学術論文の無料公開求める「プランS」、科学界に革命をもたらすか?
swissinfo.ch より 210325
『スイスの学術刊行物に占めるオープンアクセスの割合は、1位の英国(52.3%)に次いで2位(51.8%)。欧州委員会が2009~18年の期間を評価した (Keystone / Regina Kuehne)』
インターネット上で公開された研究成果や学術論文を誰でも無料で閲覧できる「オープンアクセス(OA)出版」が今年1月に始動した。
世界中の研究資金助成機関が支援する「プランS」と呼ばれるこの構想は、既に科学界に変化をもたらし始めている。ただ、成功するかどうかは、大手出版社への継続的な働きかけと、スイスなど影響力のある国がどれだけ参加するかにかかっている。
もし「プランS」が成功すれば、学術論文にお金を払う必要がなくなるかもしれない。今年1月1日に発効した欧州主導の同イニシアチブは、学術刊行物を全てオンラインで無料化するという、これまでの研究界の在り方を大きく変えるものだ。20以上の主要スポンサーのサポートを受け3年前に立ち上がった同イニシアチブは、研究資金の調達と還元という、購読料で成り立っていた従来の構造からの脱却を目指す。
今日、年間約200万件の学術論文が約3万種類の専門誌に掲載されているが、自由に読めるのはそのうち約3分の1だ。
公的助成機関は長い間、出版社に購読料を支払わなければ、自ら研究資金を援助した科学者の論文でさえ見ることができなかった。また、論文を執筆した科学者に出版社から掲載料が支払われることもなかった。
スイスの大学機関が2015年に有料記事250万件の閲覧に支払った金額は7千万フラン(約82億円)。皮肉なことに、その論文の多くは自身の大学の研究者が執筆したものだった。
オープンアクセスを推進するこのイニシアチブの背景には、公益信託団体ウェルカム・トラスト、ビル&メリンダ・ゲイツ財団、ノルウェー、フランス、イタリアの国立研究助成機関など、数多くの国際共同事業体が名を連ねる。
イニシアチブのエグゼクティブ・ディレクター、ヨハン・ルーリック氏は、このイニシアチブの資金提供を受けた出版物は「公開猶予期間や購読料なしで出版と同時に公開され、世界中からアクセス可能にする」よう求める。
オープンアクセスの科学ジャーナルを扱うローザンヌ拠点の出版社フロンティアのカミラ・マークラム社長は、「プランSは、学術出版業界を大きく揺るがした」と語る。
⚫︎パンデミックに関する論文
研究論文の購読料から利益を得る構造から脱却し、科学的な研究結果を広く自由に共有するよう求める声は、既に何年も前から上がっていた。新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)の影響もあり、その声はこれまで以上に高まっている。
2015年、複数の上級医療研究者が書いた公開書簡が米ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された。研究者らはその中で、1982年に購読者限定の雑誌に掲載されていたエボラ出血熱の危険性を警告する論文を引き合いに出し、論文が無料であったらエボラの大流行は防げたはずだと指摘した。
過去1年間の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックを通じ、学術論文に簡単にアクセスできることの重要性は「疑う余地のないほど明確に」なったとマークラム氏は言う。そして米政府が2020年以前に発表されたコロナウイルスに関する既存の研究を全てオンラインで公開し、あらゆる研究者が閲覧できるようにしたと指摘する。昨年発表されたパンデミック関連の出版物20万件は、すべてオープンアクセスだった。
一方で、がんや呼吸器疾患、循環器疾患、気候変動といった生命を脅かす他の問題に関しては、関連する研究の2~3割程度しかオープンアクセスになっていない。「これは全くお粗末な状況だ」(マークラム氏)
⚫︎改革への風当たり
学術出版の構造変革を目指す「プランS」は、これまでも数々の障害にぶつかってきた。大手出版社や資金提供者の中には署名を拒否するケースもあった。また小規模の出版社の構造改革を支援するためにプロジェクトは1年延期された。そして、オープンアクセス化されていないジャーナルで研究者が論文を発表することを禁じるプランSのルールに賛同できなかった欧州研究評議会(ERC)は昨年、支持を撤回することを決めた。
全出版物の4割以上、また最も権威があり広く流通するジャーナルの大半は、大手出版社エルゼビア、シュプリンガー・クルーワー、ワイリー・ブラックウェルの手中にある。
当初は難色を示していたこれら大手やその他の出版社は、今ではプランSのショックから立ち直り、購読型からオープンアクセス型へとシフトし始めている。
またプランSの影響で、大手出版社はオープンアクセス化を促す「トランスフォーメーション契約」を締結せざるを得なくなった。
これは出版社が図書館や大学などの公共機関と交わす期間限定の契約で、定額料金を支払えば特定のジャーナルに対し無制限にアクセス権を得られるというものだ。また料金を支払った公共機関の研究者は、追加料金なしで研究結果を公開できる。
⚫︎研究者の負担
だが一部の出版社はオープンアクセスで失った資金を回収しようと試みる。そのため研究者の負担は結果的に増えるかもしれない。いくつかの企業は最近、論文出版料(APC)を支払えば、研究者が権威あるジャーナルに論文をオープンアクセスで出版できるというオプションを導入した。
「プランSへの参加を約束する」と公言するシュプリンガー・ネイチャーは昨年11月、ネイチャー誌をはじめとする32誌に掲載される研究論文を無料化するため、著者に最大9500ユーロ(約123万円)の論文出版料を課すと発表した。この法外な料金設定は、学術界で大きな反響を呼んだ。
ネイチャーのジャーナルには厳選された論文しか掲載しないため、審査する論文の数が掲載分よりはるかに多い。その結果、他社よりも多くのコストが発生するとシュプリンガー・ネイチャーは主張する。また、同社は編集者やその他多数のスタッフを抱える。だが批評家たちは、高額な論文出版料金のせいで専門分野、大学、地域間の不均衡が広がる恐れがある警告する。
プランSで価格設定の透明性が改善するかもしれないが、一部の専門分野における高額な出版費用の削減につながるかどうかは不明だ。
例えばベルン大学でプレモダン美術史を研究するベアーテ・フリッケ氏は、この分野で研究を発表する場合、費用が4回発生すると指摘する。まず研究者は画像を購入し、それを公開する使用料を支払い、更に論文出版料金を支払う。そして出版後に図書館がジャーナルの購読料を支払って初めて、この研究にアクセスできる。
「一般的に、記事には15〜50枚、書籍には200枚の画像が付く。画像は1枚当たり約300ドル(約3万円)だ。ざっと計算してみて欲しい」とフリッケ氏は言う。
いずれにしても、大半の研究者には「公刊するか自滅するか」という選択肢しかない。例え一部のジャーナルの出版料が高額でも、そのために権威ある刊行物で論文を発表するのを諦めるとは考えにくい。
ローザンヌ大学のラファエル・ラリーヴ教授(経済学)は、「経済学の分野では、優れたジャーナルのランキングが決まっている。だが若い研究者には、オープンアクセスかそれ以外かという選択肢はない」と言う。
⚫︎様子見のスイス
この間、スイスは少し距離を置いてこの取り組みを見守っていた。スイスはプランSを支持すると表明はしたが、時間的な理由などから署名していない。スイスは既に2016年に同イニシアチブと共通の目的を持つ独自のオープンアクセス戦略を考案しており、スイスの公的資金の援助を受ける全ての学術刊行物を2024年までに無料で閲覧できるよう目指す。
「ゴールド」又は「グリーン」ルート
スイスのオープンアクセス戦略では、研究者はオープンアクセスジャーナルかオープンアクセス書籍のいずれかで研究成果を発表できる。いずれも出版と同時に無料でアクセスが可能。これは「ゴールド」ルートと呼ばれる方法。
もう1つは、研究者がまず有料の雑誌で論文を発表し、6カ月後に無料公開データベースにアーカイブする方法だ。書籍の公開猶予期間は12カ月。これは「グリーン」ルートと呼ばれる。
スイス国立科学財団(SNF/FNS)出資の研究者が最も好んで利用する方法はゴールドルート(2018~19年は22%)、次にハイブリッド(一部無料のコンテンツ以外は有料購読型のジャーナル)(17%)、そしてグリーンルート(14%)。
欧州委員会は、2009年~18年にスイスで発表された論文のオープンアクセスの割合を評価した。
その結果、1位の英国(52.3%)に次ぎスイスは2位(51.8%)。また、ドイツ、スイス、オーストリアの出版物を個別にモニターした結果、過去4年間にスイスで出版された論文の65%がオープンアクセスだった。これは隣国ドイツ(57%)をわずかに上回る。スイスはオープンアクセス出版の分野で欧州をリードする。プランSの主催者がスイスの参加を強く望む理由の1つでもある。
▼ 出版物全体に占めるオープンアクセス出版の割合を国別に見たグラフ。評価期間は2009~18年
●ゴールドオープンアクセス:オープンアクセスジャーナルに掲載された研究
■グリーンオープンアクセス:購読型のジャーナルに掲載され、オープンアクセス・リポジトリ(データベース)でも公開されている研究
◆ハイブリッドオープンアクセス:購読型ジャーナルに掲載され、掲載料を支払って特定の論文だけをオープンアクセス化した研究
▲ブロンズオープンアクセス:購読型ジャーナルに掲載され、掲載料なしでオープンアクセス化した研究
スイス国立科学財団の研究職員トビアス・フィリップ氏はこれに関し、「検討する」とし、スイスがプランSに加盟する可能性も「今年中に議論される見込みだ」と述べた。
スイスでは、プランSの具体的な実施方法が不透明な点がネックだった。しかし、ここ数年でかなり改善したとフィリップ氏は言う。スイスにおける科学研究の大部分を助成する国立科学財団は、欧州の研究開発支援枠組み「ホライズン・ヨーロッパ」が研究発表の方法にプランSの原則を含めるか、その動向に注目している。もしそうなれば、スイスがプランSに対しどのように対処すべきか「本格的に再考する」新たな理由になるだろうとフィリップ氏は述べた。
一方、スイスの高等教育機関の統括組織スイスユニバーシティーズ(suissuniversities)は、3大出版社のうち2社と「トランスフォーメーション契約」を締結。エルゼビアは1500万フラン、シュプリンガーは1300万フランで契約した。ワイリーとは現在交渉中。スイスで閲覧されている論文の6割は同3社が所有する。
こういった取引やプランSの台頭は、科学出版の世界が転換期を迎えたことの表れだろうか?オープンアクセスコンテンツの先駆者となったフロンティアのマークラム氏は、既に7年前にこういった変化が訪れることを予測していたが、「実際にこの目で確かめるまでは確信できない」と、変革が未だ実現していないことを示唆した。
「出版システムの改革は遅々として進まない」と同氏は言う。「変化を求める声や取り組みは多いが、転機はまだ訪れていない。出版業界の体質は、非常に保守的なためだ」
⚫︎学術論文の発表が多い国はどこ?
世界中で毎年発表される学術論文のうち、スイスの研究機関が占める割合は約1.7%(2016年)。これに対し米国は23%、英国は7%、ドイツは6%。スイスの大学機関で論文を最も多く発表したのは連邦工科大学チューリヒ校(16%)、次いでチューリヒ大学(15%)、ジュネーブ大学(10%)、ベルン大学(10%)、さらにそれぞれの大学病院が続く。
(英語からの翻訳・シュミット一恵)
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