大阪東教会礼拝説教ブログ

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使徒言行録

2020-05-24 09:49:31 | 使徒言行録

2020年5月24日大阪東教会主日礼拝説教「希望を持って待つ」吉浦玲子

【聖書】(聖書協会共同訳)

 それから、使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の階に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子のユダであった。 彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。 
 その頃、百二十人ほどのきょうだいたちが集まっていたが、ペトロはその中に立って言った。「きょうだいたち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。 ユダは私たちの仲間の一人であり、同じ務めを割り当てられていました。 ところで、この男は不正を働いて得た報酬で土地を手に入れたのですが、そこに真っ逆様に落ちて、体が真っ二つに裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。 
詩編にはこう書いてあります。/『彼の住まいは荒れ果て/そこに住む者はいなくなりますように。』また、/『その職は、他人が取り上げるがよい。』 
ですから、主イエスが私たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼(バプテスマ)のときから始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者のうちの誰か一人が、私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」 
そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストとも言うヨセフと、マティアの二人を立てて、 次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうち、どちらを選ばれたかをお示しください。 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、この務めと使徒職を継がせるためです。」 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒たちに加えられた。

【説教】

<待つ時>

今、新型コロナ肺炎の影響で、さまざまなイベントが中止になっています。私の知り合いのお子さんで何人かこの春、高校に入学された方がおられますが、その方たちは入学式もなく、せっかく入学した学校の制服を着ることもまだないそうです。そのような事態ですから、高校野球を始め、子供たちや青少年のためのさまざまなスポーツの大会も中止になっています。スポーツだけではありません。合唱コンクールとか、文科系のさまざまな大会や行事も中止になっています。大人にとっても、そのために時間をかけて準備していたような行事が中止になるというのはたいへんな痛手ですが、学生時代という、その時しかない限られた時間の中で目指していたさまざまなことが中止になるというのは、とてつもなく大きなことでしょう。これからの人生が大きく変わってしまう、そんな子供たちも少なからずいるでしょう。

 目指していた目標が取り上げられてしまう状況、あるいは目標が定まらない中途半端な状況のなかで、人間は自分を見失ってしまいます。試練や逆境の時であれば、むしろまだがんばれるかもしれません。しかし、がんばろうにも動きようのない時、私たちは呆然として立ちすくんでしまいます。そのとき、人間の絶望は深いのです。

 さて、主イエスの弟子たちは、主イエスの十字架と復活という大きな出来事、たいへんな神の奇跡を目の当たりにしたのち、主イエスが天に昇られ、主イエスと離れ離れになりました。これまで導いてくださった主イエスは弟子たちと共にもはやおられません。弟子たちはどうしていいのかわかりません。一方で、彼らは主イエスがやがて与えられるとおっしゃっていた聖霊をまだ受けていませんでした。主イエスと共に宣教をしたり学ぶこともできず、かといって、宣教を始めるために必要な聖霊はまだ与えられていない、中途半端な状況に置かれていました。

 そのような中途半端な状態にあった弟子たちは、エルサレムにいました。40日ほど前、つまり一カ月と少し前に主イエスの十字架の出来事があったエルサレムです。過越の祭りの異様な高揚の中、「十字架につけろ」という恐ろしい熱狂に支配されていた、あのエルサレムに、弟子たちは戻ってきたのです。復活のイエス・キリストと出会う前は、自分たちも逮捕されるのではないかと恐れて、鍵をかけて、息をひそめるようにしていた弟子たちでした。しかし、今日の聖書箇所を読む限り、主イエスの十字架の直後のような怯えた弟子たちの姿はありません。身の危険という点では、依然として、エルサレムはけっして安全とはいえません。過越し祭のときのような高揚は去って町は平静に戻っているにせよ、主イエスを憎んでいた祭司長たちをはじめ権力者たちはまだ目を光らせています。そのエルサレムで弟子たちは祈りの日々を送っていました。それは、主イエスが「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」とおっしゃっていたからです。

 主イエスが昇天され、聖霊が降るまで9日の日々がありました。昇天されて、その翌日にも聖霊が降れば良かったかもしれません。しかし、神は敢えて9日という間を置かれました。それは弟子たちにとって必要な時間だったのです。私たちにとって、中途半端な、目標が定まらないような時間、あるいは目標が取り上げられているような時間もまた、神から与えられた必要な時間であるのです。

<祈りつつ待つ>

 その時間の中で、彼らはただぼんやりと待っていたわけではありません。彼らは、なすべきことをなして待っていたのです。まず第一に彼らは祈っていました。主イエスを裏切ったイスカリオテのユダを除く11人の中心となる弟子たちと、それ以外の弟子たち、総勢120名ばかりが「心を合わせて<熱心に>祈っていた」のです。新しい共同訳では「心を合わせて<ひたすら>祈っていた」と訳されています。熱心にとかひたすらと訳されている言葉のもととなるギリシャ語には<揺るぎなく行う>、<確固として行う>、<専心専念する>というニュアンスがあります。つまり彼らは心を合わせ、心を乱すことなく、もっぱら祈っていたということです。

 弟子たちが置かれていたのは中途半端な状況だったと申し上げましたが、だからといって彼らは不安に押しつぶされそうになっていたのではありません。彼らは不安で不安で神に祈っていたのではありません。神に期待して祈っていたのです。現実的には、彼らは無力でした。エルサレムという都で、たかだか120人が集まったからといって何ができるというわけではありません。実際、40日ほど前、主イエスも、ユダヤ人たちに殺されてしまったのです。ローマの植民地であったイスラエルでありながら、祭司長たちに扇動され、熱狂した群衆はローマの総督すら動かして主イエスを十字架につけたのです。それを目の当たりにした弟子たちは自分たちの無力さをいやというほど知っていたはずです。何より、主イエスを置いて逃げてしまった自分たちの弱さを彼らは良く良くわかっていました。だから、彼らは祈りました。自分たちの無力さを知っているからこそ祈ったのです。しかし、それは絶望の祈りではなく、希望の祈りでした。無力な者の気休めではなく、神への期待の祈りでした。自分たちがどれほど無力で罪深い者であろうとも、神は必ず働いてくださる、そして神は自分たちを用いてくださるという神への期待が彼らを祈りへと向かわせました。主イエスが昇天前に「あなたがたはわたしの証人となる」そうおっしゃった言葉ゆえに彼らは祈りました。

そもそも、自分に期待をしている人は祈りません。自分を信じている人に祈りは不要です。そういう人にとって、祈りなど弱者のたわごとに思えるでしょう。しかし、自分に期待し、自分を信じて生きていく人は必ず挫折をするのです。そこで、目標を見失い絶望するのです。一方で、神に期待し、神を信じる人の祈りは聞かれます。神の未来に希望を持って祈るとき、たしかに未来は開けるのです。

<神のビジョンのなかにある私たち>

 さて、弟子たちは、祈っている中で、一つのやるべきことが示されました。それは、主イエスを裏切り、自殺をしてしまったイスカリオテのユダの代わりの使徒を選ぶことでした。これは、弟子たちにとって、ある意味、辛いことであったと思われます。ユダは主だった弟子のひとりでした。福音書を読むと、ユダは共同体の財布を預かっていたことがわかります。会計、財務という重要な役目を担っていた、有能で信頼されていた弟子でした。その弟子が裏切り、死んでしまいました。ユダはかつて皆の仲間であって、寝食を共にしていたのです。ある意味、家族よりも近い、運命共同体として歩んできた仲間であったユダの裏切りに、弟子たちは驚き深く傷ついたと思います。これは共同体における負の出来事でした。できれば、触れたくないことでした、しかし、彼らはそこから目をそらしませんでした。目をそらさず、ユダを個人的に糾弾するのではなく、正しくこの出来事を神の御心として解釈したのです。ここで、詩編69編からの言葉が引用されていますが、弟子たちは、ユダの裏切りと不幸な自殺の経緯をかつての預言の成就として考えたのです。

 私たちも、このような振り返りをすることは大事です。あのことは運が悪かった、あの人が間違っていたせいだ、あれはラッキーだったというような表面的な判断で物事を終わらせてはいけないのです。状況の奥にある神の働きを思わねばなりません。もちろんそれは、すぐには分からないことかもしれません。何年か経ったあと、ああ、あの出来事の中に、神はこのような計画をもって、恵みを注いでくださっていたのだなあと分かることもあります。その時には、不運だった不幸だったあの人が悪かったと思っていた出来事が、時がたったとき、まったく違った視点で見えてくることがあります。神の光に照らされて見えてくることがあります。

 新しい神の視点で物事が見えてくるとき、未来のビジョンも見えてきます。弟子たちには神が描かれている将来の宣教のビジョンが見えてきたのです。もともと使徒たちは12名でした。これはイスラエルの12部族に通じる12です。神の祝福される完全な数字です。イスカリオテのユダが死んでしまい、今は11名となった使徒を12名にしようと彼らは考えました。それは数字として切りが良いから、とか、役割分担的にあと一人いた方がいいからということではなく、神の祝福の完全な姿を彼らは思い描いたのです。いまはたかだか120名しかいない共同体がやがて祝福されて成長していく、その姿を彼らは思い描いたのです。神の完全な祝福の姿がこの地上に現れるビジョンを与えられました。ですから彼らはその来るべき未来へ向けての備えをしたのです。ひたすらに祈るとき、神のビジョンが与えられ、具体的な為すべきことが与えられるのです。

<御心の意外性>

 選挙は二人の人が候補に立てられ、最終的にはくじで決められました。くじで選ばれるなんて、いい加減なような気がします。もちろん今日においては、このような選挙のあり方は一般的ではありません。しかしこの時も、けっしていい加減にくじ引きをしたわけではありません。主イエスがこの地上で宣教されていた最初から、昇天の時まで一緒にいた弟子という条件のもとに二人の人が立てられました。ここで興味深いのは「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフ」と、ヨセフという人には説明があるのに対して、マティアという人は名前しかあげられていません。おそらく、弟子たちの中で、目立っていたのはヨセフという人の方であったのでしょう。マティアは地味で目立たない人であったのではないかと推測されます。きっと人々の思いとしてはヨセフを使徒とすることで一致していたのではないでしょうか。しかし、弟子たちは最終判断は神にゆだねました。そこでくじという形にしたのです。弟子たちが祈ってくじを引くと、マティアが選出されました。人々はその結果にどよめいたかもしれません。神の御心は人間の考えとは違うということが示されたのです。祈りのうちにビジョンが与えられ、また祈りのうちに神の御心は具体的に進んでいくのです。

<わたしたちは力を受ける>

 さて、次週はペンテコステ、聖霊の降臨をお祝いする祝祭です。教会でクリスマスや復活祭と共に大事にしている三大祝祭の一つです。しかし、クリスマスや復活祭に比べますと、少し影の薄い祝祭でもあります。三位一体の神というとき、父なる神、子なる神はなんとなくイメージできても聖霊なる神はイメージしにくいということがあります。しかし、聖霊なる神がおられなければ、私たちはイエス・キリストを理解することができません。イエス・キリストを理解できなければ、父なる神をも私たちは知ることはできません。聖霊なる神は、私たちの信仰の入口に立っておられる神です。聖霊なる神なくして信仰はありません。その聖霊を受けるために弟子たちは祈り、そしてまた将来に向けて具体的な備えをしました。弟子たちがまことの信仰を与えられたのはペンテコステの後でした。弟子たちは聖霊によって主イエスの十字架と復活の出来事の意味をはっきり分かったのです。今日の聖書箇所の時点では、弟子たちはまだキリストによる救いの根本のところは分かっていなかったといえます。しかし、神は不完全な信仰者の祈りに応えてくださるおかたです。

 そもそも、弟子たちも、私たちも、聖霊を受けたからといって、すぐに完ぺきな信仰者になるわけではありません。私たちはいつも不完全な信仰者として聖霊を祈り求めます。聖霊を祈り求め続けるのです。今日の聖書箇所でリーダーとして力強く人々を引っ張っているペトロにしても、聖霊を与えられた後も、失敗をして、後輩のパウロに叱責されたりします。ペトロのみならず私たちはどこまでいっても完ぺきな者ではありません。愚かで弱い者です。ですから神に祈ります。聖霊降臨の前の9日間の弟子たちのように私たちは祈り続けます。無力であるゆえ、不完全なものであるゆえ、そして罪深い者であるゆえ、祈り続けます。そこに聖霊は与えられます。しかし、聖霊なる神を軽んじている時、与えられたはずの聖霊の力は発揮されません。私たちが、神に期待することをしなくなり、自分に期待しているとき、祈りの力は弱まります。祈りの力が弱まるところに聖霊の働きはありません。聖霊の働きのない信仰生活はありません。そして聖霊の働かない教会もありません。聖霊が働かない教会は教会という名前であっても神のまことの教会ではありません。個人も教会も祈りによって立っていきます。神に期待し祈り続けるところに聖霊は豊かに力を発揮します。そこに未来に続く豊かなビジョンが与えられます。さらなる神への期待のうちに私たちは力が与えられます。主イエスはおっしゃいました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」そうです、私たちは聖霊によって力を受けるのです。そのとき、今がどのようなときであっても、どのような状況であっても未来への希望が与えられ、けっして揺るがないのです。



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