絵や詩をかいています。
制作日誌
遊び・楽しむ
「遊び」という言葉は日常的に使われるが、その使われ方は広範である。辞書で調べてみると「賭け事や酒色にふけること」「仕事がないこと。暇なこと」とある。自分のことかと気まずくなってしまう。一方で「物事にゆとりのあること」「ハンドルの遊び」もあり、こちらは豊かな精神世界として考えられる。どうやら遊びには相反する二面性があるようだ。「遊び人」というと不真面目なように思われるし、「遊びに行く」は、気晴らしとか余暇活動として、あるいはお愛想として好まれる場合もある。言葉の意味を考えると複雑なので、ここでは遊びという行為について考えてみた。
〈遊びは本質に導く〉
野球に関心のない方も居ると思うが、私の最近の楽しみはテレビで大谷翔平選手の活躍を観ることだ。その前はイチロー選手(以下敬称略)だったが、二人に共通しているのは打って投げて走ってと、何でもできる点にある。イチローは二〇一九年の引退会見のとき、「今後は草野球を極めたい」と述べている。また大谷は二刀流が持ち味だが、彼曰く「僕はそういう表現は使わない。野球の中で投げて打ってを区別することはないので(※)」と二人とも野球少年そのままだ。真剣さの中にどこか遊び心が感じられる。
近代野球はビジネス化が進み、投手は投げるだけ、野手は打つだけの分業制が常識となり、野球をつまらなくした面がある。そもそも野球に限らずスポーツの起源はどこかの野っ原で、面白いから、楽しいからと自由な雰囲気で始まったように思う。この二人はそんな野球の原点を思い起こさせる。しかも野球の本場アメリカで実践していることが、近代合理主義への挑発にも見えてなんとも痛快なのだ。
〈遊びは自由ではない〉
私が遊ぶと言った場合、パソコンゲームをするかパチンコに行くかぐらいだが、これは現実逃避ともいえる。遊びと趣味は違うのかという疑問もある。肝心の詩作はどうかというと、正直あまり楽しいとは言えない。ただ発表できる場があって、誰かに読んで貰えるという前提があるから、書く気にもなる。受け身的な言い方だが、褒められたい、認められたいとか下心的なところもある。ただ、思ってもみない詩が書けたときは楽しいときもある(偶然性・意外性)。ついでに言うと、詩を癒やしで書いているという面もある。
詩には遊びが必要だとよく言われるが、これは無駄書きや思考の上書きでもあろう。そういえば絵空事や偽りを書いても、文法を無視しても許されるのが詩だ。時間や空間の隔てがない。とするなら詩には遊びの要素がかなり多い。だからといってそれが自由かといえば、また別の話になると思う。
* *
遊びは周囲の有り様と対置している。現代社会の効率性、進歩性、秩序性、利益性などに対して、非効率性、非科学性、非常識、非利益性など、ほぼ否定形を含んでいる。しかし遊びはあるべき人間の能力であり、対置でも新しさでもない。すでに組み込まれるべきものだからだ。「ハンドルの遊び」は駆動に必要だから備わっているのであり、システムと一体になっている。それは知恵や工夫とも言える。遊びがことさら対比的に扱われるのは、社会構造の正当化に卑小とされ、社会通念やモラルといった名目に押しやられたためだろう。最近の細かなルールやコンピューターに縛られる社会は、遊びの本来性を失っているといえないか。遊びは設定するものではなく、湧いてくるものだ。
あるいは一杯のコーヒーが一日のささやかな活力になるときがある。精神的なゆとりも遊びの一つであろう。大言壮語のわりには、私はどうも身近な遊びに欠けているようだ。
(※)文春オンライン2021/08/22から引用
個人詩誌「風の中へ」第3号 2022.9.10
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大切なもの
街頭インタビューで「あなたの大切なものは?」と聞かれたら、なんて答えるだろうか。家族や時間、あるいは平和だろうか。深く考えたことがないので、その場の思いつきで答えてしまいそうだ。「分からない」では軽薄な人間に思われそうなので、取りあえず何か答える用意はしておきたい。
そう思って見わたすと、私の大切なものは、一冊の写真アルバムである。四十年間に出会った仲間(すでに他界した人も含めて)との思い出が詰まっている。これが火事や泥棒で失われたらガッカリすると思う。でも本当に大切かどうかは、よく分からない。
私はよく「自分を大切にしなさい」と生活や創作面で言われてきた。ただ自分で言うには良いが、他人から言われると何か無責任に感じられる。自信を持て、頑張れ、意思を持てなど、色々な意味で言っているのだろうが、そんなに自分に負荷を与えてどうするのかと思う。他人のことは一生懸命になれても、自分のことは案外いい加減だ。「医者の不養生」と言うではないか。
「大切なもの」などあったら鬱陶しい。切るという語が使われている。そう思って調べてみると、やはり刃で切るという意。親切・切望・切迫・切断など、語の組み合わせで意味が変わる。共通するのは心や想いが含まれているらしいこと。といって愛や優しさでは、こそばゆい。やはり生活にはお金が大切だ。病気になれば健康の大切さを思い、温暖化の加速を聞けば、自然の大切さを思う。相対的に大切なものは変わってくるようだ。
喜劇俳優のチャップリンは「人生に必要なのは勇気と想像力と、ほんの少しのお金である」※と言っている。 後半の〝ほんの少しのお金〟のリアリティがあるから、勇気や想像力にも説得力が感じられると思う。必要を大切と言い替えてなお、私の好きな言葉である。
「○○を大切にしよう」などと啓蒙的に使われることもある。私はなにか一つのことに決めかねてしまう。目の前のものすべてを大切にしたいとも思う。そう模範解答でごまかすしかないくらい、大切なものは言葉に表しづらく、えらぶには難しい深いもののようにも思われる。
※映画「ライムライト」での台詞
個人詩誌「風の中へ」第2号 2021.10.8
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とおのく
足し算は
増えつづけるので
努力や積みかさねと
相性がいい
引き算は
減ったかわりに
望むものはやって来ず
マイナスだけが染みつく
採点ノートは
花マルだったのに
もうだれも
教えてくれない
ひとりでは
かけ算もわり算も
必要がなく
足し算と引き算で
充足する日々
答えのない問いには
ふれたくない日々
古代人には
ゼロやマイナスの数字は
ありませんでした
というラジオからの話しに
きき耳をたてた
「群馬年間詩集No44」2021.11.13
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アンドロメダ
ぼくは
月よりもとおく
はるか向こう
アンドロメダじゃないか
ってときどき思う
ずっとたどり着けない
いくつもの場所が
近くにもあるが
たどり着けないってことでは
どちらも同じさ
欲しいものを
あれこれと並べて
突っついてみる
するりと通りぬけて
重力の向こう
なにもない
見えない粒子が
ひそめいている
暗黒から
語りかけてくる
聴いてごらん
あの星は
だれも抱かない
人がヒトをなぞり
透けている
貴女を見つけられない
アンドロメダよ
どこへ行く
生と死が
皮膚をつたって
輪舞する
2021「詩と思想詩人集」
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街頭演説会
引きこもった室から
冬まだはやい街へ出る
高崎駅前の高層化に
浮かれ気味とすこしの戸惑い
向かうところは
ネットで知った街頭演説会
重度障害者二人を議員に
国政政党になったばかり
「頑張らなくても良い社会を!」
気づかぬ思いが
夢にたなびき
聴衆の吐息とともに
ネオンを渡っていく
「生きてるだけで価値がある!」
沈黙の羊たちよ
抹消された哀しみよ
福祉は顔々を同じにし
そぐわぬ合理性に
一縷の希望が点灯する
幸せよ 来い
みんなに 来い
俺に 来い
こころの中で呟き
ふたたび冬の街へ
「群馬年間詩集No43」2020.11.14
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中空授業
雲間が開くと
みんな着席していた
おくれて先生があらわれた
自己紹介がはじまった
ずいぶんと年月が経ち
顔と名前がズレている
変わりばえのない僕を
覚えているだろうか
背の丸い先生は
羊皮紙を配った
ぶ厚い教科書は不要らしい
とたんにさわさわした
えーと、
この前のつづきから
と冗談めいた
ふることをくだり
千年の奇跡を疑った
可笑しなものだな年月って
姿も気持ちも変えてしまう
コノハナサクヤ
秋空と枯葉がまぐわって
宝石にゆらめく枠飾り
にぎやかな森には
もう戻れないみたいだ
いつのまにか伽藍堂
さようなら
次回までは復習をやっておきます
個人詩誌「風の中へ」第1号 2020.12.10
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つながり
ひとくちに「つながり」といっても漠然としているが、ここでは「人とのつながり」を意識してテーマに選んだ。私は人間関係にいちばん小心であり、かつそれをいちばん気にしている。詩を書く理由も、人との出会いを求めているからかも知れない。
三・一一大震災の後、「絆(きずな)」という語が広まった。困難を乗り越える、助け合い、連帯などを一括りに表したものと解していたが、本来の意味は「馬をつなぐ綱」であり、人の行動や自由を束縛することらしい。古事では、あまり良い意味ではないようだ。
人をつなぐ言葉にどのような語があるだろうか。「思いやり」、「仲良く」、「縁」など、在り来たりの言葉しか思いつかない。胡散臭い言葉は幾つかある。「共生」、「多様性」など。本意はよく分からないが、白々しく聞こえるのはなぜか。「寄り添う」にいたっては、添い寝レベルならともかく、少なからず優位性や上下関係を感じてしまう。素直さに欠けるからだろうか、
人は一生の間にどのくらいの人と巡り会うのか。名刺ストックは一冊には届かない。携帯電話のアドレス帳には一〇〇件ほど入っているが、実際に連絡しているのは二、三件だ。消去ならいつでもできると思って、そのままにしている。
街の雑踏ですれ違ったり、買い物で一言二言の声をかけた人数など、偶然やいっときの出会いまで含めたら、一気に広がる。
私は街ブラが好きで、駅前の歯医者の帰りに、一時間ほど散策する。町並みの変化を観察するのも面白いが、何か人混みに紛れる安心感のようなものがある。
萩原朔太郎に「群衆の中を求めて歩く」という詩があるが、あの空気に近いと思う。個々ではなく、人の気配とのつながりとでもいうことか。
好きな作家、あるいは画家など、会ったこともないが、作品からその作家に憧れるときもある。あるいは映画やドラマの架空の人物といった場合もあるだろう。もっといえば、過去となってしまった死者ともつながっている
日々の暮らしは寂しいが、意外に自分の中に「つながり」は生まれているようだ。
三・一一大震災の後、「絆(きずな)」という語が広まった。困難を乗り越える、助け合い、連帯などを一括りに表したものと解していたが、本来の意味は「馬をつなぐ綱」であり、人の行動や自由を束縛することらしい。古事では、あまり良い意味ではないようだ。
人をつなぐ言葉にどのような語があるだろうか。「思いやり」、「仲良く」、「縁」など、在り来たりの言葉しか思いつかない。胡散臭い言葉は幾つかある。「共生」、「多様性」など。本意はよく分からないが、白々しく聞こえるのはなぜか。「寄り添う」にいたっては、添い寝レベルならともかく、少なからず優位性や上下関係を感じてしまう。素直さに欠けるからだろうか、
人は一生の間にどのくらいの人と巡り会うのか。名刺ストックは一冊には届かない。携帯電話のアドレス帳には一〇〇件ほど入っているが、実際に連絡しているのは二、三件だ。消去ならいつでもできると思って、そのままにしている。
街の雑踏ですれ違ったり、買い物で一言二言の声をかけた人数など、偶然やいっときの出会いまで含めたら、一気に広がる。
私は街ブラが好きで、駅前の歯医者の帰りに、一時間ほど散策する。町並みの変化を観察するのも面白いが、何か人混みに紛れる安心感のようなものがある。
萩原朔太郎に「群衆の中を求めて歩く」という詩があるが、あの空気に近いと思う。個々ではなく、人の気配とのつながりとでもいうことか。
好きな作家、あるいは画家など、会ったこともないが、作品からその作家に憧れるときもある。あるいは映画やドラマの架空の人物といった場合もあるだろう。もっといえば、過去となってしまった死者ともつながっている
日々の暮らしは寂しいが、意外に自分の中に「つながり」は生まれているようだ。
個人詩誌「風の中へ」第1号 2020.12.10
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デジタル化は何を変えていくのか?
新聞やテレビで「デジタル化」という言葉を見るようになった。九月に管内閣が発足し、「デジタル庁」の新設を発表した。コロナ渦においてソーシャルディスタンス(社会的距離)が求められ、遠隔操作が普及されつつある。こうした生活形態が、遅れたデジタル化を進める好機となった。
デジタル化はあらゆる電子化による効率化である。いまに始まったことではなく、病院や金融機関の電子カード、パソコンや携帯電話など、見渡せば私たちの生活はデジタルの波にたゆたっている。
たとえるなら、連続した時間の流れがアナログであり、数値化した点を繋げて、視覚化するのがデジタルである。こうして書いている文章もワープロの点集合であり、一筆の字形に見せかけている。身体感覚がアナログならば、人工的な虚構がデジタルだ。はたして私たちの生活は、薄らさむい虚構に満ち満ちていくのだろうか。
デジタル化はすべての人にサービスが平等に提供され、「生活の豊かさ」という名目がある。いずれ、公共交通の自動化、病院の遠隔診療、介護や行政窓口のロボット化など、想像もできない環境が予定されている。裏を返せば、加速する人口減少、少子高齢化、労働力不足など、いびつな社会構造ゆえに、そうせざるを得ない事情というのも見えてくる。はたしてその行く末は、豊かさと結びつくのだろうか。
デジタル化は通信を含む先端技術(テクノロジー)の一部である。耳慣れない専門用語が多いので、素人には分かりづらい。公共事業であっても道路工事と違って、やっていることが目に見えない。「情報は二十一世紀の石油」とも形容されている。個人情報の漏えいや流用も心配である。知らぬ間に、個人が監視社会の囚われの身となる危惧がある。
まるで否定ばかり書き並べているが、私のような障がいをもつ者には、デジタル化は社会参画を可能にする有効なツールとなっている。在宅によるリモートワークや電子機器による意思伝達は、埋もれた能力を開発する選択肢となる。高性能の電動車いすは、生活範囲を広げる一助ともなった。
先日、テレビアナウンサーが「ハンコをきれいに押したときの快感がたまらない」と脱ハンコ化に意見を述べていた。おそらく今までがそうであったように、便利さへの小さな抵抗は時間とともに回収され、生活の一部に取り込まれるだろう。しかし一度進んだら後戻りできないのが、科学の性質である。そのデジタル化はなぜ必要で、それは何のためにあるのか。そのあたりの本質を、注視していくべきだろうと思っている。
デジタル化はあらゆる電子化による効率化である。いまに始まったことではなく、病院や金融機関の電子カード、パソコンや携帯電話など、見渡せば私たちの生活はデジタルの波にたゆたっている。
たとえるなら、連続した時間の流れがアナログであり、数値化した点を繋げて、視覚化するのがデジタルである。こうして書いている文章もワープロの点集合であり、一筆の字形に見せかけている。身体感覚がアナログならば、人工的な虚構がデジタルだ。はたして私たちの生活は、薄らさむい虚構に満ち満ちていくのだろうか。
デジタル化はすべての人にサービスが平等に提供され、「生活の豊かさ」という名目がある。いずれ、公共交通の自動化、病院の遠隔診療、介護や行政窓口のロボット化など、想像もできない環境が予定されている。裏を返せば、加速する人口減少、少子高齢化、労働力不足など、いびつな社会構造ゆえに、そうせざるを得ない事情というのも見えてくる。はたしてその行く末は、豊かさと結びつくのだろうか。
デジタル化は通信を含む先端技術(テクノロジー)の一部である。耳慣れない専門用語が多いので、素人には分かりづらい。公共事業であっても道路工事と違って、やっていることが目に見えない。「情報は二十一世紀の石油」とも形容されている。個人情報の漏えいや流用も心配である。知らぬ間に、個人が監視社会の囚われの身となる危惧がある。
まるで否定ばかり書き並べているが、私のような障がいをもつ者には、デジタル化は社会参画を可能にする有効なツールとなっている。在宅によるリモートワークや電子機器による意思伝達は、埋もれた能力を開発する選択肢となる。高性能の電動車いすは、生活範囲を広げる一助ともなった。
先日、テレビアナウンサーが「ハンコをきれいに押したときの快感がたまらない」と脱ハンコ化に意見を述べていた。おそらく今までがそうであったように、便利さへの小さな抵抗は時間とともに回収され、生活の一部に取り込まれるだろう。しかし一度進んだら後戻りできないのが、科学の性質である。そのデジタル化はなぜ必要で、それは何のためにあるのか。そのあたりの本質を、注視していくべきだろうと思っている。
「Scramble」第169号 2020.12.20
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ネットに見る分断社会
私はふだんから車いすでひきこもり生活をしているので、コロナ渦の自粛もさほど影響がなかった。日々の時間はあるが、詩作に充てることもなく、最近は惰眠とネットを貪っている。平生、社会には疎いのだが、ネットのSNS(ソーシャルネットワーク)の情報に翻弄されている。
本来、ネットの双方向性は交流という利点があるが、いまや分断の元凶になっている感がある。多様な人たちのやり取りは、右と左、愛国と売国、他民族への差別的発言など、対立軸を作ることで、それぞれのトポス(居場所)を明確にしようとしている。
身近なところでは、高齢者と若者、無職と労働者、生活困窮や要支援者へのバッシングなどで、どちらかに負のレッテルを貼って、色分けをしようとする傾向である。
私がいちばん怖さを感じているのは、二〇一六年の「相模原障害者殺傷事件」や、この七月に発覚した「京都ALS嘱託殺人事件」の議論である。ネットでは一定の割合で、むしろ半数以上に見えるほど、犯人を擁護する意見が並んでいる。
「税金で生かして貰っているのだから仕方がない」、「生きる権利があるなら、死ぬ権利も与えるべき」などの意見である。これらの直線的思考は、顔の見えないネットでは過去にも散見されていた。
ところがSNSの普及は、個人発信でありつつ多くの人が気軽に反応でき、拡散力を飛躍的に高めた。「いいね」数やリツイート(転送)数の多さが、そのまま扇動や片寄った社会風潮に結びつきやすくなった。日常に埋没している個人が、オリジナルであるかのような正義をかざし、注目を集め、英雄にさえなれるプラットホームとなった。
このような大衆化された中では、道義的かどうかよりも「役に立っているかいないか」という、択一式の発想となる。大量情報の消費に、他者をおもんばかる必要はなく、大勢の側に付けば、自分のトポスが得られるのである。
先の事件に関連して、ある国会議員は、安楽死や尊厳死の法整備を進めるべきと、記者会見でコメントしている。少し前までは、ネットは特化した集まりの少数派に思えたが、いまやネットの大衆化は現実社会に不吉な影響を与えている。政治がネットの情報を巧みに利用する時代となってきている。
私は障害者という立場なので、社会的弱者に向けての「命の問題」に敏感にならざるを得ない。さらに、共生をうたいながら、人間関係が希薄になっているという現実。パソコンを前にして、ただ理不尽を問うていくしかない。
本来、ネットの双方向性は交流という利点があるが、いまや分断の元凶になっている感がある。多様な人たちのやり取りは、右と左、愛国と売国、他民族への差別的発言など、対立軸を作ることで、それぞれのトポス(居場所)を明確にしようとしている。
身近なところでは、高齢者と若者、無職と労働者、生活困窮や要支援者へのバッシングなどで、どちらかに負のレッテルを貼って、色分けをしようとする傾向である。
私がいちばん怖さを感じているのは、二〇一六年の「相模原障害者殺傷事件」や、この七月に発覚した「京都ALS嘱託殺人事件」の議論である。ネットでは一定の割合で、むしろ半数以上に見えるほど、犯人を擁護する意見が並んでいる。
「税金で生かして貰っているのだから仕方がない」、「生きる権利があるなら、死ぬ権利も与えるべき」などの意見である。これらの直線的思考は、顔の見えないネットでは過去にも散見されていた。
ところがSNSの普及は、個人発信でありつつ多くの人が気軽に反応でき、拡散力を飛躍的に高めた。「いいね」数やリツイート(転送)数の多さが、そのまま扇動や片寄った社会風潮に結びつきやすくなった。日常に埋没している個人が、オリジナルであるかのような正義をかざし、注目を集め、英雄にさえなれるプラットホームとなった。
このような大衆化された中では、道義的かどうかよりも「役に立っているかいないか」という、択一式の発想となる。大量情報の消費に、他者をおもんばかる必要はなく、大勢の側に付けば、自分のトポスが得られるのである。
先の事件に関連して、ある国会議員は、安楽死や尊厳死の法整備を進めるべきと、記者会見でコメントしている。少し前までは、ネットは特化した集まりの少数派に思えたが、いまやネットの大衆化は現実社会に不吉な影響を与えている。政治がネットの情報を巧みに利用する時代となってきている。
私は障害者という立場なので、社会的弱者に向けての「命の問題」に敏感にならざるを得ない。さらに、共生をうたいながら、人間関係が希薄になっているという現実。パソコンを前にして、ただ理不尽を問うていくしかない。
「詩人の輪通信」第53号 2020.10.15
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歩行
歩きつづける
跳んだり蹴ったり
でんぐり返ったり
そんな柔らかさと併せて
戻らなくていい旅を
想像しながら
近くをうろうろ
迷いあぐねて
電動車いすのパンフ
女は顔をしかめ
とりつくしまもない
じっと視姦し
帰り道は
黄昏のイエローロード
梢は風でゆれるのに
意思をなぜ問うのか
助け合いとは
と歩行しながら考える
2020.9「詩と思想」
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