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つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

水戸黄門漫遊記 ”水戸黄門”像の形成と水戸藩「御三家」の弊害 

2023-06-21 | 茨城県南 歴史と風俗

 「御三家」の威光と弊害

〔御三家としての権威〕
 副将軍説がたとえ確かなものではなかったとしても、御三家としての権威は諸大名とは格段の違いがあり、水戸藩の武士や領民までも、他家に対して御三家の威光を振りまわす気風が強かった。たとえば、御三家の通行のときは、先払いの者が、「シタニロ、シタニロ」(下に居ろ、下に居ろ)と制止声を掛け、往来の士民は道脇に土下座する習わしであった。  

 そのため諸大名、その家来たちは御三家の行列に会わぬように用心し、あらかじめ見張を出して御三家が来ると判れば、急いで横道へ逃げかくれた。また道中の宿場では、御三家の通行のときは特別に念を入れて宿中を清掃し、その本陣では通行三日前から諸家の休泊を断わる定めであった。

〔権柄、諸事特権を揮った〕
 そのほか諸家休泊の宿場に差立ててある宿札・張慕なども、御三家が通行するときは、先払いの者が権柄づくで取りはずさせた。御三家の家来も公用で往来する時、諸事特権を揮ったが、特に紀伊・水戸両家の家来は威張って道路を場広く通行するので、諸家はもちろん、幕府の役人でさえ、かかり合いを恐れて、道をよける有様であった。 

 万事厳重な取締まりを行なうべき関所でさえも、御三家の家来だと寛大に取扱った。水戸のある武士が仙台方面へ湯治旅行をして、仙台領と相馬領の境、駒が峯関所に差掛ったとき、もし関所役人に見咎められたならば、どのように答えようかと心構えしたが、若党・槍持ちを供にし駕籠、馬で通行する「水戸ノ士ナレバ誰何セズ」自由に通過できた。

 更に阿武隈川の渡場では、船頭が故意に「川留」(かわどめ)といって、舟を出さず、内密に舟渡しを頼む客から酒手を食り取ったが、水戸の家来だというと素直に舟を出し、また道中人足も水戸家の荷札を付けた荷物は、丁重に取り扱った。 

 近世史上、最大の文化事業である「大日本史」編纂も、御三家の威光があったからこそ遂行できたのである。諸事権式高く、文書を秘蔵して他に示さなかった京都の堂上方や京・奈良の古社寺が、たとえ全部でなくとも史料の閥覧筆写を許し、

 また諸大名の領内でも水戸の家臣たちの史料採訪の際は、大いに便宜を計った。西国を九州の涯まで出張した佐々十竹(宗淳)の復命書に、到る所の大名に厚過を受けて、かえって気詰りで自由に調査ができないこともあったが、「殿様御威光之程言舌にのべ申事不罷成候」と感激している。 
                  
 このように水戸家の威光が強いので、幕府の役人や諸大名は、水戸家の家来たちにまで一目を置いた。そして水戸の領民と他領の者との訴訟事件には、明白に水戸領民が非理であっても有利に裁判し、幕府領の者が水戸領民を相手取って訴訟を起こしたときでも、なるべく事件を内済として、荒立てないように取計らった。

 他領民は相手が水戸領民だというので、主張したいことも押さえて判決に服した。また幕府の役人が水戸領分の者を召捕り、あるいは呼出すときも、水戸役人への通達に特別の配慮をした。

 要するに、水戸の士民は他とは格別の優越感を持っていたのである。

 その優越感がしばしば他領民を苦しめ、全国共通の規則や、他領の禁令を無視する特権的行為となった実例も少なくない。たとえば宝暦11年(1761年)、笠間藩の鳥見役の者と水戸領の上泉村弥左衛門との紛争事件につき、水戸側では相手に非分の事を申懸けても御威光をもって理分を得ると考えて、権柄の仕方があり、そのほか同様な事件がたびたび起こるので、水戸の奉行から町方、村方へ厳しくこのような事件を取締るべきことを命じた。

 それと同時に笠間の城下へ商いに行った水戸城下の者が、夜中居酒売りを禁止する笠間藩の法令を無視して酒を出させ、その後に立ち寄った馬子たちと共に権柄ずくで無理に飲酒したことがあり、水戸の奉行は、町方に対して坂締まりを指図した。
  
〔規則を守らず、無理に便宜を強要、弱い者いじめ〕
 そのほか、水戸の家来だといって、高慢な態度を取り、宿場の人馬継立の規則を守らず、無理に便宜を強要したり、宿場役人の取扱い振りに勝手な難くせを付け、町人・百姓や馬方など弱い者をいじめる者が少なくなかった。

 それらの中には、偽水戸人もまじっていたであろうが、また商人などで「水戸御用」の名儀を借りて私用を達したものもあった。しかし中期のころ、御三家の家来などの横暴が交通制度を乱すほど甚だしくなったので、慕府はたびたびこれを制する触書を出し、水戸藩でも幕令の趣旨に従って禁制を下した。

 水上交通でも、御三家の船は特別に取扱われたが、とりわけ水戸家の手船および御用の商人船などは利根川・江戸川・隅田川に多数往来し、幕府の川船役所(関東地方の川船を取締まる)の規則を無視することがあったので、たびたび紛争の種をまいた。
 以上のような特権意識が、江戸時代の水戸人の気質の中にある特殊な気位、というようなものを作り出したことは否定できない。

水戸黄門諸国漫遊記の誕生
 実在の徳川光圀はその生涯において旅らしい旅をしたことがない。水戸と江戸の往復、あと祖母が建立した寺院がある鎌倉を何度か訪れた程度であった。だが光圀に代わって多くの家臣が旅に出ている。
 光圀は歴史書「大日本史」編纂のため儒者を集めて彰考館を設立したが、その史料収集のため多くの儒者を諸国に使わせた。その諸国を訪れた儒者に佐々宗淳、安積澹泊という人物がおり、この二人が後の助さん、格さんのモデルになったと考えられている。 

 徳川光圀に関する創作は江戸時代に存在していたらしい。19世紀初頭の水戸藩儒学者石川久徴(宝暦6=1756年5月13日生、天保8=1837年没)の『桃蹊雑話』(文政10、1827年)では水戸領内を光圀がお忍びで歩き、古墳を発見したり洞窟探検に出たりした話がある。

               
 また明治になって発見された18世紀半ば宝暦年間(1751~1761年)に書かれたとされる小説「水戸黄門仁徳録」では虚実織り交ぜて光圀の生涯が描かれている。
    
   
   http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/882051/26  
  この中で、幕府の要人の陰謀を防いだり、怪異に立ち向かったりといった冒険譚になっている。 

             
 江戸時代における黄門像は、幕府の内紛やお家騒動に際し、悪人の姦計を阻止し、正しいご政道をおこなう天下の副将軍、そして引退後は各地を巡見していろいろな事跡にかかわり適正に処理するスーパーマン的人物であり、それを水戸光圀に託して漫遊譚が生まれた。

 もともと、水戸藩内においては江戸定府のものと水戸在住の者の意思疎通のまずさから来る対立、いざこざがあり、藩の外の者に対しては「御三家」の威を借り横暴な態度で臨む風があり、これに対する反発があったので、“水戸黄門”のような人物が悪人を懲らしめることに喝采を送る土壌があった。
 横暴な大名たちや権威に対する批判を光圀という人物に託してこの水戸黄門像になっていったのであろう。
   


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