2018年7月22日 大阪東教会主日礼拝説教 「まず、パンを得よ」吉浦玲子
<必要を御存知の神>
私が生まれ育ちました長崎県の佐世保市は港町です。明治の初めまでは特に産業もない貧しい小さな漁村だったのですが、その後、ある意味、不幸な歴史のなかで発展してきた町でした。不幸な歴史のなかで発展した、と言うのは戦争のたびに発展してきたということです。軍港として港が用いられたのです。太平洋戦争やその後の朝鮮戦争で港は緊迫し、しかしいっぽうで活気づきました。戦後も、米軍基地がありました。自衛隊の基地もあります。いまはだいぶ米軍基地の規模は縮小しているのですが、それでも港に大きな軍艦が入港すると街には米軍の兵隊たちの姿があふれます。基地によっていくばくか支えられている経済的な現実があります。そしてまた佐世保も同じ長崎県の長崎市といっしょで坂の町です。平地がほとんどありません。その坂の上から港を見下ろしますと、遠目には国立公園となっている美しい離島の島々、九十九島の景色が見えます。しかし、手前の港には軍艦やら、また造船所に停留する船やら、あるいは漁に出掛ける漁船なども見えるのです。そこにはまぎれもなく人間の営みがあるのです。生活のための産業があり、世界の紛争の縮図のようなきな臭い状況も見えるのです。美しい景色だけで人間の暮らしは完結しないのです。その街の中心部の坂の上には海に向かって立つカトリックの大きな教会があります。美しいだけでは完結できない人間の世界をまるで見守るように教会が立っています。
今日の聖書箇所でも主イエスは人々を見守っておられました。5節にあるように「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを」ご覧になったのです。場所はガリラヤ湖の向こう側でした。ここで、ガリラヤ湖のことがティベリアス湖と言い代えられています。これは当時、ガリラヤ地方をおさめていたヘロデ・アンティパスがローマにおもねって、ローマ皇帝ティベリアスにちなんで作ったティベリアという町に由来します。ガリラヤ湖もまたローマへおもねった名前であるティベリアス湖と呼ばれたのです。ティベリアス湖という響きにはこの時代に生きるイスラエルの人々の存在の暗さが反映しています。ティベリアスというローマ風の言葉に、この時代の人々の苦しみが反映しているのです。
そんな時代の人々は、今日の聖書箇所では必死で主イエスを追って来ました。多くの病人を癒されたイエス様を追いかけて来たのです。さらに病を癒してほしい、困ったことを解決してほしい、それぞれに切実な願いを持って、湖をぐるっと回ってやってきたのです。ちなみにイエス様たちは、船で湖を渡られたようです。そのイエス様たちを、陸路、人々はやってきたのです。
その人々をご覧になって主イエスはおっしゃいます。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばいいだろうか」イエス様は人々の必要を御存知でした。主イエスはもちろん、神の国を伝えに来られたのです。人々へ救い主が来たことを伝えに来られたのです。しかしまた一方で、人間が生きていくとき必要なものがあることを御存知でした。主の祈りの中で「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りますが、私たちには日用の糧が必要です。毎日必要です。食べるもの着るもの住む所、多くの必要があります。肉体を持って地上を人間として歩まれた主イエスですから、そのことはもちろんご存知なのです。空腹を覚え、喉の渇きを覚え、暑さ寒さを感じて生きておられた、そのご自分のところへ必死になって人々がむかってきている。その人々に今必要なものはパンである、そう主はご存知でした。崇高な真理だけが必要で、肉体的な空腹などとるに足りないことだなどとおっしゃらなかったのです。そもそも肉体をお造りになったのは神です。私たちの肉体もまた大事なものなのです。その肉体に必要な糧もまた大事なものなのです。
<200デナリいる!>
さて「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えば良いだろうか」と問われたフィリポは、実に冷静沈着に「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」と答えます。実務的な回答です。1デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金でした。ですから200日分の賃金相当の資金がいるとフィリポは答えたのです。いろんなプロジェクトの参謀役にこのようなタイプの人がいると助かります。問題が起こって皆があたふたしている時、冷静に素早く課題の分析と必要な対策の提案をしてくれる人で、頼もしい存在です。
しかし、一見頼もしく思えるフィリポは、冷静な人のようで、実は大きな見落としをしています。自分に問われた相手が誰かということが彼には分かっていないのです。6節で「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。」と記されています。イエス様は意地悪でこのような試みをされたわけではありません。これから自分が奇跡を起こす、そのことをお前は前もってわかっていなかったなと確認するためにおっしゃったのではないのです。
フィリポに見えていなかった現実を見えるようにするために、あとからフィリポが知ることになる神の恵みの大きさを深く知るために、あえて主イエスはフィリポに質問されたのです。フィリポに続いてアンデレもまたフィリポと同様現実的な言葉を発します。大麦のパン五つと魚二匹をもっている少年を指して「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」そういいます。五つのパンと魚二匹ではどうしようもない。200デナリオンなければ到底無理だ。それがフィリポやアンデレに見えていた現実でした。
彼らは自分たちの傍らに神の御子である主イエスがおられるというとてつもない大きな現実は見落としていたのです。天地の造り主であるお方の御子がおられる、ヨハネによる福音書の1章ではその造り主なる父なる神と天地創造の時から共におられた御子がここにおられる、そのことは弟子たちに見えていませんでした。
200デナリオン必要だと考えていた弟子たちのもとにあったのは、大麦のパン5つと魚が二匹でした。これらは少年がもっていたとあります。そもそも大麦のパンというのは貧しい者が食べるパンと言われます。通常パンは小麦で作ります。少年は小麦のパンを食べることができない貧しい者だったと推測されます。学者によっては、この少年は、奴隷であったかもしれないと考えています。主人のおともでここまでやってきた少年奴隷であったかもしれない、と。その貧しい者の貧しい食べ物、そして弟子たちに「何の役にも立たない」と言われた食べ物が祝されました。主イエスによって祝されたのです。「主イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」とあります。そして魚も同じようにされたとあります。
かつて旧約聖書の時代、出エジプトした民に、神は天からマナという不思議な食べ物を降らせました。もちろん天地創造をなさった神ですから、今日のティベリウス湖の向こう側の場面でも、天から大量のパンと魚を降らせることだって可能だったでしょう。しかし、主イエスは、貧しい者の貧しい食べ物を祝し用いられました。
神は私たちの必要を御存知で、必要を満たしてくださると申し上げました。その満たされ方は、もちろんとてつもない奇跡的なすごいことがおこる場合もあります。突然、空からマナがふってくるようなこともあります。しかし、多くの場合は、私たちがこんなもの役に立たない、たったこれっぽっちしかないと考えているところから奇跡がおきるのです。主イエスが共におられる時、たった五個しかない大麦のパンと二匹だけの魚が大きな奇跡の源、祝福の源となるのです。
「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』」と主イエスはおっしゃいます。「少しも無駄にならないように残ったパン屑を集めなさい」なんて、とてつもない奇跡をなさったあと、わりとかっちりしたことを主イエスはおっしゃるのだなと感じたりします。しかしここで言われている「無駄にならないように」という言葉は「滅びる」という意味の言葉です。3章16節の「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を受けるためである。」という有名な聖句のなかにでてくる「一人も滅びないで」の滅びないと同じ言葉なのです。神の恵みを無駄にしない、神の祝福を投げ捨てない、それは永遠の命を生きるということです。与えられた神の恵みを無駄にするということは、与えられた命を無駄にすることであり、滅びに至ることなのです。
その無駄にされなかったパン屑は、12の籠にいっぱいになったと書かれています。12というのは聖書ではおなじみの数字で、イスラエルの12部族、主イエスの12人の弟子というように祝福された数字です。そしてまたこの場面では、主イエスから命じられた弟子たちが皆一人一人籠を持って集めたと思われます。12人の弟子たちがそれぞれに自分の腕で籠の重みを感じたのです。その腕にずっしりと恵みの大きさを感じたのです。頭の中で素早く200デナリオンいると計算したフィリポも、5つのパンと2匹の魚など役に立たないと言ったアンデレも、それぞれにその腕にずっしりと恵みの重さを感じたのです。
<目的地に着く>
その豊かな恵みの喜びは残念ながら喜びでは終わりませんでした。14節「人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」。人々は主イエスを王にしようとしたとあります。これほどの奇跡を見たのです。ある意味、<この人こそ、イスラエルを救ってくださる新しい王>だと人々が感じても不思議ではありません。ガリラヤ湖をティベリアス湖と呼ぶ時代にあって、このお方こそ、自分たちをローマから解放してくださると熱狂しても不思議ではありません。人々はまさにそのような王を待っていたのです。しかし、その人々の思いを感じた主イエスは、山に退かれました。これは逃げたということです。主イエスは人々から逃げられたのです。
主イエスがおられないまま弟子たちは湖を舟で渡ります。既に暗くなっていた湖は荒れ始めました。25ないし30スタディオンばかり漕ぎだしたころ、つまり4,5キロほど漕ぎだした頃、主イエスは湖の上を歩いて舟に近づいてこられました。当然、それを見た弟子たちは恐れました。暗い湖の上を歩いて来られるのです。幽霊か何かのようにも見えたことでしょう。しかし一方で、日の暮れる前、12の籠にいっぱいのパンの残りの重みを感じていた弟子たちは、集まっていた人々以上に、身近に主イエスの奇跡をたしかに見たのです。主イエスの業、しるしをはっきりと見たのです。神の力を見たのです。にもかかわらず、この湖の場面では主イエスの姿をみて恐れたのです。籠を抱えていた弟子たちは、そこに神の奇跡を見ながら、なお主イエスのことを理解はしていなかったのです。湖の上を歩かれても不思議でもなんでもないはずなのに、弟子たちは200デナリオンが必要だと言ったところから、あまり進歩していなかったともいえるのです。
その弟子たちに対し主イエスは「わたしだ。恐れることはない。」とおっしゃいました。「わたしだ」という言葉はギリシャ語でエゴーエイミーという言葉です。この言葉についてはマタイによる福音書を読んでおりました時にもお話ししたことがありますが、英語で言えば<I am>という言葉です。かつて出エジプト記でモーセに対して神がご自身の名をあかされたとき、神はご自身を「『わたしはある』というものだ」とおっしゃっいました。この「わたしはある」という言葉をギリシャ語で表現したものがエゴーエイミーです。つまりここで主イエスは、かつてモーセに神がご自身を顕されたように、弟子たちに神であるご自身を顕されたと言えます。この湖の場面は、いってみれば「神が顕れられた」「神顕現」の場面です。
神が顕れられ、その神であるキリストを弟子たちが舟に迎え入れました。「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」とあります。舟は目的地に着いたのです。神が共におられるので、無事に目的地に着いたのです。
逆に言いますと、神が共におられない時、私たちは目的地には着かないのです。私たちは私たちの目指すところに向かいます。そしてまた、神がおられても、群衆が、主イエスを自分たちの王としようとしたように、神を自分のために利用しようとします。主イエスが導こうとなさっている方向から違うところへ主イエスを連れて行こうとします。その時主イエスは、退かれました。お逃げになったのです。しかし、主イエスを自分の舟に迎え入れる時、つまり主イエスを主として、舟のリーダーとして迎える時、舟は目的地に着くのです。
神は必要を満たしてくださる方だと申しました。この世界のどうしようもない混沌の中で必要を満たしてくださる神です。しかし、その必要を満たしてくださる恵みは私たちを目的地へと導くものなのです。神の恵みはお金を入れる都度にペットボトルのお茶が出てくる自動販売機のようなものではありません。日々の必要を満たしてくださりながら、私たちを御国という目的地、永遠の命という目的地に導くものなのです。湖の場面での舟は教会をあらわすとも言われます。教会はこの世界にあって、はなはだ頼りない、力のないものとして漂っているようです。特に日本にあってはそうです。池の上にただよう葉っぱのような存在かもしれません。しかしなお、その舟とも呼べない葉っぱのようなものに主イエスがおられるとき、ただむなしく漂っているように見えながら、確実に目的地へと向かっているのです。もちろん強い風が吹いて荒れることもあります。しかしなお、目的地は失われないのです。そしてまたこの舟を私たち一人一人の人生と例えて語られることもあります。私たちの日々にも主イエスを主としてお迎えする時、私たち一人一人もまた目的地へと向かうのです。
最初にお話ししました佐世保の港には軍艦も漁船も観光のための遊覧船もあります。それぞれにこの世の必要のために海に出て行くのです。私たちも日々のさまざまなことに忙殺されながら進みます。しかし、主イエスをお迎えした舟は一艘たりとも失われません。無駄にされないのです。滅びないのです。永遠に神の御守りの内に目的地へと確実に向かっていくのです。
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