ひげめがね日記

基本的に自虐的な日記です。自虐ネタが好きな方はお喜びいただけると思います。

一世一代の芸、生き残る芸

2012-12-05 22:38:12 | 日記
 朝早くに中村勘三郎逝去の報。「残念」以外の言葉が出ない。
 勘三郎の芸は一世一代の芸であったというのが私の認識である。一代の芸を持っている人は歌舞伎役者の中でも数少なく、ぱっと思いつくだけでも過去の役者では六代目菊五郎、歌右衛門。現役では玉三郎くらいか?あとは海老蔵の目?(笑)。
 勘三郎の一代の芸はその「愛嬌」であったと私は思っている。舞台に出てくるだけでぱっと明るくなる、あれは個人の持っている天賦の才以外の何物でもない。親父の勘三郎さんのことは知らないが、同じものを受け継いだと物の本には記されている。ただ、残念ながら現勘九郎にはその才は受け継がれなかった。それは努力が足りないとかいう類の話ではないので、こればかりは致し方なしと思っている。
 私は勘九郎(すみません、ひげめがねが観ていたのはほとんど「勘九郎」時代だったので、以下こう記します)が大好きだったので 歌舞伎座も平成中村座も、コクーン歌舞伎も見に行った。その中でも一番思いだされるのは、20年近く前だったか、「棒縛り」の時。あまりに客を楽しませようとして余計な動きをして棒を落としてしまった。それを見て観客から「あーー」という声が漏れたが、「残念」というより「まあ、中村屋の勘九郎ちゃんだからしようがない」という感じの嘆息であった。勘九郎は生粋のエンターティナーであると同時に、テレビなどの露出も多く「中村屋」の家のことをみんな知っていたから、役者としても一人の人間としても本当に皆から愛されていた。それを痛切に感じた瞬間であった。
 勘九郎は猿之助(現猿翁)のことを「兄さん」と呼んで慕っていたという。やはり同じエンターティナーだからだろう。しかし、その表現の仕方は異なると私は思う。勘九郎は一代の愛嬌であるが、猿之助は芸をシステム化した。それは「技」と呼ぶのがふさわしいのかもしれない。早替り、宙乗り、本水…。そういうことは今も生きていて、猿翁が舞台に居らずとも、現猿之助がそれを体現してくれる。もちろん役者の持っている「肚」は違うが、だからと言って舞台の楽しさが減ずるわけではない。猿之助歌舞伎を創出したのは猿之助の執念だと思う。詳しくは書かないが澤瀉屋は歌舞伎界のアウトサイダーであった。猿之助は何とか自分の芸を後世にも残したかったのではないか。そのためのいろいろな仕掛け、システムだったのだと思う。
 正当な歌舞伎で食っていける勘九郎も、舞台装置や仕掛けはあまり作らなかったかもしれないが、平成中村座という箱自体を作ってしまった!そして、彼の愛嬌に魅かれた人間たちを巻き込んで新しい歌舞伎を作っていった。平成中村座は今後も続くだろうし、創作歌舞伎もこれから上演されるであろう。でも、繰り返すが、彼のような歌舞伎役者はしばらくは出てこないし、彼の芸や肚は引き継がれることはない。本当に残念である。歌舞伎を見に行く動機が1つ減じてしまった。合掌。