思います。もちろん、隣人と担いあうことも大事だといわれるともっともなことだと思います。しかし、担いなさい、忍耐しなさいとばかり言われると、しんどくもなるのです。
たしかにそうなのです。忍耐はしんどいのです。私たちは忍耐の源が自分の中にあると思っていたら、とても疲れてしまうのです。自分の力では、到底、忍耐などできないのです。本来、人間は、自分の満足を求めずに隣人の満足を求めては生きていけないのです。仮にひとときはできたとしても結局は燃え尽きてしまうのです。パウロは4節で「わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」と語っています。そしてまた「忍耐と慰めの源である神」とも語っています。旧約聖書の時代から、長い長い時代を貫いて神は忍耐の神でありました。アブラハムの時代から繰り返し反逆する民に忍耐に忍耐を重ね、担ってくださいました。ただ担ってくださっただけではありません。慰めをも与えてくださいました。
<慰めの源なる神>
神は自らの罪のために傷つき、力尽きそうな人間に慰めを与えてくださいました。この慰めという言葉は、日本語でのニュアンスとは違いまして、本来、強い言葉です。英語でコンフォートと言いますが、これは「力を与える」という意味があります。人間は神の慰めによって深いところから力を与えられるのです。神は力尽きて倒れた人間を担われるだけではありません。力を与え、みずから立ちあがらせてくださる神です。旧約聖書のイザヤ書の40章には「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる」とあります。これはまさに慰め主である主イエス・キリスト到来の預言の言葉でした。「エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ」イザヤの言葉は神への罪のゆえに国が亡び闇の中にいた人々へと響きます。まさに聖書に語られている忍耐と慰めの源である神からの希望の言葉です。人間の闇の中に輝いた慰めの言葉であり、倒れていた人間を立ち上がらせる言葉でした。その希望の言葉はキリスト到来において成就しました。キリストは倒れていた者を立ちあがらせる慰め主でした。
主イエスはそのご生涯において多くの奇跡をなされました。多くの人々を力づけ立ち上がらせてくださいました。たとえばマルコによる福音書5章に会堂長ヤイロの娘が癒される話が記されています。福音書によるとこの娘は主イエスが会堂長の家についた時すでに死んでいたとあります。しかし、主イエスはかまわずに会堂長の家の中に入っていきます。それを見た人々は主イエスの行動を馬鹿げたことと思ってあざ笑います。しかし、主イエスは少女の手を取っておっしゃるのです。「タリタ、クム」。これは「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。」という意味のアラム語です。主イエスの時代、イスラエルの人々は旧約聖書時代のヘブライ語ではなくヘブライ語によく似た原語であるアラム語をしゃべっていたのではないかという説が有力です。実際、聖書の中には、イエス様ご自身の言葉としてアラム語が記されている箇所が何か所かあります。その一つがこの「少女よ起きなさい」の「タリタ、クム」という言葉です。「タリタ・クム」、まさに主イエスのその言葉で、少女はすぐに起き上がります。主イエスはただ娘を亡くして嘆いていた人々を言葉で慰められただけではありません。少女の手をとって「タリタ、クム」そういって立ち上がらせてくださったのです。ヨハネによる福音書5章ではベトサダの池のほとりで38年間病の中にいた人に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と主イエスはおっしゃったという記事があります。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した」とあります。
それらは単なる大昔の奇跡物語ではありません。旧約聖書から新約聖書全体を貫く神の人間への忍耐と慰めの現実を現す出来事でした。「タリタ、クム」という主イエスの言葉は今日においても、倒れている人を立ち上がらせるのです。力尽きてうずくまる人をふたたびその足で歩ませてくださいます。「タリタ、クム」「起き上がりなさい」主イエスの言葉は、弱い慰めではなく力ある言葉として、いえ力そのものとして、私たちを立ちあがらせてくださいます。
私たちは罪に死んでいました。しかし、十字架と復活の主から「タリタ、クム」という言葉を与えられ起こしていただきました。命の中へと起こしていただきました。忍耐と慰めの源である神に私たちは力を与えられ立ち上がらせていただきました。まさに「タリタ、クム」という主イエスの言葉によって立たせていただいた私たちであるゆえに「同じ思い」をいだかせていただき、「心を合わせ」「声をそろえて」互いを担い合うことができます。本来は忍耐などはできない私たちが「タリタ、クム」という主イエスの言葉によってたちあがらせていただいたゆえに互いに担い合うことができます。
7節以降、パウロは再びユダヤ人と異邦人について語ります。当時、もっとも互いに担い合えない存在であったユダヤ人と異邦人、その双方にパウロは語りかけます。キリストはユダヤ人としてお生まれになりました。ユダヤ人に仕えられました。しかしまた同時に異邦人の希望の源でもありました。「エッサイの根から芽から現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。(イザヤ11:10)」<エッサイの根より>という美しいクリスマスの讃美歌がありますが、キリストはユダヤ人にも異邦人にも希望の源となってくださいました。切り倒されて死んだかのようだったエッサイの切り株の根から主イエスご自身がこの世界に命をもって来られました。そして「タリタ、クム」と私たち立ちにおっしゃいました。このキリストの言葉のゆえに、力のゆえに、私たちは立ち上がり、互いに担い合います。そのとき、単なる情感的な共感や熱狂ではなく、まことに神の前にあって私たちは一つの心となります。
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