大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録1章1~11節

2020-05-17 08:44:55 | 使徒言行録

2020年5月17日大阪東教会主日礼拝説教「ふたたび出会うために」吉浦玲子

【聖書】

テオフィロ様、私は先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指示を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。 イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

そして、食事を共にしているとき、彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受けるからである。」

さて、使徒たちは集まっていたとき、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 イエスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」 こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。イエスが昇って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い衣を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。」

【説教】

<主人公は誰か?>

 今日から使徒言行録を共に読んでいきたいと思っています。この使徒言行録は、福音書からの続編といえるものです。最初のところに「先に第一巻を著して」とあります。この第一巻とは「ルカによる福音書」を指します。使徒言行録は「ルカによる福音書」と同一の著者によって記されていると考えられていまして、この使徒言行録は、「ルカによる福音書」を第一巻とする全二巻からなる書物の第二巻目といえます。

 第一巻である福音書は、主イエスの誕生から宣教活動、ご受難、復活の出来事が記されていました。当然ながら、イエス様が、お語りになったこと、なさったことが中心に記されています。先日まで読んでいました「ヨハネによる福音書」もまた同様でした。

 しかしこの二巻目にあたる使徒言行録は、その1章の前半にのみ主イエスは出て来られ、そののちは直接には出て来られません。おおまかにいいまして、使徒言行録の前半はペトロを中心とした誕生したばかりの教会の働きが描かれ、後半は教会がイスラエル・ユダヤという枠を越えて広がっていく状況の中で、パウロを中心にした働きが描かれています。では、使徒言行録の主人公は、ペトロなのか?あるいはパウロなのか?それとも教会という組織なのか?いろいろと考えられますけれど、しかしやはりこの使徒言行録は<神の物語>なのです。使徒言行録ではペテロが逮捕されたり、ステファノが死刑になったり、暴動のような事件が起こったりします。使徒たちの勇気ある行動、信徒たちの熱心な様子が描かれます。しかし、その真ん中で働いておられるのは神なのです。そして、特に聖霊なる神が働いていておられます。使徒言行録は聖霊言行録だとおっしゃる先生もおられます。つまり使徒言行録の主人公は聖霊と言って良いでしょう。私たちは、そのことを覚えながらこの使徒言行録を読み進んでいきたいと思います。

<私たちの旅>

さて、この使徒言行録では、ペトロが、パウロが、またマルコやルカが、宣教の旅に出て行きます。当時は、パレスチナ地方のなんだか怪しげな新興宗教の布教者と思われていた彼らが聖霊の導きによって大胆に町々を旅していきます。一方で、私たちは今、新型コロナ肺炎の感染予防のために、旅に出ることは基本的にできません。行きたいところに行けない、やりたいことができない、ストレスのたまる、閉塞的な状況に置かれています。それに対して使徒言行録の中の人々は、あちこちに行っている、もちろん遊びに行っているわけではありません。そして迫害などで苦労することも多いのですが、少なくともひとつところに縛られていないという点において、今の私たちの置かれている状況からは、一見、羨ましくも思えます。

 しかし、思い出していただきたいのです。先日まで読んでいました「ヨハネによる福音書」の最後21章で主イエスがペトロに語られた言葉に「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」がありました。実際、使徒言行録のなかで主イエスの弟子たちは、旅から旅ではありましたが、いつも行きたいところへ行ったわけではないのです。行きたかったけれど行けなかったということもあります。伝道のために良かれと思って計画していたところとはまったく違うところに聖霊によって行かされてしまったということもあります。使徒言行録の最後の部分ではパウロがローマに行く話があります。パウロはもともとローマに行きたかったのです、そしてたしかにローマに行きますが、それは囚人として護送されるという形で行くことになります。ペトロに<他の人に帯を締められ>と主イエスは語られました、つまり自分の自由な意思ではなく連れて行かれることもあるとおっしゃった、そのことがパウロにも起こったのです。まさに人に帯を締められ、ローマにパウロは不本意な形で行くことになります。しかしそれらすべてのことが聖霊による導きでした。

 こじ付けめいて聞こえるかもしれませんが、自由に行けることだけが聖霊に導かれる旅ではないのです。聖霊に導かれる旅は、思いがけず、「行くな」とストップされることもある旅です。なぜ止められるのか、その時は、皆目見当がつかない、そういうこともあるのです。あるいは不本意な形でいかされる旅もあります。いま、私たちは自粛を余儀なくされています、ステイホームと言われています、しかし、それもまた、聖霊による旅の途上のできごとなのです。使徒言行録を読むことによって、そういった今現在私たちが置かれている旅の状況を知ることもできます。聖霊が2020年の今、私たちに何を語ろうとなさっているのかを知ることができのです。2000年前の物語の中に吹いていた聖霊の風が、今私たちの上にもやはり吹いています。その風はどこから来てどこへ行くか、すぐに具体的にはわからないかもしれません。しかし、その風が揺らす木々の音は聞くことができます。たしかに聖霊の風は吹いている、そしてはっきりとはわからなくても、注意をして心をすませているとだんだんと風の行方も感じられてきます。私たちは今置かれている場所で聖霊の働きを知らされるます。使徒言行録の時代に吹いた聖霊の風の物語を聞くとき、今この時を生きる私たちの旅の行方をも聞くことができます。

<私たちの見るべきもの>

 さて少し長く、使徒言行録に入る前にお話ししました。その使徒言行録の最初は主イエスの昇天の場面となります。主イエスは天に昇って行かれました。主イエスは死なれたわけではありません。その肉体はそのままに父なる神のもとに昇られたのです。使徒信条で「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と私たちが告白していますように今、主イエスは父なる神の右におられます。

 十字架の悲惨な死から復活され、復活の主イエスと出会った弟子たちは喜びました。復活から40日にわたって、いくたびも、弟子たちは、主イエスとあいまみえることができたのです。しかし、ふたたび、別れは来ました。それが今日の場面でした。主イエスはその直前まで語っておられました。「さてこれから私は天に昇るよ」というような事前の予告はなく、話し終えると唐突に登って行かれました。弟子たちは驚いたことでしょう。「ヨハネによる福音書」で復活なさった主イエスがマグダラのマリアに自分がこれから父のもとに昇っていくということは語っておられました。今日の場面にいた弟子たちもそのことは分かっていて、その心づもりはしていたかもしれません。しかしそうであったとしても、別れは唐突でした。別れというのはいつも唐突なのです。

 彼らは呆然として、あるいは名残惜しく、天を見上げていました。主イエスの姿はもうとっくに見えなくなっていたその空を見上げていました。その彼らに白い服を来た二人の人、天のみ使いが語りかけます。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれたのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

 ここでは主イエスがふたたび来られること、つまり、再臨について語られています。たいへん重要なことが語られているのです。主イエスが天に昇られて、弟子たちは主イエスと別れました。しかし、それで終わりではないということが語られています。主イエスは再び来られるのです。主イエスの再臨を待ちながら、弟子たちはまた新しい時代を歩み出すのです。それは地上の歩みです。この世界での日常の歩みです。翻って、私たちは失ったものを悲しんで、その失ったものを見つめ続けることがあります。弟子たちが天を見つめていたように。しかし私たちは失ったもののところにとどまるのではなく、漠然と天を見つめるのではなく、この地上を歩むのです。

<キリストの証人として>

 しかしまた私たちは、キリストがふたたび来られるそのときまで、キリスト不在の地上を、寂しく、心もとなく歩むのではありません。むしろ、キリストが天に昇られた出来事は、天と私たちの間が固く結びつけられた出来事なのです。キリストが昇天なさるまで、父なる神がおられる天は、たしかに私たちからは遠いところでした。しかし今やキリストがおられます。しかも、そのキリストは私たちと無関係におられるのではありません。教会のかしらとしておられます。教会はキリストを頭とするキリストの体と言われますが、まさに、キリストによって、天と地がつながれたところに立つのが教会です。私たちは地上にありながら天につながれ、キリストにつながれているのです。

また、ある方は、キリストが天に昇られたということは、天が私たちに近づいて来た出来事であるとおっしゃいました。遠くにあった天が、キリストによって私たちに近づいて来た、そしてそれは教会において近づいて来たのです。そしてさらにふたたびキリストが来られる時、天はさらに地上に近づきます。黙示録に描かれているように天のエルサレムが降りてくるのです。やがて天と地は一つになるのです。

 そして、キリストの昇天ののち天が近づいて来たと言っても、私たちは、先ほども申し上げましたように、天だけを見上げて生きるのではありません。私たちはすでに天と結ばれているのですから、安心して、この地上を生きていくのです。神が天と地を一つになさるその時まで、キリストがふたたび来られる時まで、神がご覧になっておられるのはこの地上なのです。今現在、神が目的とされているのは地上なのです。

その地上で私たちはなすべきことをなしていくのです。この地上でなすべきことは何かというと、それは召天の直前に主イエスがお語りになっていた言葉の中にあります。それはキリストの証人となることです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」そうキリストはおっしゃいました。

 キリスト者となり、天に結ばれて歩む者は、おのずとキリストの証人とされるのです。このキリストの地上での最後の言葉は、「証人になりなさい」とおっしゃっているのではないのです。キリストを信じる者には聖霊が与えられ、聖霊が与えられた人は<証人とされる>のです。さきほど私たちはなすべきことをなすと申し上げましたが、私たちは<証人とされる>のですから、<なす>ための力、つまりキリストを証言する力は、神から与えられるのです。こののち、たしかに弟子たちに聖霊が降り、彼らはキリストを証しする者とされました。そしてなすべきことが与えられ、なしとげるための力も与えられました。

 ここで、ただなしとげるための力というと少し堅苦しい言い方になるかもしれません。私たちは懐かしい人の思い出を語るように、あるいは愛していた人のさまざまな良いところを語るようにキリストのことを語るのです。無理して語るのではありません。自然と語りたくなって語るのです。もちろん、言葉にしないときもあるかもしれません。でもキリストを愛して生きていくとき、聖霊によって私たちは少しずつ変えられていきます。

私たちは親しかった人、とても影響を受けた人、尊敬していた人と気がつくと同じ言葉をしゃべっていたり、行いや考えが似てきたりするようなことがあります。それと同じように、私たちは知らず知らずのうちに、キリストに似た者とされていきます。それはきよらかな立派な人になるということではなく、ごく普通に生きながら、もともとの個性はそのままに、むしろ短所もありながら、どこかでキリストを感じさせるような人になっていくということです。

 私たちもこの地上を天に結ばれながら、キリストのことを語り、キリストに似た者と変えられながら生きていきます。そして私たちは、ふたたび愛するイエス・キリストと出会います。その再会の時までを、キリストの証人としてのこの地上の旅します。良き時も悪き時も、自由に歩き回れる時も、また忍耐して一つ所にとどまるときも、すべてが聖霊に導かれた祝福の旅なのです。この週もその豊かな旅が始まります。

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿