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79歳の老人です。2年前まで現役で仕事をしていましたが、今は、趣味の
囲碁と読書と旅行などのほか朝の散歩が楽しみです。

戦後の造船業が栄えたのは

2018-11-06 09:27:03 | 日記

先に日本の造船の始まりについて書いたが、戦後に日本の産業として活躍したものとしては、

電気、通信などと並んで、自動車、造船があげられると思う。この中で、造船が何故に盛んに

なったかは、戦前、戦艦大和を造るだけの技術をもっていたことは、判るが、一度、すべての軍需

に使用された船は、米軍の指導で、すべて沈められたのである。これを理解するために、いろいろと

調べた。この造船の始まりは、明治の40年のはじめに遡る。このころは、造船市場はほぼ貨客

船建造であったが、日露戦争後に三菱造船所が国産化をいち早く取り組んだ。このころは、中小型貨客船が

支流で輸入と国産が同規模で推移しているが、明治42年以降は、三菱神戸造船所、大阪鉄工所

浦賀造船、などが2000トン規模の船を国産化していた。船会社の日本郵船は、英国の会社と協力して、

T型貨物船(7500トン)を開発し、輸入していたが、その後は三菱と川崎へ発注している。また、東洋汽船は、

石油輸送のため、5000トン級の輸送船を外国や三菱へ発注している。また、三井物産は、して明治44年に石炭、

木材輸送の船(4000トンクラス)を英国などへ発注している。このように、日本においては、国産化は、

英国の造船技術を吸収することからなりたっていることが判る。しかし、この造船に繋がる技術者はどうして

養われたかを調べると明治10年後半の時代に、この技術者を教育する機関を政府が作っており、約200人

ほどが4年間の間に生まれ、その人たちが、三菱や神戸などの造船所をたちあげていることが判った。

この人たちが、昭和に入り、軍需産業が活発になると、多数の軍艦を製造することへ変遷していくのである。

しかし、第二次世界大戦が終わり、戦後にはいってからは、各地で、元の貨客船への技術は残っており、残って

いた技術者が中心となり、造船所を復旧させたのだ。このように、日本の造船技術は明治の初めに取り組んだ

教育が実を結んだ結果なのだ。