絵や詩をかいています。
制作日誌
ダイレクトメール

秋冬もの大セール
淡いコピーに
あて名は今どきマジックの手書き
よほどの暇か時代おくれか
地域広告のクイズに応募し外れたが
代わりに年に二回は葉書が届いた
しつこさは気にしない
うすっぺらな紙切れは
放ってくず籠の底へ
ある日 太めのタイプで
完全閉店
永年のご愛顧ありがとう云々
一度も買ったことはなく
いつか通りがかりに覗いた
街路わきの平屋のウインドー
休まず届けられて二十五年
右肩上がりの筆跡は
知らずとひと目で判るほどに
店主はどんな理由で
名簿を閉じるのか
私の名前はもう書かれない
この日ばかりは
壁掛けの状差しへ入れた
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見えないものを

前回に続いて高崎現代詩の会、会誌Scramble99号(2009年4月26日発行)に、
「巻頭エッセイ」として拙文が掲載されたので、そのまま転載します。
見えないものを 最近の楽しみの一つは、DVDで映画を観ることです。今はレンタル店に足を運ばなくても、郵便で配達してくれる便利なシステムがあり、それを知ってから急に観始めるようになりました。昨年は暇に任せて百本くらい鑑賞したでしょうか。 映画の魅力の一つは、行ったことのない風景や人々の暮らし、或いはその国の歴史や文化を、居ながらにして知ることが出来る点だと思います。だから好んで洋画を選んで観ています。 映画はあくまで娯楽だと考えていますが、作り手のメッセージが感じられるものは、観終えた後も余韻が残るし、作品として素晴らしいなと感じるときもあります。 さらに気が付いたことは、そんな良い映画には必ず詩のようなものが流れていることです。画面に映らないから分かりづらいのですが、人の想いや空気感など、何かが胸に届いてきます。 もう一つの楽しみは詩作です。今さら改めて言うのも可笑しい気がしますが、楽しみというより、自分自身の防波堤のような役目として、永く続けて行けたら良いなと思っています。そして最近、意識するようになったのは、見えないものをどう表現するかということです。 今までは言葉そのものや、繋がりとしての意味しか気に留めていなかったのですが、果たして自分に必要なのは、別のところにあるのではないかと感じ始めています。 自己解釈をするなら、日常の会話で言葉の役割は人の想いを五〇パーセントくらいしか伝えられず、私のような口下手だと二〇パーセントくらい。残り五〇パーセント以上の伝わらない部分はこの空間に浮遊していて、そこに本当の気持ちや、夢や希望が存在している。そこを詩で伝えるべきではないかと、漠然と考えています。 言葉の意味以上のもの、イコール見えないものとして意識していて、敢えて譬(たと)えるなら空想や妄想、ファンタジーと言い換えても良いでしょう。 ここ四、五年前から、あちこち身体の不具合が出てきて、現実の先行きに心細さを感じている日々ですが、映画鑑賞や詩作で見えないものを感じ、自分なりに表現したいと思っています。それがたとえ現実逃避であったとしても…。 先に詩を書くのが楽しみと書いたのは、そんな見えないものとの出会いが今後どう生まれるのか、自分への未知への期待感も含まれているのかも知れません。 |
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