2017年12月10日 大阪東教会主日礼拝説教 「受胎告知」 吉浦玲子
<喜びなさい>
「おめでとう、恵まれた方」
少女は突然やってきた天使ガブリエルに言われました。「おめでとう、恵まれた方」。なにがおめでたいのか、何が恵みなのか?突然そう言われても、少女には皆目分からなかったことでしょう。ここで「おめでとう」と訳されている言葉は「喜ぶ」という意味のある言葉です。そして命令形になっています。「恵まれた方」という言葉は完了形で、その隣には実は<女性の中で>という言葉もついています。ですから直訳すると「あなたは女性の中で既に恵まれているので、喜びなさい」となります。
「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことか考え込んだ」とあります。戸惑いというのは<胸騒ぎがした>ということであり、考え込むというのは<いぶかしんだ>、という言葉でもあります。この時点で、この天使の言葉が、ただならぬことを自分に告げようとしていることをマリアは感じ取っていたと言えます。
天使ガブリエルはその挨拶の言葉の最後に「主が共におられる」と言っています。この「主が共におられる」という言葉は、すぐる週のマリアのいいなずけであるヨセフにも語られた言葉です。そしてこの言葉は、特別な神の召し、神のご計画が告げられる時、語られる言葉でもあります。たとえば今、聖書研究祈祷会ではヨシュア記を学んでいますが、モーセの跡を継ぎ、出エジプトの民のリーダーとなったヨシュアに対して、「うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」と神はおっしゃいました。40年荒れ野をさまよったイスラエルの民が、いよいよ約束の地、カナンの地へと入るときの言葉です。「あなたの神、主は共にいる」その言葉はとても力強いのですが、ここでヨシュアに命じられていることは、エジプトで奴隷であった民、さらに荒れ野を旅してきた民に、カナンの地の、軍備も戦力も比べ物にならない軍隊と戦わせなさいということです。馬も戦車も武器も豊富に持っている相手に対して、荒れ野を旅してきた民、戦闘力において圧倒的に劣る民を率いて戦えとおっしゃっているのです。そのヨシュアに対して「主は共にいる」と語られているのです。
今日の聖書箇所でも、マリアに対して「主は共におられる」と天使は語りますが、いいなずけのヨセフ同様、マリアもまた、しっかりと宗教教育をされて育ってきた少女であったでしょうから、「主は共におられる」という言葉の持つ、ただならぬ意味をマリアは感じ取っていたことでしょう。
そんなマリアが聞いた、喜ぶべきことというのは、マリアが男の子を身ごもるということでした。もちろん、女性にとって、子供が授かるというのはおめでたいことです。喜ぶべきことです。しかも跡継ぎとなる男児です。それはたいへんおめでたいことです。現代以上に、聖書の時代、女性にとって子供、それも男児が授かるかどうかというのはたいへん大きな問題でした。聖書の中には、信仰の父祖アブラハムの妻サラや預言者サムエルの母となったハンナをはじめ、子供が授からないことで、深い悩みの中にいた女性は多く出てきます。
長く教会生活をなさっている方は、しかし、この懐妊がけっしておめでたいことではないことをご存知でしょう。マリア自身も答えます。「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」婚約こそしていたものの、まだ結婚をしていないマリアが身ごもることなどありえないことでした。しかし、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」そうガブリエルは語ります。
しかし、男性によって身ごもったわけではないということを当時であっても誰が信じるでしょうか?常識的に考えて、マリアがいいなずけのヨセフと婚約期間中でありながら関係を持ったか、ヨセフを裏切ったか、どちらかだと判断されるでしょう。先週も申し上げましたように、いいなずけ以外の子供であれば、それは姦淫の罪を犯したことになり死刑となります。とてもおめでたい状況ではありません。仮に聖霊によって身ごもったことをヨセフが受け入れたとしても、いと高い方の力によって身ごもった子の母となることはとてつもない人生が待っていることをマリアには分かっていたでしょう。
普通の人間の子どもであっても、特別な家庭に特別な期待を担って生まれてくる子の母になるということは、その母にとって、もちろん喜びでありますが、同時に、重圧もあることだと思います。古今東西の王や皇帝や貴族の血筋の嫡子をみごもるということもそうですし、現代でも、大企業のオーナー一族や名門といわれる一族の家庭などでもそうでしょう。
しかし、ここでは、この世の王や権力者ではなく、いと高き方、つまり、神の子を宿すと言われているのです。聖霊が降るということがどういうことか、いと高き方の力に包まれることがどういうことか、具体的にはっきりとは分からなかったかもしれませんが、しかし、それがとてつもないことであることはマリアにも分かったことでしょう。しっかりと宗教教育を受けていたであろうマリアは、それが恐れおののくべきことであることは理解したはずです。ここで、マリアには、自分自身の命の危険と、とんでもない人生に巻き込まれる危険が、突然降って湧いて来たのです。
しかし、それをガブリエルは「喜びなさい」と言っているのです。あなたほど女性の中で恵みを受けた人はいないと言っているのです。しかし、マリアは従順に天使の言葉を受け入れました。「お言葉どおり、この身に成りますように」と応えたのです。クリスマスのページェントでの、一つのクライマックスのシーンです。多くの芸術作品でも描かれている場面です。
<恵みを恵みとして受け取ったマリア>
「お言葉どおり、この身に成りますように」というマリアの姿に、信仰者の従順な姿勢として、従順のお手本を見る見方があります。それは間違っていません。常識的に考えて、多くの困難が予想されるなかに「お言葉どおり、この身に成りますように」とまさに自分の身を差し出すあり方は信仰者として素晴らしいものです。神に自分の身を差し出したのです。それはつまり信仰に基づく献身の姿と言えます。
なぜマリアはそのような従順な献身の姿勢を取ることができたのでしょうか。マリアには分かったのです。本当に自分が、まさに天使ガブリエルが伝えたように、本当に恵まれていることを。とんでもない困難が待ち受けているかもしれない人生を受け入れながら、なお、神が共におられるという確信を持って生きていくことの恵みを理解したのです。取るに足りない田舎者の少女に過ぎない自分に神は目を止められた、そして大きな役割を与えてくださった。それこそが少女にとっての恵みでした。
聖書の時代、女性の地位は現代よりもかなり低いものでした。新約聖書には、たとえば5000人へ主イエスが食事を提供されたという奇跡物語があります。そこでは「男だけで五千人」という記述があります。当時、人数を数える時、女性は数に入っていなかったのです。女性は取るに足らない存在、男性の持ち物、財産でしかなかった存在でした。
しかし、旧約聖書の時代から、当時の文化からすれば、その取るに足らない女性へ、神のまなざしは注がれました。そしてその事実はありのままに聖書に記述されました。信仰の父祖といわれるアブラハムのまだ信仰が揺れ動いていたころの、不信仰の犠牲になったと言える女奴隷のハガル、約束の地へ入ろうとするヨシュアの部隊を助けた娼婦ラハブ、まずしい異邦人のやもめのルツ、皆、身分の低い女性でしたが、それぞれに神はまなざしを注がれ、大きな祝福を与えられました。それらの女性は、高貴な女性でも、徳の高い女性でもない、むしろ、人から軽んじられ、神から遠い存在と思われていた女性たちでした、しかし、神は確かに彼女たちと共におられ、彼女たちは破格の恵みと祝福を与えられました。
そもそも神の恵みは信仰によらなければ分からないものです。神は私たちに、多くの恵み、祝福を与えられる方です。しかし、私たちの側に、その恵みを恵みとして受け取ることができる信仰がなければ、それは私たちにとって恵みでもなんでもないのです。神のとてつもない祝福であっても、祝福ではなく、自分の人生を自分の思い通りにすることを乱す面倒な事柄として受け取ってしまうのです。
逆に信仰がなくても、喜べるような出来事、お金が入るとか、良い仕事に就くとか、人間関係が改善するとか、病が癒されるとか、そういうことに対しては私たちはすんなりと受け入れることができます。もちろん、私たちの祈りに応えて、そのような現実的な恵みをも神は与えられます。しかし、神の恵みは多くの場合、その恵みが深ければ深いほど、信仰によらなければ分からないものなのです。
<人間に命をゆだねられる神>
そして恵みは深ければ深いほど、不思議なことに、そこには人間にとって困難が伴うのです。神のまなざしの内に恵みを受けた多くの人々がそうであったように、マリアもまた、とんでもない、困難な人生を受け入れていくことになるのです。
しかし、その困難な道を一人で歩んでいくのではありません。「神は共におられる」のです。しかし、それは神はかたわらに共におられ、困った時に助けられるということではありません。神はいつもそばにおられて、あなたが傷ついて倒れた時は助け起こしてあげましょう、癒してあげましょう、肩を貸してあげましょう、というのではありません。なにより神御自身が困難を受けてくださるのです。
ある説教者は、マリアの場合、神ご自身が、マリアに命を預けたのだと語っています。神は、主イエス・キリストとして、マリアの胎内にみごもられたのです。マリアの肉体の中に守られるべき存在として宿られました。マリアに何かあったら、一番の被害をこうむるのは胎児であるイエス・キリストです。全能であられる神が、もっとも無力な存在としてその命を人間の女性にゆだねられる、それが告げられたのが受胎告知の出来事です。
神が共におられるというのは、私たちにとっても、ただ単に横に神がおられ、困ったときには助けてくださるということではありません。神ご自身が、私たちの痛みを痛み、苦しみを苦しまれるということです。神ご自身がその命を私たちと共に生きてくださるということです。神ご自身が私たちを信頼されゆだねてくださるということです。教会はキリストの体であると言われます。私たちはキリストの体なのです。私たちが痛む時、キリストも痛まれます。私たちの傷をキリストご自身が受けられます。
それは私たちを通して新しい命が生み出されるためです。私たちひとりひとりにマリアと同じように、神からの役割が与えられています。マリアのように赤ん坊を生むという役割ではないかもしれません。一人一人に異なる役割です。それは会社員として働くこともかもしれませんし、肉親の介護をするということかもしれません。しかし、それは突き詰めていけば、神のご計画の中で、神の新しい子供、新しい命を生み出すことにつながっていくのです。
産みの苦しみといいますが、そこには確かに困難があるのです。神が共にいてくださり、神から特別な役割を与えらえる時、痛みがあります。しかし、「お言葉どおり、この身に成りますように」と私たちがその神からの特別の召しに応える時、たしかに神のご計画は成るのです。素晴らしい出来事のために、私たちは用いられます。自分のちっぽけな能力、才能、努力を越えて、新しい命の輝きが生み出されます。「神にできないことは何一つない」とガブリエルは言いました。この言葉の原語には「神からの言葉に不可能はない」という意味です。つまり神から発せられる言葉で成就しないことがらはないのです。創世記1章で「光あれ」という神の言葉によって光があったように、私たちの人生にも神の言葉によって奇跡が与えられます。ですから、わたしたちもまた、その神の言葉を私たちが信仰をもって受け入れます。「御言葉どおり、この身に成りますように」。そこから素晴らしい命が生み出されていきます。
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