“名君”水戸光圀の仁政
藩主としての光圀の活動が本格化するのは、父頼房の3年の喪があけた寛文3年頃からである。
「頼房卿後逝去の後三年の間、頼房卿の御仕置きを御用ひ、少も御改被成候」(桃源遺事)。
定府制により、江戸常駐を義務づけられていた光圀であるが、30年間の藩主在任中、前後11回にわたり就藩帰国して水戸城に滞在し(歴代水戸藩主のなかで最も滞在日数が多く約90ヶ月に及んだ)、領国経営に力を注ぐとともに、領民との接触に努めた。
藩政の遂行に関しては「我が為に非ざるなり、以て人を利するなり、今日の為に非らず、以て将来を冀ふなり」(義公行実)という言葉を常に口にしていたと伝えられている。
そしてその仁政ぶりは、領内だけでなく全国に知れわたり、幕末期以降現在に至る「水戸黄門」の源となっている。
ただし、水戸藩主としての光圀に関しては、光圀時代の年貢率の高さ、藩財政の大幅な赤字、「附荒」(本来なら作付けされる田畑が、作付けされずに放置されて荒廃した耕地のことで、耕作農民の逃亡や、耕地保全策がなされないことが原因とされる)事態にもかかわらずに、大日本史編纂や快風丸建造などに多大な支出を行った。
さらに定府制による江戸屋敷費用の増大もあって水戸藩尾財政が破綻し、これに伴う元禄3年の光圀引退に至ったことなどから、必ずしも“名君”とはいえない一面がある。
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天下の副将軍
光圀には水戸藩主としてそのその領国の経営に責任をもつ以外にも「御三家」の一員として徳川幕附を支えるという人きな役側があった。
光圀30年の藩主時代を、将軍の治世でみると四代家綱の後半19年と五代綱吉の前半11年にまたがっている。この間、光圀がどのように幕政に関わったのかははっきりわからないが、幕府運営上重大な出来事がおこるたびに光圀が関わっていることが見える。
まず1680(延宝8)年の将軍嗣問題である。
この年の5月、四代将軍家綱が後嗣のないまま没したため、誰を嗣子に立てるのか衆議混乱状態になった。
『徳川実記』によれば、当時「下馬将軍」と称されて幕府の実験を握っていた大老酒井忠清が、鎌倉幕府にならって、京都から有栖川宮親王を迎えようと画策し、幕閣もこれに傾きつつあったが、老労堀田正俊一人だけが反対、血統論で家綱の弟館林藩主綱吉を推挙したので、これに従ったとされている。
一方、「御三家」の一員としてこの問題に発言権のある光圀の対応については、『水戸紀年』に次のように記されている。
「厳有公(家綱)疾病ナルヤ嗣立未定衆議紛紜タリ公(光圀)ノ一言館林綱吉卿ヲ養君ニナシ玉ヒ大統ヲ嗣セラルト云」。
つまり光圀の一言で五代将軍綱吉が誕生したとなっている。
しかし事実はそう単純なものでもなく、『徳川実紀』にある堀田正俊の発言の背後には、御三家を中心とする徳川一門の動きがあり、実際にはその動きが酒丼忠清の計画を封じて綱吉の嗣立に成功、大奥も絡んだ複雑な政治的暗闘の結果、ついに家綱の遣言というかたちで問題は決着したのであろう。
「副将軍」という役職はなかった
江戸幕府が開かれたが、幕府内に「副将軍」という役職はなく、江戸時代において副将軍が任ぜられることは一度もなかった。
しかし、水戸家は御三家ではないという説があり、水戸藩主は将軍の名代、天下の副将軍または水戸の副将軍と称されることが多い。
家康が元和元年(1615)8月に定めたといわれる「公武法制応勅十八箇条」には、第12条に、将軍と尾張家・紀伊家を三家と定め、第14条に水戸家を副将軍と定めている。
そして尾・紀両家は将軍の政治が悪しく国民が苦しむ時に、代わって将軍となるべき家柄であり、水戸家は将軍を取りかえる必要がある場合、その選任を指図すべき家柄である、と説明している。
〔出典:ウキペディア〕
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公武法制応勅十八箇条 (こうぶおうちょくじゅうはっかじょう)
元和元年(1615年)8月に徳川家康が、後水尾天皇の勅命を受けて御所の紫宸殿に掲げるために定めたとされている18ヶ条。ただし、今日の法制史においては「偽法令」であるとされている。
『徳川禁令考』前集一に諏訪氏所蔵として引用されており、武家政道と天下太平について定めたものとされる。
ところが、その内容は当時の幕府の法令に形式に則しておらず、特に第18条に至っては当時存在する筈の無い「東叡山」(寛永寺の山号。同寺の創建は元和元年から10年後の寛永2年(1625年)で、山号もこの時に天海が命名した)という言葉が登場するなど矛盾が多く、今日の法制史の研究者の間ではその存在を否定されており、公家政権(朝廷)に対する江戸幕府の優越的地位を示すために創作された偽文書であると考えられている。
また、岡野友彦は源氏長者の地位を本来持っていた公家の役職としての奨学院淳和院両院別当としての意味から武家の棟梁としての意味に換骨奪胎していることに注目し、この文書を偽造した人物が徳川将軍家が源氏長者の地位を根拠として公家政権(朝廷)の支配を行おうとした方針を文書に反映させているとしている。
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ところが、この家康制定という法制は全部後の偽作であって、信用することはできず、家康が三家の格式をこのように定めたことはない。しかし、このような考え方が一部にあった証拠にはなるのである。
このほかにも「校合雑記」に、光圀から大久保長十郎長栄が直々承わった話として「世上で尾・紀・水を三家と考えるのは心得違いである。公方(将軍)と尾州・紀州を三家という。水戸家は三家の後見のようなもので、三家に我がままをさせぬように意見をして、行跡をも吟味する役目の家である」と仰せられた、という。
また江戸後期の名随筆「事蹟合考」には、尾・紀・水、御三家のうち、特に水戸家は将軍の名代として軍用を勤める家柄で、そのため常々幕府の旗本・役人を見知っておき、江戸に定詰(じょうづめ)である、と記している。
その大意は、『大坂役の後、神君の計らいで御三家を定めて天下鎮護の任に当たらしめ、本丸に嗣子がないときは三家の順で相続させ、義直・頼宣は西方の鎮護、頼房は将軍の名代として軍用および四海の地域、異地の征法などをつかさどるべし、と命ぜられた。
そのため水戸藩は将軍の采配によって凶徒征伐に向かわれる定めである。この事情で光圀の時代までは、毎年3月13日から8月12日まで、慕府の小役人の組頭以上惣旗本の列の人は、毎日非番次第五人三人ずつに限り、十人百人たりともその日限の中に一度水戸家書院に出て、一汁三菜の料理を受けた。
この時、水戸家の享主役の者が来客一人ずつの名を呼び掛け「何某よく喰いやれ」と挨拶する習わしであった。これは水戸家が将軍の名代として幕府の人数を指揮するとき、旗本の面々を見知っておくためである。将軍の名代であるから、元和以来、定詰で、一年のうち、「鷹野御暇」(たかのおいとま)として百日ずつ帰領される。このような家柄だから家綱将軍が幼少のとき、光圀が在府して天下の政を後見された』という。
このほか「新編柳営続秘鑑」にも、公方家と尾・紀両家を御三家とすることを一説として伝えており、尾張藩・紀伊藩では、元来秀忠・義直・頼宣を御三家(又は三人様)と呼んだが、水戸家が分かれ出たのち尾・紀・水を御三家とした、との説があった。
これらの諸説のうち、水戸家「非御三家説」は格式上のことで政治上の意味はうすいが、副将軍説は、政治上、軍事上、大きな意味をふくむものである。
水戸藩中では副将軍説につき、特別に詳記したものは見当たらないが、案外ひろく信ぜられていたようである。事実、1819(文政2)年7月、青山拙斎の藩主斉脩(なりのぶ)への建白書に「御当家は天下の副将軍と奉称、有事ときは幕下御名代にも被為。成候御儀に侯得ば、御代々様方御武芸熟練の御儀奉存候」とある。
またこれより以前、1807(文化4)年3月小宮山楓軒の建白書にも、万一の節は「副将軍御出陣」の用意に不足なきよう心掛けねばならない、といっている。慕末には政争の激化とともに、このような考えが一段と具体的となった。
三条実萬らの尊撰派の公卿が安政5年(1858年)、斉昭に副将軍の宣旨を下すよう策動し、「水戸前中納言事、文武両道之聞有之、且従来報国之心懸神妙之義に付、今度副将軍宣旨可被下御内意被仰出候事」と実萬が手記している。
斉昭もまた水戸家が格別の家柄(将軍の名代)であることを確信していた証拠に、1844(弘化元)年5月5日、幕府老中あての書状案に、「三家之義は乍恐将軍家御兄弟の家にて、且拙家初代源威事、大猷公より難打尊慮有之、誓紙をも指上、御内々御書をも頂裁いたし居候へは、代々右之心得にて、非常之節は御旗本の下知も致侯心得にて」と記している。
すなわち、水戸家では代々将軍の名代をもって自任していたことは、明らかである。
「源威」(頼房)が、大猷公(家光)から有りがたい「尊慮」を受けて誓紙を差上げ、内々で御書をも賜わったというのは、家光が御三家の叔父のうち頼房と親密な間柄で「兄弟のように力を協せたい」(年令では頼房は一つ年上)という意味の直書を頼房に与え、頼房からも誓紙を上呈したものである。その家光の直書は「格別の家柄」の証して、水戸家に代々保存され、「水戸藩史料」にも収載されている。
このような考えが、幕末の政局に対する自負心と責任感とを水戸の人々に植え付けたことであろう。また明治時代にでき水戸黄門漫遊の物語にも「天下の副将軍であるぞ」という一喝が、いつも悪人を慴伏させていることは、ひろく世に知られている。
ただし、水戸家副将軍説には確かな根拠がなく、また幕府が水戸家を特に刷将軍(又は名代)と定める事情もないので、表向きの真実とは考えられない。
慕府はもちろん、諸大名がこれを認めていたわけでもないが、水戸藩主の地位が他の大名と違って、参勤交代せずに常に江戸に留まる定府が義務付けられていたこと、将軍の補佐役として重きを成していたことなどから、水戸藩士にはそうした自負があったものと思われる。
おそらくこの説の源は、前記家光の直耕や光圀一代の名声などにもとづき、その後おのずから、水戸藩とその周辺に言われ出したものであろう。このように、自分の家柄に格別な意味を自負することは、他の諸大名でも見受けられる。
たとえば彦根藩井伊家では、家康から京都守護の密命を受けた家柄と信じ、津藩藤堂氏は上方鎮撫の特旨を受けたと伝えるのがその例である。ただ水戸藩では、御三家であるから、その看板が大きかったのである。
〔参考〕
【参考文献】
『義公没後三百年 光圀―大義の存するところ如何ともし難く』茨城県立歴史館 平成12年11月
『水戸市史 中巻1』 水戸市編纂委員会著 水戸市役所 1991年
『県史シリーズ8 茨城県の歴史』瀬谷義彦・豊崎卓著 山川出版社 昭和62年8月
『大系日本の歴史⑨ 士農工商の世』深谷克己著 1993年4月
『世界大百科事典 16』 平凡社 1968年9月