〈クマの殺処分に「かわいそう」の抗議〉「(クマの代わりに)お前が死ね!」の暴言も…ネット社会で巻き起こる論争に抜け落ちていること
Wedge より 241213 林 智裕
『「友だちでした。何も言えない」クマに襲われたとみられる遺体、北大生と判明…キャンパスで沈痛な声、水産学部長「志半ばの若い命が失われたことに深い悲しみ」』──。
今年4月に筆者が上梓した拙著『「やさしさ」の免罪符 暴走する被害者意識と「社会正義」』冒頭の記述である。
本の執筆を始めたちょうど1年前のこの時期、クマによる被害人数は環境省が統計を取り始めた2008年度調査以来で過去最悪となっていた。
全国統計では11月の暫定値時点で22年(76人)の2.8倍以上の212人、死亡例は22年の3倍となる6人に及んだ。
今年も昨年に続き、日本各地で記録的なクマの出没が相次いでいる。秋田市内のスーパーでは、従業員を襲ったクマが3日にわたって立てこもる事件まで発生した。
⚫︎人里に出没するクマの殺処分を「かわいそう」と抗議するのは正義なのか(Freder/gettyimages)
ところが、クマの殺処分には反対する声も相次ぎ、行政には抗議の電話が殺到している。
これら抗議の大多数は、他人事でいられる地域からのものだ。安全圏から「可愛いクマが可哀想」「命をまもれ」などと安易に抗議すれば、自分が「やさしい」「ただしい」「知的」「いい人」「ヒーロー/ヒロイン」になれたかのような自己満足を手軽に感じることができる。一方で、クマの出没リスクに直面している当事者、被害に遭っている地域にとってクマの殺処分は死活問題だ。
ところが、当事者の事情など抗議者にとっては「自己満足を邪魔するノイズ」でしかない。事実、抗議の矛先は被害者家族にまで向けられた。中には「(クマの代わりに)お前が死ね!」などの暴言さえ珍しくない。
「秋田県から人間を追い出せば全てが解決する」などと主張する者まで現れた。抗議者側が、いかに当事者の人権や地域を軽んじているかが垣間見える。
⚫︎クマの出没とNIMBY問題の構造的類似
これらの現象を単なる感情論として片付けるのは容易だが、そこには社会学的視点で捉えるべきNIMBY(Not In My Back Yard:私の家の裏庭には持ってこないで)問題としての意味がある。
NIMBY問題とは、「公共のために必要な事業や施設であることは理解しているものの、自分の近所で行われることは反対する」という住民のエゴイズムに使われる概念である。主に空港や工場、発電所、ゴミ処理場、刑務所などが槍玉にあげられ、ときに保育園や幼稚園、児童相談所、病院や特別養護老人ホームなどが対象にされることもある。
これも前掲した書籍に記したが、近年では「公共のために必要な事業や施設であることは理解している」前提や公共と「裏庭」の境界すら見失い、たまたま自分の視界に入った心的不快の排除、承認欲求などの自己愛を満たすこと、あるいは何らかの政治党派性に都合の良い主張ばかりが肥大化したケースも見られる。
代償となる心的・物的・時間的コストやリソース、解決努力や譲歩といった負担の全ては他者に丸投げした上で、感謝どころか「悪役」として無限に叩けるサンドバッグにさえしようとする。
挙句、それら甘えやエゴを「やさしさ」「社会正義」「被害者側」「アドバイスを与えてやった功労者」であるかのように正当化する立ち居振る舞いさえ珍しくない。
クマをめぐる抗議活動も、この構造に類似性を持つ。
都市部やクマが生息しない地域に住む、本来であれば何ら当事者性を持たない抗議者が、現地のリスクや生活環境に無関心なまま当事者を差し置き、「クマを殺すな」などと「被害者」「当事者」然として声を上げる。
一方で、クマ出没リスクに直面する地域住民や行政といった本来の当事者や被害者は苦しい実態を理解してもらえず、むしろ「悪役」のように糾弾される立場に追い込まれる。
「自然を守れ」「生き物を殺すな」という大義名分は、クマ駆除に反対する抗議者の主張を正当化する強力な論理として機能していると、抗議者側は見做しているであろう。
しかし、その裏には自己満足・免罪的な「やさしさ」(優しさ/易しさ)が潜む。
それら『「やさしさ」の免罪符』がいかに近視眼的であり、現実や人権を軽んじた詭弁・暴力・ハラスメントであるかを可視化させる必要がある。
クマが脅威とならない地域からの抗議者らは、現地の被害など、まるで「取るに足りない辺境で起きた他人事」のように思っているのだろう。
だからこそ、実態を真摯に学ばずとも「自分が格上の存在で尊重されるべき」であり「易しく」口出しできると、さも当たり前のように問題や当事者全てを見下している。
要するに、彼ら彼女らにとって自分の視界内から「クマが殺される」という不快な出来事が排除されることは、地方に暮らす人々の生活や人権、命よりも遥かに重いということだ。
今、社会で議論されるべきは「クマ殺処分の是非」などでは全くない。いかにこうしたノイズに相応の代償を返し、理不尽な暴力から当事者と地域を守るかだ。
⚫︎「やさしさ」が生む分断と社会正義の暴走
こうした「やさしさ」の問題は、様々な社会運動に共通して見られている。
身近で分かりやすい例としては、たとえば都市開発やインフラ整備に伴う「樹木の伐採反対運動」も挙げられるだろう。
2024年夏、かねてより燻っていた東京都の明治神宮外苑の再開発をめぐる反対運動が話題になった。東京都知事選でも蓮舫候補が「いったん立ち止まる。都知事選の争点にしている」と主張し、都による環境影響評価や、開発が可能となった都制度の適用過程について「厳格に検証する」と訴えたことで更に注目を集めた。
反対派の主張は「歴史的な景観を守れ」「緑を破壊するな」という感情的訴えが中心であったが、実際の開発計画には新たな植樹や持続可能性を考慮した取り組みが含まれていた。
小池百合子候補(現都知事)は蓮舫候補とは対照的に、「争点にならない。なぜなら今立ち止まっているから」と説明。事業主体である民間事業者に樹木保全策の提出を求めているとした。「イチョウ並木が切られるとのイメージがあるが、そうではない。むしろ樹木の本数は増える」とも述べた。
こうした反対運動は、自然保護という「やさしい」大義名分のもと、計画の全体像や将来的な利益、ときに事実さえも無視した感情的な論調に帰結しがちになる。
詳細は記事「彼らはなぜ神宮外苑再開発反対のデマに乗ったのか(加藤文宏)」で述べられているが、明治神宮再開発反対運動には、数々のデマも発生していた。
これらの目的は「当事者の為」なのか。そもそも「当事者」とは誰を指すのか。
⚫︎当事者を無視する〝批判〟
こうした状況は、今年1月に発生した能登半島地震の復興を巡る議論にも見られる。
発災直後から、被災地には遠方からのデマや、それらを基にした身勝手で現実離れした「べき論」がぶつけられた。その一端について、詳しくは能登半島で自らも被災した方自身が以下に綴っている。
『令和6年能登半島地震にかかる風評・流言・誤解の記録検証について~もう一つの「震災被害」を記憶する~』
1.地震直後も道は空いていた、渋滞は嘘だ
2.被災地への救助部隊派遣が遅いし少なすぎる、政府の怠慢だ
3.石川県は最初ボランティアに来るなと言ったが手のひら返しした
4.被災地がボランティアを拒んだせいでボランティアが来なくなった
5.ボランティアから参加費をとるのはおかしい
6.被災地を見に行ったがまだ「瓦礫」が片付いてない、怠慢だ
7.二次避難者から料金を徴収するのは酷過ぎる
8.万博/宿泊割/ブルーインパルス飛行/政府外遊をやめてその予算を復興支援へ回すべき
⚫︎おわりに.行政・政治を動かす為にデマや誇張は許されるか
能登半島では今もなお、復興復旧が不十分な場所ばかりを敢えて探し「政府の対応が悪い!」と主張したがる人々も少なくない。
一方で、復興復旧は政府と被災地、当事者らが協力して推し進めてきた。
当然課題も残るが、既に驚くべき成果を挙げた部分もある。それらを知ろうとすらせず、外野から「やさしい」批判をすることは、同時に被災地の努力と成果全てを「上から目線で」否定・侮辱すること、熊害に安全圏から文句を付けているに等しい行為にさえ繋がりかねないことに注意するべきだ。
残念ながら、被災当事者への侮辱を隠そうともしないケースも既にある。
意に添わぬ被災者に対し「じゃあ、ずっと瓦礫の下でお過ごしください」と言い放った者がいた。「能登ウヨ」(ネット右翼=ネトウヨという俗語・侮蔑語から)呼ばわりする者もいた。
これらは「(クマの代わりに)お前が死ね!」と言い放った者と何が違うのか。
⚫︎社会的解決に向けた課題
クマ殺処分や伐採問題、能登半島地震など数々の事例から見えてくるのは、「困難に直面した現実の当事者」を差し置いて、当事者性・被害者性・発言権を奪おうとする「外部の無責任な理想主義者」に社会がどのように対処すべきなのかという課題である。
無論、現場のミクロ的な視点からだけでは見えない、解決できない課題もある。
理想主義の全てを否定する訳ではないし、外部の人間が当事者に一切関わるなというつもりも全くない。
ここで問題になるのは、災害などの緊急時にさえ興味本位や自己愛を満たすこと、あるいは何らかの政治党派的な主張ばかりが目的の、現場と謙虚に向き合わず、コストも責任もリスクも負う気すら無きまま「当事者」「被害者」になり替わろうとする雄弁な部外者たち、そして、それらを無批判に歓迎し招き入れてしまっている人物や社会だ。
「広く多様な共事者視点を交えた議論」とでも掲げれば「やさしい」「正しい」「知的」「冷静」「いい人」のように振舞えるかも知れない。
それは、救急車の不適切利用にも似ている。消防隊が通報した人を誰も拒まないことは結局、限りあるリソースの奪い合いをもたらす。
社会問題の場合、その議題や世論における支持は声の大きいものや数多くの投稿によってときに「事実」や「社会的正しさ(コンプライアンス)」をも凌駕してしまう。
⚫︎誰もが通報できる119番通報は、時に声を上げられない急患を苦しめる
そうしたリソースの奪い合いは非常時であるほど、声をあげる力無き急患や被災者など、最も危機的な弱者に襲い掛かる。
たとえばクマ出没問題で命の危機にある被害当事者に、「クマ殺処分反対派も交えて、共に冷静な議論するべきだ」などと迫っても、被害当事者は全く救われない。
東京電力福島第一原子力発電所事故の場合、部外者からはデマだらけの「放射線被曝による住民の健康被害」ばかりが声高に叫ばれた一方、それら社会不安の拡散こそが被災者へ健康被害や震災関連死をもたらしたことはほとんど顧みられなかった。
これまで社会問題を巡る議論では、無責任な外部からの干渉を批判すれば「分断を煽る」「排他的・暴力的」と見做され、逆に当事者や被害者の言葉を奪う行為を擁護・正当化することが「やさしさ」「正しさ」のように扱われてきた。
それらを喝破し安易な免罪符を与えないことが、今後様々な社会問題の解決に求められる大きな課題と言えよう。