2024年7月21日大阪東教会主日礼拝説教「祈りに選ばれる」吉浦玲子
<12人>
「そのころ」と今日の聖書箇所の冒頭にあります。「そのころ」とは、主イエスが多くの人の病を癒し、悪霊を追い出し、そしてそのあり方が当時の宗教家のあり方と異なっていることが明確になった「そのころ」のことです。民衆からは大歓迎をされ、ファリサイ派や律法学者といった宗教家、権力者からは殺意を抱かれるほどに嫌われておられた「そのころ」です。そんな、そのころ、主イエスは12人の弟子を選ばれました。主イエスの弟子には12人以外の者も多くありました。そのなかでなぜ12人を特別に選ばれたのでしょうか。組織の中で、階層を作って、組織としての統制を取っていくためでしょうか。
今日の聖書箇所で名前の出ている12人は、主イエスを権力者に売ったイスカリオテのユダを除けば、主イエスが昇天なさったあとも、教会のリーダーとして主イエスの教えを伝えた人々です。伝承によると12人の内のほとんどは殉教したと伝えられています。主イエスは、将来の伝道のことを考え、自分の命をも惜しまず伝道をするであろう人々をお選びになったのでしょうか。
いろいろと疑問がわいてきますが、まず注目したいのは、主イエスは、「祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」とあるところです。主イエスは夜を明かして、12人を選ぶためにひとりで考え抜かれたのではなく、「神に祈って」おられたのです。主イエスは神のもとから来られた神の子、三位一体の子なる神であられました。しかし、ご自身ですべてのことを決めて行われたのではなく、常に父なる神のご意志を伺い、それに従われました。その父なる神のご意志をお聞きするのが「祈り」でした。それは父なる神と主イエスとの交わりの時間でもありました。主イエスは夜を明かして父なる神と交わりの時を持ち、その交わりの中で12人をお選びになりました。その選びは、主イエスご自身のお考えということではなく父なる神のご意志でありました。そして父なる神のご意志が子なる神であられた主イエスのご意志でもありました。
そのようにして選ばれた12名ですが、聖書を長くお読みになっておられる方はご存じかと思いますが、この12人はけっして能力が高かったり、教養があったり、人徳があったりというような特別にすぐれた面のある人々のようには思えません。漁師もいれば、人々から嫌われていた半ばごろつきのような存在だった人もいます。政治的にも、熱心党という極右の人から、左翼までいました。そして何よりのちに主イエスを敵に売ってしまうイスカリオテのユダまでいたのです。
いったいなぜこの12人だったのか?それは神のご意志ですから私たちには分かりません。分からないことではありますが、この12人について言えることは、イスカリオテのユダも含めて、「普通の人間」だったということです。時に弱かったり、時にずるかったりする「普通の人間」でした。神の前にあって「罪人」だったということです。ですから、ある意味、この12人は、私たちの代表であるともいえます。私たちはある時は血気盛んで「雷の子」と主イエスに言われたヨハネやヤコブのようであり、ある時は主イエスの復活を信じることの出来なかった疑い深いトマスと呼ばれているトマスのようでもあります。また、主イエスなんて知らないと三度言ったペトロのように弱く、さらにはイスカリオテのユダのようなひどい裏切りをしてしまう者でもあります。
<選び>
ところで、バイブルアワーでも少しお話したことですが、先週、一人の牧師が天に召されました。青山教会の増田将平という牧師でした。私は増田先生とは面識はありませんでしたが、改革長老教会協議会の機関紙への原稿依頼を受けたとき、当時、原稿の窓口であった増田先生とメールでやり取りをしたことがありました。まだ52歳でした。先生は二年ほど病と戦って亡くなられました。先生は病と戦いつつ教会に仕えておられた昨年末、これ以上有効な治療方法がないということで緩和ケアに移ることを医師から打診されました。でも、増田牧師はそれを拒否されました。牧師として講壇に立ち続けることを望まれたからです。緩和ケアに移れば、厳しい治療を続けるよりも比較的長く命が保たれ、治療の苦痛も少なったかもしれません。穏やかに過ごせたかもしれません。しかし増田牧師は敢えて違う道を選ばれました。講壇に立ち説教をすることを優先されました。その選択は病院の医師たちを驚かせたそうです。しかしその先生はご自身の願いの通り、亡くなる二週間前まで車いすでではありましたが、礼拝の講壇に立ち、説教を語り、神からの説教者としての召しをまっとうして天に召されました。
私はその先生の最後の説教をYouTubeで拝見し、また先生の教会の教会報に記された先生の文章をお読みして、この方はこのようにして神に仕えるようにと神から選ばれた方だったのだなと深く思いました。すべての牧師がこの先生のような歩みをすることはもちろんありません。同じように病に冒されても最後は緩和ケアを受けて静かに召される牧師もいるでしょう。私自身も同じような立場になった時、どのような選択をするのか想像できません。増田先生の選択だけが正しいということはないと思います。しかし同時に、増田先生はそのように生きるようにと神から選ばれた方だったのだとも思いました。
神からの選びは、人間から見て、素晴らしいこととは思えないものもあるのです。病になること、肉体的な苦痛の中で生きることに選ばれることもあるのです。大きな肉体的な苦痛ではなくても、生涯、重荷を心身に負って生きるように選ばれることもあります。それまでできていたことができなくなるように選ばれることもあります。それはとても不条理なことでもあります。神を信じて生きて、なにか割に合わないような思いもします。しかし、神の選びとはそのようなものです。主イエスがお選びになった12人の弟子たちもそうです。主イエスの弟子にならなければ、それぞれにイスラエルの地で家族と穏やかに一生を過ごして長生きをしていたかもしれません。しかし、先ほども申し上げましたけれども、12弟子のほとんどの人々はかなり残酷な死刑で命を落としているのです。
では神を信じても、むしろ余計に苦痛を得たり、苦労をすることになるのでしょうか。実際、増田牧師は病の苦痛の中で自分の人生の主人が病であり、病が「私がお前を支配している」と自分に囁いているように思えることがあったと教会報に書かれていました。しかし、そうではないのだと増田先生はさらに書いておられました。自分の主人は神であり、自分を造られた神を知って生きることこそが生きる意味なのだと。苦痛の中で、祈る時、すぐに願いが叶わない時があっても、神は必ず一番良い道を備えてくださる、その祈りのなかで、神がけっして自分を見捨てられない方であることを知らされつつ生きるのだとおっしゃっていました。
<祈る者として選ばれる>
ちょうどその増田先生の訃報に接したのは自分自身が新型コロナに感染して療養している時でした。先週はそのために礼拝は音声での説教とさせていただきたいへんう申し訳ありませんでした。新型コロナの症状自体は熱も一日で下がり、とても軽いものでした。ただ体力は落ち、数日は寝込むことになりました。その寝ている時に増田先生の文章を読み、また今週の説教の箇所の聖書の言葉について思いめぐらせていました。そして思ったのです。
さきほど、主イエスに選ばれた12人は私たちの代表であると申しました。12人は私たちの代表であり、私たちもまた12人のように神に選ばれています。私たちはそれぞれに神に選ばれているのです。私たちは12弟子のように生きることはないかもしれません。また増田牧師のように生きることもないかもしれません。しかし、それぞれに神に選ばれ、神に召されています。一人一人、異なった神からの召しをいただいて生きていきます。
私たちはその召しに忠実に生きていきます。それは場合によって困難な生き方になるかもしれません。でもそれが神の選び、神の召しであるならば、神からけっして見捨てられないのです。ある男性の牧師は90歳近くなったとき、認知症になった奥様を老々介護されていました。奥様も牧師だった方です。夫婦で神に仕え、教会に奉仕してこられましたが、その晩年はたいへん壮絶な老々介護でした。ご夫婦で何十年も神に仕えてきたにもかかわらず、なにか報われないような状況です。しかしなおその牧師は、おっしゃいました。はたからどのように見えようとも、私たちと共に神はおられ、老々介護の悲惨の中にもたしかに神の光は注がれた、と。
このようなことを述べていきますと、神様を信じることはなんだか悲惨な人生を生きることのように感じられるかもしれません。もちろん、そうではないのです。ただ神を信じて、神の選びに応えて生きる時も、困難はあるのです。しかし、その困難の極みにあっても、どん底にあっても、私たちは守られている。そしてそのどん底のときであっても祈りを通して神と交わりを持つことができるのです。それゆえに私たちは苦難の中にあっても絶望をしないのです。希望を持ち続けることができるのです。私たちは万事がそこそこうまくいっているときは、むしろ神へ祈ったり叫んだりすることは少ないのではないでしょうか。私たちはむしろ困難な時、神を呼びます。神の選びの、その究極において、私たちはまことの祈りを祈ることになるのです。
さきほども申しましたように私たち一人一人の選びは異なっています。誰一人として同じ人はいません。しかし、神を信じる者すべてに共通していることは「祈ること」に召されているということです。皆が神に祈る者として選ばれているということです。ですから、私たちは祈ります。自分のために、また愛する者のために、今日出会った隣人のために。その祈りにおいて神と交わり、神のご意志を聞き、私たちの日々の喜びも悲しみを神と共にあることを知らされます。
<あらかじめ祈られていた私たち>
もっともコロナで寝込んでいる時、正直申しまして、私は熱心に祈っていたとは、言えません。軽症ではありましたが頭もぼーっとしていまして、体もしんどく、なんといっても気力がわかなかったのです。どうにも祈れない数日ののち、霧が晴れるように祈りへと心が向かえるようになりました。その時感じたのは、言い訳のように聞こえるかもしれませんが、祈れない時こそ神が守っていてくださったなあということです。これは普段から祈らなくてもいいということでありません。ただ、私たちは霊的に衰えてしまうことがあるのです。祈りの言葉が出ない時がある、祈りへと心が向かえない時がある、そんなときに、まさに聖霊が呻きとして私たちの祈りを神に届けてくださるのです。ローマ書の8章に、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」とある通りです。祈れない時、聖霊がとりなしてくださるのです。
私たちは祈る者として神に選ばれていると申しました。それは私たちが祈りの達人になるということではありません。朗々と祈れるようになるためではありません。祈りは神との交わりの時です。私たちは祈りにおいて神を求める者とされています。しかし、その求める心が弱ることもあります。そのような時でも、神の方では私たちを求めることをおやめになりません。神は私たちをお求めになるのです。ですから聖霊がとりなしてくださるのです。
そしてそれはそのように主イエスが最初から私たちのために祈っていてくださったからでもあります。12人の弟子たちを選ばれた時、主イエスは夜を徹して祈られました。それはだれを選ぼうか、だれが優秀だろうかと父なる神に問われたのではなく、その12人のために、12人のこれからの日々のために祈られたのです。その生涯の最後まで私が彼らを守らせてくださいと父なる神に祈られたのです。そしてその12人の弟子たちのみならず、私たち一人一人も主イエスに祈られている存在なのです。祈りへと選ばれた者は、主イエスによってあらかじめ祈られていた者なのです。そして今も祈られている存在なのです。私たちの生涯の最後まで、たとえ私たちが祈ることができなくなったとしても主イエスは祈り続けてくださるのです。そのように祈られている私たちは、この一週間も、聖霊によって祈りの言葉を与えられます。また祈れない時は聖霊が代わって祈ってくださいます。その祈りの内に永遠までも神と結ばれています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます