教員になった最初の年、担任した都立肢体不自由養護学校の1年生。
たしか15人の子どもたちだった。その後、3年生まで担任した。
人手が足りず、保護者が給食介助の当番なって学校に来ていた時代。
まだ、車いすの重度の障害者が外に出ることが難しかった時代。
保護者のみなさんとは夏休みなどに親子旅行を計画。家族ぐるみの
付き合いがあった。
そのうちの一人のひろ子さんと40数年ぶりに会うことができた。
お父さん、お母さんも元気で、突然の訪問にも喜んで迎えていただいた。
教え子のひろ子さんは50歳になったという。
でも、すぐに40数年前の小学校一年生の「ひろちゃん」と「新米の先生」
に戻って、お互いの近況報告に花を咲かせた。
お母さんの40数年間の話を聞きながら、想像できないほどの困難な中でも
さりげなく、みんなと力を合わせ、助け合い、励まし合いながら生きてきた
その芯の強さに深い感動を覚えた。
美しいお母さんの横顔と変わらぬ笑顔のひろ子さんに会えて嬉しい一日でした。
初めての海外旅行はイタリア。生協のツアーだった。
フィレンツェのウフィツィ美術館の入場待ちの時間に描いた。
確か市庁舎の建物。20年前のスケッチ。
たしか15人の子どもたちだった。その後、3年生まで担任した。
人手が足りず、保護者が給食介助の当番なって学校に来ていた時代。
まだ、車いすの重度の障害者が外に出ることが難しかった時代。
保護者のみなさんとは夏休みなどに親子旅行を計画。家族ぐるみの
付き合いがあった。
そのうちの一人のひろ子さんと40数年ぶりに会うことができた。
お父さん、お母さんも元気で、突然の訪問にも喜んで迎えていただいた。
教え子のひろ子さんは50歳になったという。
でも、すぐに40数年前の小学校一年生の「ひろちゃん」と「新米の先生」
に戻って、お互いの近況報告に花を咲かせた。
お母さんの40数年間の話を聞きながら、想像できないほどの困難な中でも
さりげなく、みんなと力を合わせ、助け合い、励まし合いながら生きてきた
その芯の強さに深い感動を覚えた。
美しいお母さんの横顔と変わらぬ笑顔のひろ子さんに会えて嬉しい一日でした。
初めての海外旅行はイタリア。生協のツアーだった。
フィレンツェのウフィツィ美術館の入場待ちの時間に描いた。
確か市庁舎の建物。20年前のスケッチ。