大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書第7章25~31節

2023-12-05 14:36:39 | ヨハネによる福音書

2023年12月3日 大阪東教会主日礼拝説教「救い主は誰」吉浦玲子
<メシアを待つ>
 待降節、アドベントが始まりました。このアドベントに私たちは待ち望みます。キリストの到来を待ち望みます。キリストは2000年前に一度、この世界に来られました。それがクリスマスの出来事でした。そのときから世界が変わりました。罪の闇に覆われていた世界が変わったのです。光が地上にやってきたのです。その光は私たち一人一人の心にも注がれました。心だけではありません。現実の日々の生活にも光は射し込んできたのです。
 しかしまだ完全な光ではありません。この世界には戦争があり、罪の闇が満ちています。私たちの日々にも暗澹とした苦難があります。しかしそのまだ残っている闇を打ち払うためにキリストはふたたび来られます。そのキリストの到来を私たちは今、待っています。
 キリストはヘブライ語でいいますと、メシアです。油注がれたものです。旧約聖書の時代、祭司や王や預言者といった特別に神に選ばれた人々に、実際、その頭に油を注ぐ儀式をしたのです。神から特別に選ばれた者が、油注がれた者、メシアでした。やがてそのメシアという言葉は救い主として、人々が待ち望む存在となりました。イスラエルを救い、民を救う救い主、そのようなメシアを人々は待っていたのです。十年、二十年ではありません。何百年も待っていたのです。それほどにイスラエルの人々は虐げられ、苦難にあえいでいたのです。
 旧約聖書の時代から待望されていたメシアは、その数百年ののちの新約聖書の時代にも待たれていました。イエス様がお越しになったのは、そんな世界でした。イスラエルはローマ帝国の植民地となっており、民族の尊厳は奪われていました。貧しい庶民の一人一人までもがローマへの税を払わねばなりませんでした。戦争こそはないもののローマ帝国の圧倒的な力によって制圧されている不公平で不条理な世界でした。それはパックスロマーナ、つまり「ローマによる平和」と言われる平和があった時代でした。しかし、そこには人々が安らげる本当の平和はありませんでした。
 2000年前、地上に来られた主イエスを見た、当時のイスラエルの人々はその力ある言葉に驚き、奇跡の業に驚きました。しかし、その主イエスが一体何者なのか、それははっきりとは分からなかったのです。その主イエスと一番近くにいた弟子たちすら分かっていませんでした。
<主イエスを殺そうとしていた人々>
 主イエスはたしかに力強い言葉を語り、素晴らしい業をなされました。そんな主イエスを人々はもてはやしました。しかし一方で、そんな主イエスを疎ましく思う人々もいました。その主イエスを疎ましく思う人々には、不思議なことに、宗教家と言われる人々も含んでいました。神に仕える祭司や、聖書を教える律法学者たちが主イエスを疎ましく思っていました。疎ましく思っているだけではなく、殺そうとすら考えていたのです。実際、今日の聖書箇所にこのような言葉があります。「さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。」」この時、主イエスは秋の祭りである仮庵祭期間中のエルサレムに来られていました。祭司や律法学者といった権力者たちはその祭りのさなか、主イエスをとらえて殺そうと狙っていました。そのことを人々も知っていたのです。しかし、主イエスは権力者から隠れるのではなく、エルサレムの人々の前で語られました。なので、人々は驚いたのです。命を狙われている主イエスが公然と話していたからです。「あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。」主イエスが公然と話をされているので、人々は実はすでに議員、つまりエルサレムの議会は主イエスをメシアと認定したのではないかとも考えたのです。
<主イエスの出自>
 しかしまた、このようにも人々は言うのです。「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
 神に選ばれた救い主メシアは、まさに天から来られたような神秘的な方であるはずだと人々は考えていたのです。しかし実際のところは、旧約聖書には救い主はベツレヘムでお生まれになると預言されて書かれているのですが、人々の気持ちとしてはどこか特定の地域の出身ではなく、謎めいた出自のメシアであってほしいのです。しかも主イエスのご出身は、ガリラヤのナザレという僻地でした。そんなど田舎の、いかにも冴えないところの出身の人間がメシアだなどとは信じたくないのです。さらにいえば、主イエスはヨセフという大工の息子でもありました。立派な学者について学問をなさったのでもありません。今日の聖書箇所の前のところで「この人は学問をしたわけでもないのに」という人々の言葉があります。当時、聖書は立派な学者について学ぶものでした。でも主イエスはそうではありあませんでした。現代で言うところの難関有名大学を出たエリートでもなかった。人々はそういう経歴にも不満があったと考えらます。
 それに対して主イエスご自身が答えられます。それも大声でお答えになります。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。」
 主イエスは自分をお遣わしになった方、つまり父なる神によって、遣わされたのであって、自分勝手に来たのではないとおっしゃっています。つまり神によって派遣されたのだとおっしゃっているのです。
<神であり人間である主イエス>
 現代の私たちは、主イエスが神のもとから来られた方であることは知っています。さらにいえば、クリスチャンでない人々もなんとなく、主イエスは神の子と思っておられるかもしれません。「神の御子は今宵しも、ベツレヘムにうまれたもう」という讃美歌の111番は、クリスマスの時期、世の中でもよく流れる曲です。私もクリスチャンになる前から知っていました。クリスチャンでない頃、神とか神の御子という言葉をあまり深く考えずに歌っていたと思います。そしてなんとなく、主イエスは神の御子、なんとなくありがたいお方で、母マリアに抱かれているイメージを受け取っていたと思います。
 でもクリスチャンである私たちも時に、なんとなくきれいなありがたいイメージで主イエスをとらえてしまうところがあるかもしれません。普段は罪だとか、十字架だと言っていても、このアドベントからクリスマスの時期は、なんとなくロマンチックなページェントのイメージで、ともすれば主イエスをとらえてしまうかもしれません。
 でも実際のところ、主イエスがナザレの田舎の出身でありながら、神の御子であるということはとても大きなことを示しています。私たちはそのことを忘れてはならないのです。ひとつは主イエスは紛れもなく人間としてこの世に来られたということです。あるとき不意に神秘的に現れられたのではなく、田舎の大工として働き生活をしてこられたお方だということです。そして同時に主イエスは神に遣わされたお方でした。たとえば牧師も神に遣わされた者ですが、当然、主イエスとはまったく異なります。主イエスは、「その方のもとから来た者であり」とおっしゃっています。つまりもともと神のもとにおられ、そこから来られたのです。神のもとにおられた神の御子であるということです。そして神の御子であるということは三位一体の子なる神であるということです。つまり神ということです。主イエスは人間であり、また、神であったということです。これは神が50%、人間50%ということではなく、神100%人間100%であるということです。私は理学部の出身ですが、算数のレベルで100+100が200にならないという理屈に合わないことを今、申し上げています。しかし、主イエスという存在は、神100%人間100%のお方なのです。主イエスは、神であるから私たちをお救いになることができるのです。そしてまた人間であるから十字架におかかりになって私たちの身代わりになって罪の罰をお受けになられるのです。
<愛なる方>
それにしても、主イエスを殺そうと思っていた人々は、なぜ主イエスへそのような思いを抱いたのでしょうか?そこにはいくつかの理由が考えられます。脚光を浴びている主イエスへの嫉妬もあったでしょう。それ以上に考えられますことは、そもそも、彼らは神に仕える者であったり、聖書を教える人々でありましたが、実際のところ、神を知らなかったのです。宗教的であるということと、神を知っていることは違うのです。神を知らない者は、形式的には祭司として神に仕えているようでも、学者として聖書を教えているようでも、実際のところは、神を憎むのです。
 これは不思議なことかもしれません。曲がりなりにも神に仕えている人々、聖書に精通している人々、それらの人が、いざ生ける神の子である主イエスにあったとき、神の子であり、子なる神である主イエスを憎んだのです。それは「神は愛なる方」だからです。神は人間を愛し、愛を行う方だからです。愛なる神に出会っても、愛のない者は神が分からないのです。愛を求めていない者には神は分からないです。立派に礼拝を捧げること、聖書をしっかり理解していること、たしかにそのこと自体は悪いことではありません。しかしそこに神を求める気持ちは主イエスを憎む者にはなかったのです。愛を知ろうとする気持ちがなかったのです。愛を行う気持ちもなかったのです。だから神が分からないのです。神を知らないということと、愛を知らないということは相互的な関係にあります。神を知ろうとすれば愛を知ります。愛を知ろうとしなければ神を知ることもできません。そもそも神を求めないのです。
 神を求める者は愛を知ります。そしてその愛は、救い主であるキリストによって私たちに知らされます。十字架におかかりになるキリスト、メシア、救い主によって知らされます。逆に言いますとキリスト抜きの愛はありません。十字架抜きの愛はありません。キリストと結びつかないところに愛はありません。愛は十字架の痛みと結びつきます。痛みのない愛はありません。愛をなにか感情的に喜ばしいこと、仲良しなことだと考えているところに本当の愛はありません。痛みつつ、他者のために仕えることが愛です。メシアであるキリスト、主イエスは私たちに仕えてくださいました。いま、私たちはその生けるキリストと共に礼拝をお捧げしています。礼拝においてキリストを知ります。礼拝においてキリストと繰り返し出会うのです。礼拝は義務だから出席するのではありません。救いの条件ですらありません。愛のなかった私たちがキリストと出会うために、出会い続けるために礼拝を捧げます。そしてまことの愛を知らされています。神を知らされるのです。
そして今日は、これから聖餐にあずかります。聖餐において十字架におかかりになった救い主を知ります。救い主の裂かれた肉と流された血潮を知ります。命を捧げてくださった救い主の愛を知ります。その愛によって私たちもまた本当の愛に生きる者とされます。愛に生きたいと願う私たちに、なお神はその真実のお姿を私たちにお見せくださいます。



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