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ネットに見る分断社会


 私はふだんから車いすでひきこもり生活をしているので、コロナ渦の自粛もさほど影響がなかった。日々の時間はあるが、詩作に充てることもなく、最近は惰眠とネットを貪っている。平生、社会には疎いのだが、ネットのSNS(ソーシャルネットワーク)の情報に翻弄されている。
 本来、ネットの双方向性は交流という利点があるが、いまや分断の元凶になっている感がある。多様な人たちのやり取りは、右と左、愛国と売国、他民族への差別的発言など、対立軸を作ることで、それぞれのトポス(居場所)を明確にしようとしている。
 身近なところでは、高齢者と若者、無職と労働者、生活困窮や要支援者へのバッシングなどで、どちらかに負のレッテルを貼って、色分けをしようとする傾向である。
 私がいちばん怖さを感じているのは、二〇一六年の「相模原障害者殺傷事件」や、この七月に発覚した「京都ALS嘱託殺人事件」の議論である。ネットでは一定の割合で、むしろ半数以上に見えるほど、犯人を擁護する意見が並んでいる。
「税金で生かして貰っているのだから仕方がない」、「生きる権利があるなら、死ぬ権利も与えるべき」などの意見である。これらの直線的思考は、顔の見えないネットでは過去にも散見されていた。
 ところがSNSの普及は、個人発信でありつつ多くの人が気軽に反応でき、拡散力を飛躍的に高めた。「いいね」数やリツイート(転送)数の多さが、そのまま扇動や片寄った社会風潮に結びつきやすくなった。日常に埋没している個人が、オリジナルであるかのような正義をかざし、注目を集め、英雄にさえなれるプラットホームとなった。
 このような大衆化された中では、道義的かどうかよりも「役に立っているかいないか」という、択一式の発想となる。大量情報の消費に、他者をおもんばかる必要はなく、大勢の側に付けば、自分のトポスが得られるのである。
 先の事件に関連して、ある国会議員は、安楽死や尊厳死の法整備を進めるべきと、記者会見でコメントしている。少し前までは、ネットは特化した集まりの少数派に思えたが、いまやネットの大衆化は現実社会に不吉な影響を与えている。政治がネットの情報を巧みに利用する時代となってきている。
 私は障害者という立場なので、社会的弱者に向けての「命の問題」に敏感にならざるを得ない。さらに、共生をうたいながら、人間関係が希薄になっているという現実。パソコンを前にして、ただ理不尽を問うていくしかない。 


                              「詩人の輪通信」第53号 2020.10.15
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