絵や詩をかいています。
制作日誌
「笛吹公園」とその界隈
家から直線で六〇〇メートルほどの距離に「笛吹公園」がある。いつから存在しているのかは不明だが、幼少のころは田畑ばかりの地だったので、工業団地が造成されはじめた五〇年ほど前ではないかと推測している。
高校を卒業して家で暮らすようになってから、車いすで散歩がてらこの公園にはよく寄るのだが、とくだん遊具らしいものはなく、ふじ棚といくつかのベンチがあるくらいである。けれどその意義は運動公園としてのグラウンドであり、少年野球や高齢者のボールスポーツなどをときおり目にする。
公園の形状は東西にのびた長方形で、ほぼ中央にケヤキ並木の通路があり、大小二面のグラウンドに隔てられている。南側のフェンス沿いにはサクラの木も並び、時期には花びらの散る様を、新緑から夏にかけては葉ずれの音を、秋には色づく紅葉の舞いを感受することができる。樹木は地を覆うようにやけに上へ伸びている。
公園を外周する北面では、最近流行りの瀟洒な住宅が点在し、メゾンとかいう建物や工場の看板が見え隠れしている。南面では信越線が並行に沿っていて、一時間に二、三本ほどの電車が通過する。公園内には「電車が通過中はピッチングを中断すること」と注意書きが立っている。
ホームベースから線路内まで目測で百メートルは満たないので、場外へ弧を描く少年の飛球を思わず想像してしまう。
線路の向こう側に目をやると、丘陵を背景に石けんを製造している工場が見える。幼少のときに八幡駅で見たときは、縦横の鉄パイプが巨大ロボットのようで怖かったが、それだけにどこか愛着もあり、郷愁を誘うような感慨が湧いてくる。すでに煙突から煙は見えないが、その要塞のような外観に魅せられて、ここでスケッチした画を最初の詩集に挿し絵として載せてもいる。
他所と違わず、午後になると路肩では休憩中の車両がぼんやり止まっている。そのトラックを横目に、踏み切りの警報音が鳴ればガードレールに近づいて左右に目を凝らし、ときに小中学校の終業チャイムや吹奏楽らしき音色に、見えない聴衆として参加する。
公園がお気に入りスポットかというと、じつは今まで公園の中央付近まで入ったことはなく、周囲の金網からグラウンド内を眺め入るか、入口に近いベンチ脇で休憩したくらいである。だから樹木が繁っていること以外、公園の細部についてはあまり知っていない。
どうやら私はこの公園が好きというよりは、この公園の南面に特化した一帯の、人気のない雰囲気が気に入っているらしい。とはいえどこからか歓声や機械音、あるいは自然の木霊も聞こえてくる。公園と周囲が相まって一つになった風景は、現実からはなれた曖昧な空間を醸し出している。また、四季を感じられる唯一の身近な場所にもなっている。
一年前に電動車いすを購入し、しばらく遠ざかっていた公園までふたたび足を運べるようになった。急坂を迂回すると実質一キロメートルの距離だが、テクノロジーの恩恵で楽に行けるようになった。コンビニまでわざわざ遠回りをして、ジュースを買って公園で一服する。心身の余裕からか、樹木のそよぎがいっそう気持ちよい。こんなとき詩の一編でも書ければと思うが、それさえも煩わしく感じられる。
「笛吹公園」という名称の由来をネットで調べてみたのだが、そのむかし、牛若丸が笛を吹いた場所という伝説があり、中学校の近くの「笛吹塚」から来ているらしい。
一方で「笛吹(ふえふき)」は「うすい」という読み方もあり、この場所が碓氷(うすい)郡に属していたことや、近くを碓氷川が流れていることなどから、「うすい」が「笛吹」になったのではないかとの説がある。ややこしい話しだがこちらも信憑性のある説で、いつか近隣の詳しい方に聞いてみたいと思っている。
なんの変哲もなく、どこにでもありそうな公園だが、通りなれた路地を、旧知の友に逢いに行くような楽しみを、この公園には感じている。
会誌「Scramble」156号より
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