大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙12章9~21節

2017-11-27 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年11月26日 大阪東教会主日礼拝説教 「燃える炭火を積む」 吉浦玲子

<偽りのない愛は無理>

 「愛には偽りがあってはなりません。」とても美しい言葉です。しかし、この言葉を聞くと不思議な気もします。「愛には偽りがあってはなりません」というけれど、逆に偽りのある愛というのがあるのでしょうか?「愛に偽りがあってはなりません」とは「愛に偽善があってはならない」ともいえる言葉です。そもそも、偽善、取り繕った偽りの行為と愛は結びつくものでしょうか?偽善の混じった愛というものが存在するのでしょうか?

 パウロはここでキリストにある共同体のあり方を語っています。そこにはまことの愛が必要であると語っています。「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」ここで、さらに愛というものを悪や善と関連づけて語っています。つまり悪を憎むことなく、善から離れて、愛はあり得ないとパウロは語っています。私たちはここをなかなか理解できません。さきほど、偽りのある愛というのもがあるでしょうかと問いました。さらっと聞くと、愛には偽りがないのは当たり前だと私たちは思うのです。偽りのある愛なんてありえないと感じます。

 しかし、そう感じる一方で、私たちは、悪とか善という倫理的なことがらと愛を切り離して考えてしまうのです。愛するゆえの嘘、愛する人のためなら悪だって行う、そういうことが、美しい言葉で語られがちです。しかし、そこで語られているる愛の本質は往々にしてセンチメンタルなものであって、聖書で語られる愛とずれている場合が多いのです。聖書で語られる愛は情感的なもの、気分的なものではありません。人間の世界では愛と倫理が切り離されてしまいがちですが、聖書の語る愛は情感的なものではなく倫理と結びつきます。神は正しい方、義なる方であるからです。そもそも善をなすということは先週お読みした2節にある「何が神の御心であるか」をわきまえて生きるということです。聖書における愛は神の御心と結びついているのです。み心をわきまえて歩む時、悪を憎み、善から離れず、まことに愛し合うことができるようになります。そのとき、愛には偽りがないのです。偽りのない愛があるとき「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思」うことができます。同時にこれは神によって与えらえた共同体を尊重するということでもあります。私たちは血族としての親子関係、家族関係を自分で選択することはできません。一方で、教会という共同体には選択の自由があります。しかし、この共同体もまた神に与えられた神の家族なのです。だから私たちは家族のように仲良くしなければなりませんとパウロは語っているのではありません。神に与えられた、神が造られた共同体ということを尊重した態度をとりなさいということです。そのとき、互いに相手への尊敬というものがおのずと生じるのです。

 ところで、愛ということでいえば、パウロには愛の讃歌と呼ばれるたいへん有名な言葉があります。コリントの信徒への手紙Ⅰの13章にある言葉です。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」愛がなければ、どんなに人間の貴い行いも、すぐれた実績も、あるいは信仰すら意味はないのだとパウロは語ります。

 さらに「愛は忍耐強い。愛は情け深い。・・」と言葉は続いていきます。私たちはこの聖書箇所を読むとき、この「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず、高ぶらない、、、」というところで、自分にはとても無理だと感じます。実際、人間にとって、無理なことをパウロは語っているといってもいいのです。

 ローマの信徒への手紙の本日の聖書箇所も、愛の本質ということから考えますと、人間にとってはとても困難なことが語られています。聖書で語られている愛の本質を考える時、人間には偽りのない愛も、共同体の中で互いに心から尊敬しあうことも、困難だと思われます。

 ところで、パウロという人は文章を読んでいますと、かなり気性の激しい人だったようにも感じられます。異端とは徹底的に戦いましたし、教会の中の共同体を乱す者にはきわめてきびしく接しました。まさに悪を憎み、善から離れなかった、そのパウロが求めた愛、それこそ偽りがない愛なのです。偽りがない愛を貫く時、偽りに対して徹底した態度をとらざるを得ないのです。

 そんなパウロには反対者も多かったのです。実際そうでしょう。こんな厳しい、偽りのない愛を徹底した人が共同体の中にいたら、ある意味、煙たかったと思います。パウロの言う愛は、表面的に、人々を甘い気持ちにしたり、和やかにする種類のものではなかったようです。でもパウロの激しさは、見ようによっては、パウロは忍耐強くなくて、情け深くないのではないか?先ほどの愛の讃歌とは合わないのではないかとも感じるものです。敵対者に厳しく接するパウロの姿は、むしろイエス様の時代のファリサイ派と一緒とまでは言わないけど似ているのではないか?パウロの言う愛はイエス様のおっしゃる愛とは違うのはないか?そんな疑問がわいてきます。しかし、パウロの言う愛はやはり主イエスの愛に根ざしているのです。それはセンチメンタルな愛ではなく、神の御心に従う愛なのです。しかし、多くの人間にとってパウロの語る愛はやはり困難なことです。

<たゆまず祈る>

 困難だからこそ、パウロはなお語ります。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」情感的な愛ではないからこそ、私たちは怠らず励むのです。しかし、自分で努力するのではなく、霊に燃えるのです。れに燃やしていただくのです。つまり聖霊によって、神の力によって燃やしていただくのです。自分の力で偽りのない愛を全うすることは到底できません。兄弟愛を持つことはできません。そして愛は御心を行うことと結びついていると申し上げましたが、そしてまたおのずと主に仕えるということと結びついています。さらに、愛の実践には祈りを伴うものです。困難だからこそ、祈りを必要とするのです。絶え間ない祈りがなくては、人間は偽りのない愛を実践ができません。

 まだクリスチャンになる前のことですが、雑誌に載っていたある映画の紹介の言葉が印象に残っています。映画の主人公の恋人の女性が病になります。命も危ない状態で恋人は病院のベッドに横たわっています。恋人の体にはたくさんのチューブがつなげられ、意識はありません。傍らで主人公はなすすべもなく、ただ恋人の回復を祈っています。雑誌のその映画の紹介に、「危篤の恋人の傍らにいる主人公の姿に、人間の究極の愛の姿は祈りになることを知った」とありました。当時、私にとって祈りというのは、困った時の神頼み的なものでしかありませんでした。自分でどうしようもないことを、神や仏に寄りすがる、いってみれば弱い人間の姿勢だと感じていました。祈りに愛の姿を重ねることはなかったので、その記事はとても印象に残りました。もちろん、クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、大事な人、愛する人が死の淵にいる時、それはもう祈るような気持ちで傍らにいるしかないのです。そのようなとき、人間はなりふりかまっていられません。弱いといわれようが祈って助けてもらえるならいくらでも祈るのです。しかし、その映画を見たのですが、その場面に、主人公の弱さは感じませんでした。雑誌の紹介の記事のように、恋人の傍らにいる主人公の姿は愛に満ちていました。憔悴した姿ではありましたが、祈る姿はむしろ強かったのです。そのとき、愛の究極の姿は祈りとなるという言葉は本当だと思いました。

 愛を全うするには、そしてまた人間が偽りのない愛を実践するには祈りが必要です。祈りによって強められなければ人間は愛することはできません。そして逆に愛するとき、そこにはおのずと祈りが伴うのです。

<敵に燃える炭火を、天に徳を>

 祈りつつ愛の実践をしていくとき、なお、キリスト者には困難があります。パウロもキリストもその歩みは戦いのうちにありました。共同体の内にも外にも戦いがありました。裏切りがあり、迫害がありました。これは2000年前の聖書の時代のことだけではありません。現代における私たちも教会も、同様です。この世界にキリスト者としてあるとき、おのずと苦難や迫害があります。私たちが祈りをもって偽りのない愛を実践しようとしても、悪と対峙する事態が起こります。そのとき、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」とパウロは語ります。14節からのちの言葉は、主イエスが語られた「敵を愛しなさい」という言葉と同様、悪を憎みながら、その悪をなす人間を憎んではならないということが語られています。これは聖書の中でも、私たちは最も困難と感じられる教えでもあります。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」とパウロは言います。そしてまた「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。」とあります。今日、最初にお読みいただいた旧約聖書の箇所でも、うまく攻略した敵を、ここぞとばかりに攻めて全滅させるのではなく、宴会を開いてもてなし帰したということが書かれています。古代であっても、現実の戦争の場面でこのようなことがあったのかと驚くような話ですが、その敵はそののち二度とイスラエルを襲ってこなかったと書かれていました。

ローマの信徒への手紙でパウロが「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」といっているのは、エジプトなどでの習慣のようで、悔い改めを迫るために行うことのようです。日本で言うお灸をすえるということと少し似ているのかもしれません。戦争でもてなしをうけた敵は実際に燃える炭火を頭に積まれたといえます。

 しかし実際には、自分たちに悪をなす者に善をおこなったとしても、炭火を摘むことにはならないことも多いように思います。むしろ恩をあだでかえすようなことがまかり通るのがこの世の中ではないでしょうか。ですから、この世界には争いが絶えません。それは人間同士でも、家族同士でも、国家間でも同様です。

 しかし、悪をなす者に悪を返したり、復讐しても、それはあらたな悪を引き起こすことでしかありません。これは私たちは歴史を振り返るときにも思いますし、そしてまた現代における、紛争やテロの現実を見ていれば容易にわかることです。憎しみと憎しみがとめどなくループしているのが人間の世界です。

 そのループを断ち切って、私たちは生きていかねばいけないとパウロは語ります。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善をおこなうように心がけなさい」とパウロは語ります。投げられた悪を投げ返さない。それは何か自分だけ割を食うような、打たれ損のような気持がします。

 しかし、現実にとてつもない人間の悪を受け取って、投げ返されなかったのはイエス・キリストです。十字架において、私たち人間すべての悪を引き取られました。私たちの悪に悪を返さずただお一人背負われました。そして父なる神の復讐をお受けになりました。父なる神は悪を憎まれる方です。その神の憎しみをイエス・キリストはお受けになりました。十字架によって私たち自身への神の復讐は既に終わっています。私たち自身の悪への神の憎しみは十字架のキリストに向けられました。

 神からの復讐を免れさせていただいた私たちは十字架のキリストのゆえに、私たちに悪をなす者へ悪を返さないのです。私たちが偽りのない愛を全うする歩みの内に、悪をなす者へ善をなします。キリストの十字架を思っても、もちろんこれは難しいことです。難しいことのゆえに、一層の祈りが必要です。

 来週からアドベントが始まります。キリストの降誕を祝い、再臨を待ち望むクリスマスへの備えをなす季節です。そしてまた教会歴で言うと、教会の一年はアドベントから始まります。そういう意味では今日は、教会の一年の最後の礼拝ということになります。この一年、私たちは愛を実践できたでしょうか?十分に実践できたと胸をはれる方はおそらく私を含めておられないでしょう。だからこそ、なお祈りましょう。祈りの内に、十字架へと向かわれるためにこの世界に来られたキリストを覚えましょう。アドベントは悔い改めの季節です。悔い改めつつ、完全な愛なる方、キリストを待ち望み、愛に欠けたわたしたちに愛を、キリストのゆえに、増し加えていただきましょう。


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