大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第3章31~35節

2022-03-27 15:47:46 | マルコによる福音書

2022年3月20日大阪東教会主日礼拝説教「ほんとうの家族」吉浦玲子 

 教会に、かつてその教会にいた牧師の息子や娘、あるいは古くからいる信徒の子弟が牧師として赴任してくることは、なかなか難しいことです。牧師や信徒の子弟でなくても、自分の出身教会に牧師として献身してすぐに赴任するというのは難しい面があるようです。私自身はそのような教会を直接は体験していませんが、信徒時代、一時期在籍した教会の前任牧師が、その教会の昔の牧師の息子さんだったということはありました。私はその前任牧師を直接は知らないのですが、聞くところによると、昔の牧師の息子である前任牧師は、信徒さんから親しまれていたのですが、それは、小さいころから知っている親しさであって、牧師に対しての信頼とか尊敬というものとは違ったようです。信徒さんたちに悪気はなかったのですが、どうしても、御言葉を語り、教会を導いていく存在として、その前任牧師を見ることができなかったようです。あのかわいかった坊ちゃん、大きくなったあの少年というように、その面影で見ていたのです。結局、その前任牧師は比較的短期間で教会を去ったとお聞きしました。 

 聖書を読みますと、主イエスご自身が、身内の人、また地元の人から理解を得られなかったということが記されています。今日の聖書箇所もそうです。少し前の聖書箇所21節と合わせて読みますと、主イエスの母と兄弟は主イエスを取り押さえようとやってきたのです。ごく普通にガリラヤで大工として生活をしていた長男が突然新興宗教の教祖のようになってしまった、さらにあろうことか立派な権威ある学者たちと対立をしているともうわさがあり、さらには「気が変になった」とも聞き及び、驚いて、家に連れ帰ろうとしたのだと思われます。もちろん、そこには血縁の者としての愛情もあったと考えられます。気が変になっている長男を連れ帰って、元の生活に戻そう、そしてまた家族や親族が変な目で見られないようにという心配もあったでしょう。 

 母と兄弟たちは、「外に立ち」とあります。カファルナウムの主イエスがおられた家は、群衆が押し掛けていて、母や兄弟たちは中に入れなかったようです。いやむしろ家族たちは積極的に入ろうとはしなかったとも言えます。「人をやってイエスを呼ばせた」のです。気が変になったと言われる息子の話を聞いている人々もまた普通の状態ではないと主イエスの家族には思われたかもしれません。なので、その中に入ることに抵抗があったのかもしれません。外に呼び出して、変な集団から主イエスを切り離して、説得して、連れ帰ろうと思ったのでしょう。家族にとって、人々に話をしている主イエスの姿は、別人のようであり、遠い見知らぬ存在に見えたかもしれません。彼らは、自分たちが知っている長男イエスの姿を求めました。 

 そもそも「外に立ち」というときの「外に」というのはエクゾーという言葉です。一方、「気が変になっている」という言葉は「心が外に行っている」「理性から離れている」というエクゼステミーという言葉です。主イエスが気が変になっている、つまり心が外に行っていると思っている家族が「外に」立っている、つまり実際のところ、「心が外に行っている」のはどちらなんだ、むしろ主イエスの母や兄弟の方が「外に」いるのではないかということも暗に示されていると考えられます。 

 その家族に対して主イエスの態度は、冷たいともとれるものです。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と呼びに来た人に対して「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」とおっしゃるのです。この言葉が外にいた家族たちに聞こえたのかどうかは分かりません。聞こえたかどうかは別にしても、この後に続く言葉と合わせましても、聞きようによっては、外にいる者たちは家族なんかじゃないよ、とおっしゃっているように聞こえます。主イエスはこの箇所だけでなく、ときどき、ご自身の家族に対して冷たいと感じるような言葉を語られることがあります。ヨハネによる福音書のカナの婚礼の場面では、「ぶどう酒がなくなりました」と知らせる母マリアに対して「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と答えておられます。息子の母に対する言葉としてはとても冷たい感じがします。主イエスだけではありません。弟子のヤコブとヨハネにしても、漁師だったふたりは、父ゼベダイと雇い人たちを舟に残して主イエスに従ったとあります。信仰者は、自分の家族を捨てて、神に従わないといけないのでしょうか。しかし、一方で旧約聖書の十戒には「父母を敬え」という戒めもあります。自分の父母を悲しませて、主イエスに従うことは良いことなのでしょうか。 

 もちろん、聖書において、この世の家族、親族のないがしろにしてよいということが語られているのではありません。信仰者たるもの、家族を捨てて神に従うのだというのではありません。家族より教会を大事にせよということでもありません。主イエスはおっしゃいます。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」主イエスが言われる「ここ」には主イエスの福音を聞きたい人もいたかもしれませんが、多くは主イエスに病気を治してもらいたいとか、悪霊を追い出してもらいたいという人々でした。「外に」立っている家族のみならず、家の中にいた人々も、主イエスがどなたかということは分かっていなかったのです。しかしなお、家の中にいる人々に対して主イエスは「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」とおっしゃるのです。 

 家の中にいた人々は主イエスのことは分かっていなかった、分かっていないということにおいて、家の外にいた母や兄弟たちとそれほど差があったわけではありません。しかし、「わたしの兄弟、姉妹、母」と言われた人々は、家の中にいたのです。主イエスの声が聞こえる周りに、近くにいたのです。よく主イエスという人のことを分かってはいなかったけれど、とにかくそばにいたのです。その人々を主イエスは「わたしの兄弟、姉妹、母」といってくださるのです。今、礼拝において、会堂の中に私たちはいます。あるいはネットを介してキリストの御言葉の近くにおられる方々がいます。そんな私たちに向かって主イエスは「わたしの兄弟、姉妹、母」だとおっしゃってくださるのです。私の家族とは、私の言葉を聞く者たちなのだと主イエスはおっしゃるのです。 

 教会は「神の家族」と言われます。家族なんだから仲良くしましょう、あるいは教会は皆が仲が良いから、支え合っているから家族なんだと思われるかもしれません。もちろん、教会は、皆が仲良く、祈り合い、支え合っていけたら良いとは思います。しかし、家族であるということは、血を分けた家族であっても、自分たちで選べないのが家族です。さきほど言いました十戒の中の「父母を敬え」という言葉は、儒教的な親を敬えという教えとは少し違ったニュアンスがあります。最近、親ガチャなどという言葉が言われますが、実際、親は選べませんし、親から見て子供も選べません。こんな兄弟はいやだと思ってもどうにもなりません。選べないということは神に与えられている関係ということです。教会が神の家族であるということは、神によって与えられた関係性なのだということです。同じ信仰を持っている、志を同じくした集団ということ以上に、神がその関係性を与えられたということです。思想信条を同じくする同志や仕事関係の組織であれば、選択の自由度に差はあっても、原則的には人間の側がその関係性を持つかどうかを選ぶことができます。しかし、家族という関係は、人間の側が選べないのです。神が与えられた関係なのです。世の中にはたしかに毒親といえるような親もいます。親だから絶対に従えということではなく、しかし神に与えられた関係として、それもこの世における最初の関係として尊重をするということが「父母を敬え」の意味です。 

 ですから「神の家族」としての教会という共同体も、神から与えられたというところが基本となります。もちろんまったく選択権がないかどうかといいますと、主イエスの側に来るかどうかという点においては人間側の意思が必要となります。その点において、家の外にいた母や兄弟たちは、主イエスのそばにいませんから、血を分けた家族ではありますが、主イエスからご覧になって神の家族とは言えません。 

 そしてまたここで注意しないといけないことがあります。主イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とおっしゃっています。「御心を行う」とはどういうことでしょうか。私たちはいま、主イエスの言葉を聞いています。聞くだけでなく「行い」なさいとおっしゃっているのです。では、私たちは、奉仕をしたり、隣人に親切にしたり、熱心に毎日祈ったりといったことを熱心に行ってはじめて、主イエスから家族と認められるのでしょうか。そうではありません。 

 今日の聖書箇所で主イエスの話を聞いていた人々は、12弟子を含めて、神の御心を行えなかった人々なのです。弟子たちの中には主イエスを銀貨30枚で売った者もいました。イエスなんて知らないと三回も否定した者もいました。十字架のときには弟子たち全員が主イエスを置いて逃げてしまったのです。弟子たち以外で主イエスの話を聞いている者たちの多くは、病気を癒していただいたら主イエスから去っていきました。ことによるとその中には主イエスが逮捕された時、「十字架につけろ」と叫んだ人すらいるかもしれません。 

 そのことを分かったうえで主イエスはなおおっしゃるのです。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。どうせあなたたちは御心は行えないだろうと意地悪でおっしゃっているのではありません。あなたたちは御心を行う人になっていくのだとおっしゃっているのです。今は、ただただ、自分の病を癒してほしいと思っているだけかもしれない。悩みを聞いて欲しいだけかもしれない。自分が理想とするイスラエルを建設したいと思っているだけかもしれない。そして、これから、いくたびも罪を犯し、神を悲しませ、隣人を苦しめ、自分自身も苦しむかもしれない。そんな一人一人を主イエスは「見回して言われた」のです。そこにいる一人一人を見回して、慈しんでおっしゃったのです。すでにあなたたちは私の家族である、と。 

 神の言葉は、発されたときに実現します。光あれとおっしゃったとき光があったように、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と主イエスがおっしゃったとき、そこに主イエスの兄弟、姉妹、母が起こるのです。そしてまた御心を行う人々が起こされるのです。いまは罪の底に沈んでいても、神の御心ができなくても、キリストの言葉を聞いている今このときから、あなたたちは御心を行うことができる人とされていくのだとおっしゃっているのです。いえ、神の御心の第一は、その言葉を聞くことです。ですから、今、主イエスの言葉を聞いている者はすでにみなキリストの家族とされているのです。そして主イエスの言葉を聞く者は変えられていくのです。神が変えてくださるのです。御言葉を聞き続けましょう。そして御言葉をますます行う者に変えられていきましょう。その時、教会もキリストの家族として成長していきます。私たちは一人で成長していくのではないのです。家族と共に成長をしていくのです。教会という神の家族の中で成長していきます。家族ですから、喧嘩もします。その喧嘩は、他人なら自制できることでも、つい言い過ぎたり余計傷つけ合うこともあるかもしれません。しかしその中で私たちは学んでいくのです。愛を学んでいきます。そんな私たちを見まわして主イエスは喜び慈しんでくださいます。 



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