goo何気無い日々が心地よい安寧

何気無い日々が続く様に。生きていく事の大変さがカナン。ある種空気の様な存在になりたいもの。

歴代天皇は「徳を積む」ことにこだわった 昭和天皇の帝王教育はどうだったのか 202204

2022-04-18 00:51:00 | なるほど  ふぅ〜ん

歴代天皇は「徳を積む」ことにこだわった 昭和天皇の帝王教育はどうだったのか
  日刊ゲンダイDIGITAL  より 220418



 昭和天皇から上皇さま、天皇陛下へと…

 悠仁さまの帝王学はどうなっているのか「愛子天皇」待望論と秋篠宮家の事情で定まらぬ未来

 悠仁さまに「帝王学」が必要ではないか、と言われるときの「帝王学」とは、おそらく昭和天皇が受けた「帝王教育」を想定してのことだろう。では、それ以前の歴代天皇はどんな「帝王教育」を受けてきたのだろうか。

 2022年2月21日、天皇陛下はこんなことを述べた。

「武ではなく文である学問を大切にされてきたことも、天皇の歴史を考えるときに大切なことだと思います。例えば、鎌倉時代の花園天皇が皇太子量仁親王に宛てて書き残された、いわゆる『誡太子書』においては、まず徳を積むことの大切さを説かれ、そのためには道義や礼儀も含めた意味での学問をしなければならないと説いておられます。このような歴代の天皇の思いに、深く心を動かされました」

 鎌倉時代と室町時代の間に南北朝時代という争乱の時代があった。花園天皇(1297~1348年)はその少し前の天皇で、「帝王学」に「帝範」のご進講を受けていたといわれる。「帝範」とは唐の太宗が太子(皇太子のこと)に与えた書で、その頃の宮廷では、「群書治要」や「貞観政要」とともに「帝王学」の教科書といわれてきた。ただ、いずれも唐の時代の「君主論」であって、日本の天皇には役に立たなかったといわれる。

 花園天皇が譲位して後醍醐天皇の時代になると、時の皇太子である甥の量仁親王(のちの光厳天皇)に戒めの書を渡したが、これが「誡太子書」である。

 そこには、例えば「徳がないのに王侯の上に居り、功もないのに君臨するというのでは、自分でも恥ずかしくはありませんか……」といった厳しい言葉が並び、皇太子に強く自戒を求めている。要は、徳を積まなければ天皇といえども人民に見放されますよ、という警告である。現在にも通じるということで、天皇陛下は感銘を受けたのだろう。

 歴代天皇が皇太子に「訓誡書」を贈っていたようだ。
そこには「賞罰を明らかにして愛憎をふりまわしてはいけない」「平等に配慮して好悪にかたよってはいけない」など、人間的感情を捨てて没個性化をすすめている。
 感情をあらわにすると利用されるからだ。「帝王学」というより処世術のように読めるが、おそらく権力のパワーバランスに立っている天皇家の事情がそうさせたのだろう。

 かつての「帝王学」とは、父子相伝のように、天皇が自ら皇太子に教えることだったのだろう。考えてみれば、天皇の苦悩や覚悟は天皇のみぞ知るのだから、当然かもしれない。

 明治天皇は小さい頃から、父・孝明天皇から和歌を詠む教育を受けたが、これは「帝王学」というより、書道などと並んで「オク」(天皇家のプライベート領域)における素養のようなものだ。維新が成って東京に遷都すると、改めて軍事や外国語、西洋の政治などを学ぶが、昭和天皇のような大掛かりなものではなかった。

 ところで、新政権ができると明治天皇は頻繁に地方を巡幸した。それは、当時は天皇の存在すら知らない人が多かったからだ。とすれば、明治以前は庶民に天皇の徳を示していないのだから、「帝王学」は知識のみで実体はなかったということだろう。

 大正天皇は初めて学習院で正規の教育を受けた天皇である。ただ、生来、体が弱かったせいか、中等科1年で中途退学し、東宮御所で東大の教授陣から個人授業を受けることになった。漢詩などには非凡な才能がある一方で、肝心の軍事などには興味を示さず、後日、陸軍や海軍の大演習を統監することもあまりなかったという。大元帥というよりもリベラリストだったのかもしれない。いかにも大正デモクラシー時代の天皇である。

 ただ、この「帝王教育」は為政者にすれば失敗だったようで、のちに昭和天皇の「帝王学」が国家的事業となったのも、この反省の結果だったのかもしれない。(つづく)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 💪 1日6分、週30分の筋力トレーニングで健康寿命が延びる?... | トップ | 🚶‍♀️…向島農道…Alp 220418 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿